由利島-「由利千軒」と儀光寺開創伝説

▼ 由利島
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由利島には「由利千軒」という伝承がある(「二神文書」安永七年・百合嶋詠)。この島にかつて数多くの人家があって繁栄していたという言い伝えであるが、網野善彦(日本中世史)によると、「――千軒」の伝承は全国の各地にあるという。

由利島は、「由利千軒」の伝承をもち、寺屋敷、長者屋敷、船頭畑、鍛冶屋の尻などの地名が残り、矢立明神、儀光寺、毘沙門天などの寺社のあった港町のある島ではなかったかと思われる。こうした「――千軒」の伝承は列島各地に伝わっており、「草戸千軒」の場合のように、発掘によって埋もれた都市の存在が実証されているので、今後、さらにそうした事例は増えると思われるが、(以下略)(網野善彦「残された課題」)


言及されている「草戸千軒」は備後芦田川河口の草戸千軒遺跡で、その地からは中世の都市遺構が発掘されたという。

儀光寺は松山市古三津1丁目にある真言宗豊山派の寺院。天平年間(729-749)、儀光上人が由利島の寺床(大由利の西側山腹の平坦地)に十一面観音像を安置して草庵を結んだのが寺の始まりであるといい、弘安年間(1278-1288)の地震・津波によって、島民は島を離れ、苅屋(三津の神田町・住吉町)・新苅屋(高浜)に移住、寺を現在地に再興したと伝えられている。

▼ 儀光寺
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門前に掲示されている儀光寺の由緒書には「天平年間、伊予灘の孤島由利島に儀光上人が十一面観音像を背負い来たって一草庵を結ぶ」云々とある。

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「由利千軒」の伝承やこうした儀光寺の伝説を持つ由利島は、中世、港町であった可能性が十分あるという。

二神島のはるか南方の海上に浮ぶ小島――由利島については、恐らく中世以来、二神氏と関わりがあったものと思われるが、中世の文書にはいまのところその姿を見出すことができない。
しかし江戸時代の所伝によると、この島は古くは「由利千軒」といわれたほど繁栄した時代があり、事実、寺屋敷、長者屋敷、船頭畑、鍛冶屋の尻などの地字が残っている。そして、寺屋敷にかつて実在した寺院の本尊毘沙門天像は、二神島の安養寺に移され、安置されたともいわれているのである。
また現在の松山市内――温泉郡古三津村大字古三津の真隆山仏集院儀光寺には、天平年中、儀光上人が行基作の十一面観音像を由利島に安置し、建立したのがこの寺のはじまりで、弘安年中に現在の地に移ったという由緒が伝わっている。さらに江戸時代前期のものかと見られる「瀬戸内海図」には、二神島や他の島々はそれらしき姿が描かれているが、とくに由利島にのみ「ゆり」とその名が記されており、この島が意外に広く知られた島であったことを物語っている。こうした数々の伝承、現在まで残る地名に、伝説の「草戸千軒」が見事に中世の港町として発掘された実績をあわせてみると、由利島が、中世、瀬戸内海の海上交通の要地として、小なりとも港町であった可能性は十分にあり、今後、その可能性はさらに深く追究される必要がある、と私は考える。(網野善彦「伊予国二神島をめぐって―二神氏と二神文書」)


江戸時代は無人島、明治初期から昭和40年頃までが有人島であった由利島であるが、江戸時代をさかのぼる中世にはある程度の数の人が定住して小さな港町を形成していたのかもしれない。

【参考文献】
中島町誌編集委員会編『中島町誌』中島町役場 1968年10月
『網野善彦全集』第10巻 岩波書店 2007年7月
『網野善彦全集』第14巻 岩波書店 2009年6月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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