浦屋雲林

浦屋雲林(1840-1898)。名は寛制、通称藤蔵、雲林はその号である。松山藩に仕え、大小姓、祐筆役などをつとめたが、維新後は私塾桃源黌を開いて子弟の教育に当たった。漢詩文に巧みで、正岡子規もこの人に詩作を学んだ。「花木槿(はなむくげ)雲林先生恙(つつが)なきや」(明治28年秋)の句を子規はのこしている。

三津住吉2丁目の辻井戸には「三津江内修繕碑」という明治22年(1889)建立の碑があるが、この碑の文章を撰んだのは浦屋雲林(寛制)である。

三津江内修繕碑
吾予州三津港之地形彎入数町成川状俗呼曰江内川往時
旧藩之際畳石于岸為船舶繋泊処於是得遠近商客避風波
之便且市街致繁盛之基焉天保中別築大埠於港口而小船
之輻湊固自若也明治廃藩修繕途絶岸礁崩壊船舶者苦之
本街人二神清八等深憂之与同志議遂募闔市共有金及其
接近六街之醵金充費同志者亦出若干金補之填江内堀陸
地各一百三十歩有奇以本年十月中澣剏工同十二月上澣
功竣其便利倍旧可知也夫人情為一身計易為衆人計難苟
拡為衆之心則為天下起大業亦弗難矣清八等建碑図不朽
請余文余於此挙有所感故紀其顛末以与之
明治二十二年十二月 愛媛県松山 浦屋寛制撰


[訓読文]
吾が予州三津港の地形は彎入すること数町、川状を成し、俗に呼びて江内川と曰う。往時、旧藩の際、石を岸に畳みて、船舶繋泊の処と為す。ここにおいて、遠近の商客、風波を避くるの便を得、且つ市街繁盛の基を致す。天保中、別に大埠を港口に築き、而して小船の輻湊、もとより自若なり。明治の廃藩より修繕途絶し、岸礁崩壊して、船舶の者これに苦しむ。本街の人、二神清八等深くこれを憂え、同志と議して遂に闔市の共有金及びその接近六街の醵金を募り、費に充(あ)つ。同志の者また若干の金を出してこれを補う。江内を填め、陸地を堀ること各一百三十歩有奇、本年十月中澣を以て工を剏(はじ)め、同十二月上澣、功を竣えたり。その便利、旧に倍すること知るべきなり。それ人の情、一身の為に計するは易く、衆人の為に計するは難し。苟しくも衆の為にするの心を拡ぐれば、則ち天下の為に大業を起こすこともまた難からず。清八等、碑を建て不朽を図り余に文を請う。余この挙において感ずるところ有るが故にその顛末を紀して以てこれに与う。
明治二十二年十二月 愛媛県松山 浦屋寛制撰

碑は三津浜港の改修を記念して建てられたもので、当時の三津浜町の有力者であった二神清八らが撰文を浦屋雲林に依頼したのであった。

▼ 左・「三津江内修繕碑」、右・碑文中の「浦屋寛制撰」の文字
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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