明治9年5月23日、三輪田米山、道後での写真撮影

明治9年(1876)5月23日、久米郡日尾八幡神社の祀官・三輪田米山(1821-1908)は母、二人の娘とともに人力車に乗って道後温泉に行った。同日の米山の日記。

廿三日 雨やみ晴天
(中略)十時、飯して弍人人力車ニ母堂、娘鶴子、壱人車ニ予、次ノ娘梅子ト四人道後へ行。留守守ニ於蝶ヲ頼、留守にてすし酒などのますなりにいたし置。母堂、道後へは六十年目ノ御入湯也。以前とちがひし事御驚有之(これあり)。


米山の母にとっては60年ぶりの道後温泉。明治5年の時点で道後温泉の本館が二階建てに改修されていたから、その変わりように母は驚く。米山日記同日条にはつづいて写真撮影の記事。

予が像をもうつし度(たく)、野口にて神庫の甲冑をかる。野口にて弁当、もちを食し終て行。松本の別荘の二階にて母堂中、左右姉つる子・妹梅子、両人の孫ヲ左右にし給ひし処ヲ写真にて写、かみうつしへとるなりにいたす。また、予が像ヲ甲冑ヲ着しうつす。松本と野口光凱養子ト両人して甲冑ヲつける。此時、隣家見物之人夥し。内へこみ入事を断、障子ヲたつれども猶上への方より見物す。(中略)人々、いかりを含み、歯をくひしばるべしと云。予云、百万騎ヲ卒ひ候節、何ぞつくろはん。平気の平左衛門、よろしかるべしと云てうつむ。(中略)甲冑ハ旧松山先君天慶院殿ノ奉納也。当時、伊佐爾波神社祠官・野口光凱ハわが朋友故、借用せし也。


この日、米山が楽しみにしていたのは写真を撮ってもらうことであった。伊佐爾波神社祠官・野口光凱から甲冑を借りて身につけ、撮影にのぞむ。見物の人々が集まり、「怒りを浮かべて、歯を食いしばれ」と声がかかる。米山応じて、「百万騎を率いる大将だから、わざとらしい顔つきなど無用。平気の平左衛門でいいのだ」という。甲冑は旧松山藩主が伊佐爾波神社に奉納した品。同神社の野口光凱は米山の友人であったので、この日借用したのであった。神職であるにもかかわらず甲冑姿での写真撮影。三輪田米山は何ともおかしな人であるが、書にかけては無類の名人、「我国近世五百年間不世出の大書家」(山本發次郎)とも評される人物であった。

▼ 米山の代表作「鳥舞魚躍」(日尾八幡神社注連石)
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【参考文献】
『山本發次郎遺稿』山發産業株式会社 1953年9月
三浦和尚・福田安典『三輪田米山日記を読む』創風社出版 2011年8月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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