中島紀行-神浦から大浦へ(1)

中島(忽那島)は忽那諸島の中では最大の面積(21.66k㎡)、人口も最多(3340人・平成23年6月現在)で、周辺他島の人からは「本島」と呼ばれている。

▼ 神浦(こうのうら)
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▼ 同上
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神浦は島の西南部に位置する。南北朝時代、南朝方について活躍した忽那義範の拠点はこの神浦にあったと伝えられている。

▼ 瀧神社(神浦)
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平安初期、牛頭天王を祀ったのに始まるとの伝があるが、実際の創始は後代であろう。鳥居は文久3年(1863)の再建。

▼ 「贈従四位忽那義範公表忠碑」(神浦)
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昭和3年(1928)11月10日の昭和天皇の即位の大礼を記念して建てられた(碑の紀年銘は同年同日)。碑表は「贈従四位忽那義範公表忠碑 陸軍大将白川義則書」。碑陰には西園寺源透撰文の「贈従四位忽那義範公勤王略記」が刻まれている。

▼ 同・碑陰
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「贈従四位忽那義範公勤王略記 公諱ハ義範 下野法眼ト称ス(中略)延元二年後醍醐天皇皇子征西将軍懐良親王ヲ此地神浦ニ迎ヘテ保護シ奉ルコと三年 屡賊兵ノ来寇ヲ破リ又衣糧ヲ吉野朝ニ貢シテ其軍勢ヲ助ケ常ニ精忠ヲ輸ス 惜乎 文献足ラズシテ其終ル所ヲ知ラザルナリ 大正四年 大正天皇即位大礼ヲ挙ゲ給フニ及ビ詔シテ従四位を追贈セラル(中略)昭和三年十一月十日 伊予史談会幹事西園寺源透撰」とある。

碑文では、懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の来島を延元2年としているが、現在では同4年(1339)の春に来島、興国2年(1341)の頃まで滞在したといわれている。この間、怱那義範は親王を保護し、島に来襲した武田氏(安芸の有力武士)を泰ノ山城(島の東北の泰ノ山の頂に設けられた城郭)で撃退したりなどした。

【参考文献】
松山市教育委員会編『忽那諸島の歴史を訪ねて』1990年3月

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テーマ : 日記
ジャンル : 学問・文化・芸術

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