将軍の御成(おなり)

江戸時代、将軍が城を出て市中に赴くことは「御成」と呼ばれた。「御成」は徳川家の菩提寺である寛永寺や増上寺への参詣の時くらいであったらしいが、警戒は厳重で、沿道の人々は火も焚くことができず、外へ出ることもできなかった。この「御成」がおこなわれた頃の江戸を実際に知っている内藤鳴雪(1847-1926)や加藤弘之(1836-1916)は次のような証言を残している。

この二つの寺(注-寛永寺・増上寺)へ将軍が参詣される、いわゆる『御成』の日には、その沿道の屋敷屋敷は最も取締を厳重にし、或る時間内は全く火を焚く事さえなかった。沿道の大名屋敷では、外へ向った窓には皆銅の戸を下ろし、屋敷内の者は外出を禁ぜられ、皆屋敷内に謹慎していた。幕府から外出を禁じられたのではないけれども、もし誰か不敬の行為でもすると、藩主の首尾にも関係するから、各藩主が禁じていたのである。(内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』二)

私が知って居る時分の様子を御話すると、将軍が滅多に外に出られると云ふことはない。上野の寛永寺、それから芝の増上寺、それに仏参に出られるといふことが大抵定例である。其時には総て其御通りになる所は人を通さないのである。通行止にしてしまう。そればかりでない。道筋には火を焚くことが出来ない。飯を炊くことも出来ない。煙を立てるといふことも出来ない。さうして家の内に居って、唯町人は其処に坐って居る風をして居るけれども、武家はもう御通筋に居ることが出来ない。それはどう云ふことだと云ふと、刀を帯して居るから其為に武家は御通筋には一寸通れない。それであるから上野でも芝でも御道筋といふものは人間は些とも通らない。唯医者と産婆だけは通行を許したと云ふ話であります。(加藤弘之『学説乞丐袋』第三十「過去七十年の追懐」)


加藤弘之は上記書の中で「是は拵えた話であるか知らぬが……」と断わり、次のような話を記している。「御成」の時、将軍の通る道筋は通行が禁止されたから、街はひっそりとして人影を見ない。このさまを不審に思った将軍は近侍の者に尋ねた。「江戸の街はたいそう賑やかと聞いているが、そうではないのか」。近侍の者が「普段は賑わっているのですが、御成の時は人止めを致しますので静かなのでございます」と答えると将軍は言った。「そうか、それでは今度は御成でない時に、出かけてみることにしよう」と。「拵えた話」ではあろうが、世間から隔離された江戸時代の将軍の一面が示されている。

【典拠文献・参考文献】
加藤弘之『学説乞丐袋』弘道館 1911年10月
高坂正顕『明治思想史』燈影舎 1999年11月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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