藩主松平定行、城山を緑化

松平定行(1587-1668)が松山に入部した頃、城山には木が至って少なく、赤土のはげ山に城がそびえたっているように見えたという。

古老の咄に、松山城のありさまを聞くに、御入国(注-松平定行の松山入部)の節は松も至って小さく、親立ばらばらと生えて、大半赤土山に城を築きたるがごとし。(『垂憲録拾遺』)


定行は城山に麦や粟などを撒いて野鳥が集まるようにした。鳥の糞にまじる木の種子から雑木が生い立つようになるからであった。

古書に、御入国のときは御城山はげ山にて樹木もこれなきよしに付き、麦・粟などを御蒔かせ、鳥類の集まるようにあそばされしとなり。鳥の糞には多く諸木の実あり。その糞より自然と実生えにて樹木生いたつものなりと。(『古今記聞』)


定行はまた日向(現在の宮崎県)より松の実を取り寄せて、城山に蒔かせた。日向の松は当時、良材として有名だった。

右の通り仰せ付けられ候後、日向の国より松の実を御取り寄せにて御蒔かせあそばされ、当時(注-現在の意)のごとく松生い立たるよし。日向の国は松良材のよし、御城松はことごとく日向の種なれば良材なりと。(同上)


はじめは松の木を取り寄せ植えさせたのだが全滅したので、松の実を取り寄せて蒔かせたのだともいう。

松を日向の国より御取り寄せ、夥しく御植えさせあそばされたりしが、遠路を経たる故にや、一本もありつかずして枯れたり。再度、日向の実を御取り寄せ、御蒔かせあそばせしが夥しく生え出たり。御隠居様(注-定行)御一生の内にいずれも七、八尺にはなりたるよし。(『垂憲録拾遺』)


陽あたりのよい城山の南側はこの日向の松が育ち、北側の陰湿地は鳥の糞の種よりの雑木が茂ったという。

右の鳥の糞中に樹木の種ありて、おいおい雑木生ずといえども、南向きの方はかわきつよくて実生じがたく、北うらの方は陰地なれば実生ず。当時、南の方には雑木少なく松多く、北の方は雑木多きは右の故なりと。(『古今記聞』)


現在の城山はシイ・クスノキ・ホルトノキなどが生い茂る常緑広葉樹林(県指定天然記念物「松山城山樹叢」)、野鳥の宝庫ともなっているという。

DSCF1911_convert_20150220123339.jpg

DSCF1918_convert_20150220123440.jpg

DSCF1555_convert_20150219142924.jpg

【参考文献】
伊予史談会編集発行『垂憲録・垂憲録拾遺』1986年1月
伊予史談会編集発行『古今記聞』1991年5月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

松山城の土塁に盗賊

藩主松平定行(1587-1668)の時代、松山城の三之丸の土塁には竹が生い茂っていて、盗賊の隠れ場所にもなっていたという。

古老の咄に、松山城のありさまを聞くに、御入国(注-松平定行の松山入部)の節は(中略)御堀の土手も小竹生い茂りたりしが、六、七年の内においおい竹も大きくなり、繁茂しけるが、その節とても盗賊の隠れ場なれば、御治世には大いなる害なりという人多かりし。(『垂憲録拾遺』)


城の土塁に竹を植える例は多くあったらしい。松山城の土塁の竹は享保年間(1716-1736)に松に植え替えられたという。

DSCF1905_convert_20150220123243.jpg

松山城・三之丸の土塁。

DSCF1884_convert_20150219143026.jpg

土塁の上。

【参考文献】
伊予史談会編集発行『垂憲録・垂憲録拾遺』1986年1月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

藩主定行「松山は類もまれなる上国なり」

桑名11万石から松山15万石の領主となった松平定行(1587-1668)。その定行は松山について、「類もまれなる上国だ。米の収穫は多く、30万石ともいえるほど。何不自由ということもない」としばしば語ったという。

勝山様(注-定行)、おりおり御咄の御ついでには、松山は類もまれなる上国なり。土地狭しというとも、米穀のたくさんなる事はおよそ三十万石の大名にも劣るまじ。海山ともに近く何不自由という事もなければ、年々に奢りの長ずる風になるべし。子孫、松山を居城とせば心得あるべき事なりと御咄ありとなり。(『垂憲録拾遺』)


「何不自由ということもないから、次第に奢りの風も生ずるだろう。わが子孫はよく心得ねばならぬ」とも定行は言った。

「藩の特産物もつくらねばならぬ」とも言い、広島から大量の牡蠣を取り寄せ、浦々へ放流したという。

右の通り奢りに長ずる国風なれば、米ばかりたくさんにて国産少なきときは、米を売りて無益の衣類・器ものにすべし。さすれば米たくさん出来のかいなし。何かな国産を御拵えあそばさるべしとて、天野作右衛門、唐松屋九郎兵衛(注-ともに三津の商人)へ仰せ付けられ、芸州(注-現在の広島県)より牡蠣をたくさん御取り寄せ、寛文三(注-1663年)の春、浦々へ御放ちあそばされしなり。その後少々宛、牡蠣出来せしはこのときより始まりたり。(同上)


定行はこの牡蠣のほかにも鶉、白魚、茶などさまざまの産品を奨励して、藩内の殖産興業につとめた。

DSCF1841_convert_20150221121227.jpg

祝谷東町の常信寺にその定行の霊廟がある。

【参考文献】
伊予史談会編集発行『垂憲録・垂憲録拾遺』1986年1月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

儀光寺の桜

DSCF1984_convert_20150304153316.jpg

儀光寺(松山市古三津1丁目)の早咲きの桜。本日(3月4日)撮影。

松山沖の由利島が開創の地であったという儀光寺。弘安年間(1278-1288)に島を襲った地震・津波で現在地に移ったと伝えられている(→過去記事参照)。由利島は民放テレビ番組のあのDASH島である。

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 日記
ジャンル : 学問・文化・芸術

松平定行、松山城の天守を改築

寛永19年(1642)、松平定行、松山城の五層の天守を三層に改築。本壇付近の地盤が強国でなく、五層では危険との判断からこの改築がなされたという。またこの改築は定行の弟の定房(今治藩主)の勧めによってなされたともいわれる。

御城御天守も五重なりしが、寛永十九年御願の上、三重に御営みがえあり。右下説は、当御城は高山の上、三峰を一山に御築き故、往々は山なびき狂い、五重にては危うからんとの御念慮にて三重に御営みがえと申し伝う。また、一説は今治様の御勧めにて右の通り御営みがえとも申し伝う。当御本壇の場所は至って深き谷間にてありしとなり。今治様というは安心軒様の御事なりと。このとき黒腰付きに成りたるよし。(『垂憲録拾遺』)

一、同十九年壬午年 松山天守五重の所、松平美作守定房侯御進め、三重に成し給う。このとき黒腰付きに相成る。(『予松御代鑑』)


「このとき黒腰付きに~」というのは下層階の外壁を黒塗板張にしたという意であろうか。

DSCF1753_convert_20150222162531.jpg

定行が改築した三層の天守は天明4年(1784)1月、落雷によって焼失。現在の天守は幕末の再建(嘉永5年〈1852〉12月再建工事終了、翌々年2月落成の式典)。

DSCF2002_convert_20150305112114.jpg

DSCF2055_convert_20150305114731.jpg

【参考文献】
伊予史談会編集発行『垂憲録・垂憲録拾遺』1986年1月
伊予史談会編集発行『予松御代鑑』1983年12月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード