土屋久明

正岡子規と三並良(子規の母八重の従弟)は、小学生のころ、大原観山の私塾で素読を学んだが、観山病没の前後から土屋久明(三平)という漢学者のもとで引きつづき素読を学ぶこととなった。土屋久明は藩校明教館の助教だった人で、不明な個所は必ず辞書にあたってから教えるという謹厳実直な学者であった。子規はこの人から漢詩を作る手ほどきも受けた。

多分観山先生が病弱になった為めであらう。私達は矢張り藩の儒者土屋三平先生に漢学を学ぶことになった。小学校へ通学しても、まだこんなことをしたのは漢学が棄てがたかった為であらう。三平先生はどれだけの学者だったかは知らないが、もの堅い奇人であった。我々は矢張り朝早く五時か六時頃には先生の前に出た。三平先生は何時もきちんと机の前に坐って待って居られた。子規は此の先生に色々学んだ。子規が漢詩の手ほどきをしてもらったのは、此の先生だった。漢書もそれからそれと、多くは素読だけだったらうが、沢山読んだやうだった。(中略)三平先生は確実な人で決して、ごまかさない。字引を机の横に置いて、それは「玉篇」だったが、解らないと、待たしておいて一々引いてから教へた。これが小学校時代のことであった。(三並良「子規の少年時代」)


土屋久明は世渡り下手の人物で、旧藩から与えられた家禄奉還金を使い切ると「もうこれでよい」と言って「餓死」したという。

観山先生が病気のため我々は土屋三平先生に教へて貰ひに行った。観山から三平先生に依頼も出したやうであった。此事につきて正岡律が、三平さんは大原の祖父に頼まれたのを御自慢のやうであった、と話してゐた。三平先生の居宅は私共と同様今の湊町四丁目本通の南裏俗に新丁といふを西へ突き当り、一二軒南に寄った家であった。先生は明教館の助教授をされてゐたと聞いてゐる。謹直な方で世渡りなどは全く下手な人であった。家禄奉還金を使ひ切ると殿様から頂いた金が無くなったのだからモウこれで善いと言って餓死されたのであった。(柳原極堂『友人子規』に出る三並良の回顧談)


三並良は「餓死」という語を使っているが、食を断っての自死であったというべきかもしれない。「もうこれでよい」……従容、死に就いたこの人物には世を恨むというような思いはなかったであろう。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1973年5月
『子規全集』別巻3(回想の子規2 附補遺)講談社 1978年3月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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