勝田主計

正岡子規が唯一「俳諧の師」と仰いだのは三津の大原其戎であったが、子規をその其戎と結びつけたのは、勝田主計(しょうだかずえ)という人物であった。勝田は子規より二歳年下の友人。その祖母の実兄が其戎宗匠であったので、俳諧に興味をもっていた子規に其戎との面会を勧めた。勝田は当時のことを次のように振り返っている。

明治二十一年頃と考へるが、其の時子規は、既に大学の予備門に這入って夏季休暇に郷里に帰って来て、頻りに俳句の話をして居った。自分は発句の事に就ては一向分らなかったが、兎に角発句といふものは、之れを研究するとすれば多少其の道の師に就て聞くといふことが必要であらうと思って、丁度自分の知って居る人で三津ケ浜といふ所に四時園其戎といふ七十余の老人があった。此人は全く浮世を離れて俳句を嗜んで居た。翁の詳しい来歴は知らぬ。兎に角相当の家に生れて、俳句の研究の為めに京都に行って鷹司家の庭掃か何かに這入り込んで余程の苦労をして、とうとう其処の許しを得て四時園といふ号を貰って郷里に帰り、隠遁して其道を楽しんで居った。さうして贄を門に執る者があれば発句の添削をしてやる非常に人格の高尚な人であった。依って自分は子規に兎に角一度会って、俳句の話を戦はしては如何と勧め、子規も其の気分になり、或日紹介の労を取った。それで一日子規が四時園其戎を訪ふて俳談をしたらしい。尤も其戎翁も子規を自分の弟子にするとか何とかいふ考は毫も持って居らず、子規も亦翁の弟子になる考で訪ねたのでもなく、唯俳談に時を移して分れたのである。(中略)其後翁に面会したる際、大に子規の見識を称讃せられ、又子規は翁の高徳を褒めて居った。そこで此一日の会見に依って子規は大に会心する所があって、それから俳句の門に進む端緒を開いた。此事は子規の事を段々書いてある書物を見ても一向現はれて居らぬことだが、是が抑々子規が俳門に入るといふ初であったやうに記憶して居る。(勝田主計『ところてん』)


上には「明治二十一年頃」とあるが、子規が其戎のもとを訪問したのは二十年の七月下旬頃であった。その訪問時、子規に同行したのは柳原極堂だけであったから、「紹介の労を取った」と勝田がいうのは、子規のために紹介状を書いたということであったのだろう。

勝田は子規の影響で句作を趣味とするようになった。子規に関する思い出としては次のようなこともあったと述べている。

嘗て子規と共に上野公園を散歩して居った。頃は花の盛りと記憶して居る。五六歳の女児が母親に手を引かれながら
「お母さんあんなに花が咲いて居るよ」
と叫んだ。子規は自分を顧みてあれだあれだ俳句の妙茲(ここ)にありといった。子規が俳句に対する理想は此辺にあったので、今も其声音が耳にのこって居る様な気がする。(同上)



勝田主計、俳号ははじめ焦明、のち明庵、これをさらに宰洲と改める。官界に入った後、政治家となり、大蔵大臣、文部大臣などを歴任した。政治家としては「西原借款の大失策を犯した失敗者である」(松本健一)といわれる。

【典拠文献・参考文献】
勝田主計『ところてん』1970年9月
松本健一『昭和史を陰で動かした男 忘れられたアジテーター・五百木飄亭』新潮選書 2012年3月

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テーマ : 歴史上の人物
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