津和地島

▼ 忽那諸島の西端の島、津和地島(つわじ-)
面積2.89k㎡・人口432人・世帯数213(平成23年6月現在)
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津和地島は瀬戸内の海上交通の要衝にあたる島で、古くより港町として発展、江戸時代には松山藩の公儀接待所である「お茶屋」が置かれていた。山内譲『中世 瀬戸内海の旅人たち』にこの島についての記述がある。

津和地では、宝暦九年(一七五九)に「干鰯頼母子(ほしかたのもし)」という名前で富くじが始まっている。富くじは松山藩が周辺の有力商人に興行権を与える形で行われ、興行権を請け負った商人は一定の運上銀を藩に納めた。富くじのほかに島々の港町が内海の船乗りたちをひきつけたのは遊女の存在である。津和地の遊女については記録が残されていないが、古老の話では明治時代まで存続していたというから、客寄せの面で一定の役割を果たしていたことは間違いないであろう。(中略)
津和地の例でみると、舟を迎えるにあたって島の人々が最も気を使ったのは、幕府の公用船である。江戸と長崎の間を上り下りする長崎奉行やその配下の役人たち、諸国を視察してまわる巡見使、幕領を支配する幕府代官などが頻繁に立ち寄るようになった。変わったところでは、朝鮮通信使の往来がある。(中略)津和地は通信使の公式の接待所ではなかったが、それでも五〇〇人近い大使節団が七十余艘の船を連ねて移動するのであるから、「御馳走御用」は大変であった。(山内譲『中世 瀬戸内海の旅人たち』「中世の航路と港」)



▼ 常燈の鼻(常燈堂跡)
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寛永14年(1637)、松山藩が津和地港東端の出崎に設置した常燈堂の跡地。市指定記念物(史跡)。常燈は現在の灯台にあたる灯籠で、番所に常時2名の火番(不寝番)がいて点灯したという。

【参考文献】
山内譲『中世 瀬戸内海の旅人たち』吉川弘文館 2004年1月


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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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