松山藩と裏千家十一代玄々斎

江戸時代、茶道の裏千家と松山藩は関係が深く、裏千家五代常叟から十一代玄々斎までの代々の当主は、藩の茶道奉行として京都の松山藩邸(京都市中京区高倉通り六角下ル和久屋町・高倉小学校付近)に出仕していた。内藤鳴雪の父はその松山藩邸の留守居役を務めていたことがあり、十一代玄々斎とも職務上の付き合いがあった。鳴雪の自叙伝には若干ではあるが、この裏千家当主との付き合いについての記述がある。

京都の藩邸へは出入りの人々がある。そのおもな者には、徳大寺殿(注-公家の名門。摂家につぐ清華家の家柄)の家来の滋賀右馬大允というのがある。松山藩はこの徳大寺家を経て朝廷への用を多く弁じていたものであるから、藩からこの滋賀へは贈物などもして機嫌を取っていた。(中略)茶道の千家は利休以来裏表があるが、この裏千家も私方へ出入をした。この千家の玄々斎宗室と呼ぶのが藩士の名義になって二百石を受け、側医者の格で居た。(中略)こういう出入の者等には、留守居としては毎月一回はちょっとした饗応をせねばならなかった。そのうち滋賀や千家などは稀に祇園町へも連れて行かねばならなかったらしい。(中略)京都住居は僅か八ヶ月であったが、(中略)いよいよ京都を去るという前夜、ちょっとした別れの宴を内で開き、滋賀や千家等を招き、席の周旋には『山猫』という者が来た。山猫というのは、祇園町のでなく山の手の方の芸子を呼ぶ称である。誰かが『御留守居さんの出立に、山猫はちと吝い』といった。千家は頻りに祇園町行きを迫って『明朝間に合わせますからちょっと行きましょう』などといったが、父は応じなかった。(『鳴雪自叙伝』五)


鳴雪のこの記述では、玄々斎は祇園の花街へ行くことをせがむいささか軽薄な人物だが、茶道史上では、さまざまな改革を成し遂げた裏千家の中興の祖といわれるほどの人であったらしい。玄々斎は松山へもたびたび赴いており、維新後も長期間在松して茶道の普及につとめた。じつは三津浜にも縁の深い人物なのだが、そのことについては次回のブログ記事でふれることにしよう。

【典拠文献・参考文献】
武田幸男『松山藩と裏千家茶道-茶道覚書-』愛媛県文化振興財団 1994年3月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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