高浜虚子、受勲を子規の墓前に報告する

参りたる墓は黙して語らざる


高浜虚子、昭和29年(1954)10月25日作の句。詞書には「十月二十五日 子規の墓に参る。」とあるだけだが、このときの墓参は、文化勲章を受章することになったということを亡き子規に報告するためのものだった。同年11月3日の文化勲章親授式当日、虚子は同句を引いて受章のよろこびを語っている。

子規の立派な仕事を続けたおかげです。「参りたる墓は黙して語らざる」これは子規の墓にお参りして受章を報告したとき子規はただ黙って聞いてくれたという心境です。(昭和29年11月3日付「朝日新聞」夕刊)


親授式当日、虚子は「十一月三日 宮中参内。文化勲章拝受。」の詞書で次の句を詠んだ。

我のみの菊日和(きくびより)とはゆめ思はじ


子規をはじめとする師友とこの栄誉を分かつべきであるとの思いが句に表されている。

虚子に文化勲章の授与が決まったときの新聞記事を引いておこう。

貫き通す主情主義 五十年もの間、虚子がこの国の俳壇を牛耳ってきたということは考えてみれば大変なことだ。その間、一日のごとく「花鳥諷詠」を説き、現俳壇の九割までが彼の門人によって占められているということも。
彼は、先生である子規の“写生”にその創作の土台をすえて、つらぬいてきた。いまの日本に、彼の「花鳥諷詠」をうけいれる十分な地盤がある以上、彼はやはり国民的な偉大な存在であることをやめないだろう。しかし彼の写生は、斎藤茂吉の”実相観入”という深いものにはならず、あくまで「技法」として彼の主情を支えているにとどまることを不満に感じている俳人も少なくない。
虚子はワンマンだといわれる。彼の自分を信ずる強さは類がない。あの戦争中でも、彼の高弟の草田男が特高にいじめ抜かれ、特高はこの草田男をおとりにして、虚子をくじこうとねらったときも「時がくれば分る」といって、陰に陽に草田男をかばい通し、時代に便乗しなかったといわれる。そういう強さも持っている。
現在は「ホトトギス」の経営も雑詠の選もみな長男の年尾氏にゆずって、表面は隠退したかたちだが長寿に恵まれ、不死身の強さで作句を怠らない。そして、とてつもない主情的な句をつくっては人をおどろかしたり、困らせたりしている。(昭和29年10月14日付「朝日新聞」)


子規は虚子の才能を早くから見抜いていたが、これほど大きな存在になるとまではさすがに予見し得なかったであろう。

【典拠文献】
高浜虚子『虚子五句集(下)』岩波文庫 1996年10月

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テーマ : 歴史上の人物
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