由利島の歴史

▼ 由利島(百合島・油利島とも書く)
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平凡社刊『愛媛県の地名』には、「由利島遺跡」の項があり、島の船溜まり海岸の同遺跡より弥生時代の壺・高坏が多数出土しているという。また、島の東の山腹の夜叉ヶ宿や大谷からは土師系の土器やその破片などが出土しているともいう。

安永7年(1778)の「百合嶋禄(録)」には、この島が二神村(二神島)の「付添いの小島」であり、その磯山は「村方稼ぎ第一の場所」であったと記されている。「付添いの~」は「所属の~」の意。由利島は歴史的には二神島に所属する島であり、二神島=本島(親島)、由利島=属島という関係であった。

この島の歴史は『中島町誌』(1968年刊)に次のように記されている。

由利千軒ゆり込んだ」という伝説があるが、千軒は誤りでも、昔は100軒ほどの民家があり、お寺があったらしい。(中略)
由利島は元禄16(1703)年には無人島であったらしい。寛文4(1664)年に松山城尾谷の鹿10匹を由利島に放ったとの記録があり、さらに享保12(1727)年に松山藩主が鹿狩りをしたとの記録もある。明治11年の地誌下調には「…秣草蔓延し、島民僅か2戸男女皆農を業とす」とある。二神島で食いつぶした者が交際費がいらないので移住した、いわゆる困窮島であった。明治41年の二神島の漁業組合の資料では「由利島5戸26人」とある。(中略)
昭和16年には16戸の常住者があり、夏のイワシ漁期にはさらにこの上に二神からの70~80戸の移住者が加わって活況を呈し、その間は二神島が寂しかった。昭和22年には明神に10戸、納屋場に10戸があったが、そのうち2戸を除いては二神と由利の両方に家を持っていた。昭和24年には明神に6戸で31人、砂浜に5戸で30人が住んでいた。戦時中には山頂に海軍の監視哨が設けられ30人余りの軍人が駐屯し、昭和19年4月22日には水道もとりつけられたが、終戦と共にその施設はとりこわされた。今もここには井戸と軍事施設設営班の石に刻んだ文字が残っている。昭和39年頃には蜜柑栽培や漁業のため、しばらくの間は滞在する人もあったが、冬を越す人はほとんどなくなっていた。
島の北部(大由利の麓)はイワシ網やイリコ(煮干)の干場であったのに対して、納屋場とか砂場とかいう島の南部(灯台のすぐ北の砂浜)には集落があった。この島の全盛期(14~15年間)には8~9戸の常住者があり、その民家が今も無住のまま残っている。(下線は引用者の付加)


由利千軒ゆり込んだ」は、この島には数多くの人家があったが、地震で地面もろとも海中に沈んだという意。民俗学者、宮本常一の調査ノート(昭和26年12月二神島採訪)にも、「由利島は二神島からわかれたもの。伝説によると地震でゆりこんだ。高浜、新刈屋へ移住したといふ」と記されている。

「松山藩主が鹿狩り」-1990年刊の『忽那諸島の歴史を訪ねて』にも、「江戸時代、由利島は松山藩主の狩猟場として鹿が放されていた」と記されている。、

困窮島」-前記宮本の調査ノートには由利島が「困窮島」であるとも記されている。この概念については次回のブログ記事でふれることにしよう。

夏のイワシ漁期~」-昭和初期、由利島を拠点とするイワシ網漁が盛んであった。夏の漁期になると、本島の二神島から多数の人がこの島に移住して、漁をおこない、浜に設けられた釜場でイリコ(煮干)を製造した。全盛期には10基を越す釜が浜にあったという。宮本の調査ノートには、漁期におこなわれるこの由利島移住について、次のように記されている。
「由利島行 7月末から8月初に行く。イワシが来ると島から連絡して来る。持ってゆくもの、布団、味噌、醤油、薪、着物、食料を各自船に積んで持って行く。行ってからエビス祭りをする。(中略)納屋は200所帯入るようになっており、1部屋4畳半ほどである。3-4年で部屋割りがかわる。帰る時に残してくるのは床板くらいに過ぎぬ。(中略)全部で女をいれて150-160人くらい渡る。所帯にして80所帯。大体夫婦位でゆくことになる。次第に減っている。(中略)女は全部イリコ製造にあたっている。網は朝晩が主で多い時は3番くらい引く。巾着(引用者注-巾着網。巻き網の一種)は夜やることもある」。
由利島を拠点とするこのイワシ網漁は、昭和38年で中止された。この漁と由利島への季節移住については、愛媛県生涯学習センターのサイトの記述が詳しい。→http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=15&P_FLG1=4&P_FLG2=3&P_FLG3=2&P_FLG4=2&P_KENSAKU=由利島

海軍の監視哨」というのは、呉海軍警備隊が昭和19年3月に設営したもので、煉瓦造りの指揮所などがあったらしい。

夏の漁期は季節移住者で賑わった由利島であるが、定住者は少なく、昭和40年(1965)頃、無人島となった。人が住まなくなった後も公衆電話があるというので話題になったこともある(椎名誠『あやしい探検隊不思議島へ行く』等)。この公衆電話については、「海岸には、噂の電話ボックスもあった。漂流した人のためにあるというが、すでに電話機そのものは取り外されていた」(大成経凡「無人島の由利島へ」(愛媛新聞2012年1月25日掲載)と伝えられていることも付け加えておこう。

【参考文献】
中島町誌編集委員会編『中島町誌』1968年4月
『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』平凡社 1980年11月
松山市教育委員会編『忽那諸島の歴史を訪ねて』1990年3月
宮本常一『宮本常一農漁村採訪録Ⅴ 愛媛県忽那諸島調査ノート』周防大島文化交流センター 2006年11月
大成経凡「無人島の由利島へ」(愛媛新聞2012年1月25日)

ブログ内関連記事→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1205.html

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テーマ : 歴史
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