正岡子規の母・八重

正岡子規の母八重について、子規は「極めて沈黙にて、他人を評論するなどは成るべく避け給ふ方也」(『筆まかせ』第二編「褒貶」)といい、律は「何事にも驚かない、泰然自若とした人」(「家庭より観たる子規」)といい、律の養子忠三郎は「私ども親類全部のおばあさんといった格で、やさしい人ながらものに動じない非常に偉大な人であった」といっている。この「泰然自若」「ものに動じない」というところは、士族の嗜み、士族の娘であれば当然のことであったと土居健子(秋山好古の二女)はいう。

お母様は、それはもう、お優しい方でした。子規さんがまだちいさかった時分、松山の中の川にあったお家が火事で焼けたそうですが、その時、お母さまは少しもとり乱さず、自分の家が焼け落ちるさまを泰然と見ておられたそうです。そのため気丈な方かだか、肝の据わった方だとかいわれたようですが、それは当時の士族の娘であれば当然のことであったと私は思います。なにがあっても驚いたり取り乱したりしてはいけないということは、士族の娘であれば必ずそう躾られて育ったものです。私も、父好古が寝る前に必ず枕もとに呼ばれてお伽につきまして、そうしたことを教えられて育ちましたので、子規さんのお母さんについても、もの静かな優しいおばあさまであったという印象きり持っておりません。(土居健子談「叔父秋山真之と子規のご家族」)


子規の病については、代われるものなら代わってやりたい、息子の代わりに死んでもよい、というのが八重の思いだった。

母堂の持ち出されし柳川鍋の馳走で午餐を倶にせしが、其時母堂は幼な友達のあなたを見るにつけても升(のぼる)の病気が残念に御座います。若し私の命で代ることが出来るものなら升に代って死んでやりますから、何卒升をお助けくださいと日夜神仏に禱ってゐますと愁嘆の声をくもらして語られしには、何と答へてよいか予は窮して甚だ要領を得ない挨拶をしたことを覚えてゐる。(柳原極堂『友人子規』「駒込と根岸」)


柳原極堂や子規の主治医であった宮本仲は、八重について次のように述べている。

八重については拓川が何かのうちに姉ながらエライと感心した様なことを言ってゐたと記憶するが、二十八歳を以て寡婦となり爾来窮乏生活の裡に子女の教育薫陶に任じつゝ子規をして遂に偉いものに仕あげたる其結果から見ても、其の尋常ならぬ賢婦人なることを容易に感じ得らるゝのである。(柳原極堂『友人子規』「子規関係の家系」)


子規も偉い人間には相違ないが、御母堂御令妹の彼に対する奉仕と愛とも亦偉いものだった。我々医家として毎日多数の病家に出入するが、子規の家の如きところはさうさう見当るものではない。(『友人子規』「子規関係の家系」所引の宮本仲・談)


病身の子規があれだけの偉業をなしとげたのは、この母の支えがあったからこそでもあった。宮本仲は八重のことを「最良の慈母であった」(「私の観た子規」)とも述べているが、そのことが誰よりもわかっていたのは子規自身であっただろう。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』別巻3(回想の子規2 附補遺)講談社 1978年3月
土居健子(談)「叔父秋山真之と子規のご家族」(『子規全集』第17巻「月報11」講談社 1976年2月)
和田茂樹編『子規と周辺の人々』(増補版)愛媛文化双書刊行会 1993年9月

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