「ところさん」と呼ばれていた子規

正岡子規の幼名は当初、処之助(ところのすけ)。父常尚が親しくしていた藩の鉄砲師がつけた名であったが、のちにこれを升(のぼる)と改めた。処之助という名は近親者の誰もが気に入らなかったと母八重は述べている。

うぶ名は、倅の父の懇意にして居た人に、鉄砲の師役をして居る竹内一兵衛といふ人が御座いましたが、此人の内には女の子ばかり出来て男子がないから、私(竹内)が一つ付けてあげようと云うて、処之助とつけたのでした、が良い名でないというて誰も誰も此名は気に入りませんでした。学校へゆく様になると皆がトコロテントコロテンといふであらうといって、それで後から升(のぼる)と改(か)へたのでございます。(正岡八重・談「子規居士幼時」)


子規の外祖父大原観山は、子規の誕生時、京都に滞在中であった。生まれた孫の幼名が処之助であることを手紙で知らされた観山は、珍しい名でよいとは思うが、呼ぶときに困るのではないかと述べている。

正岡にも安産の儀、此間阿部のたよりに被申越候処、安産やらどふやら分り不申、いかゞと、あと事ながら気遣候処、此度之御状に而、至而やすき事も承知いたし、よろこび申候。孫は処之助と竹内和尚名呉候よし、めづらしき名に而、よろしく候得ども、よぶときによびがたきにこまり可申候。(大原観山が京都から妻重〈しげ〉・次男佑之丞の両人に宛てた手紙)


柳原極堂の『友人子規』には、乳幼児の頃の子規が「ところさん」と呼ばれていたという記述がある。

一色氏(注-子規の生家近くに住んでいた一色則之という人)は又曰ふ、曾祖母に当るお婆さんが「処(ところ)さん」を抱いてその垣(注-子規生家の垣)の外に立ってゐるのをよく見うけたものであると。当時子規は処さんと呼ばれてゐたさうだ。(柳原極堂『友人子規』「俳聖誕生の地」)


四、五歳の頃、名を升(のぼる)と改めてからは「のぼさん」と呼ばれるようになったが、いちど廃されたこの処之助の名を子規はのちにペンネームとして復活させている。「越智処之助」。子規は『日本人』誌上に文学評論の筆を執るときは越智処之助という名称を用いた。近親者からは不評であった処之助の名も、子規にとっては愛着のあるものだったのであろう。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』別巻2(回想の子規1)講談社 1975年9月
石丸和雄訳注・和田茂樹解説『大原観山遺稿 解説編』愛媛文学叢書刊行会 1982年4月
柴田宵曲『評伝 正岡子規』岩波文庫 1986年6月

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テーマ : 歴史上の人物
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