正岡子規、新年の歌

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あら玉の年をことほぎうめの花一枝買ひていけにけるかも


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新玉の年の始めにあひつれば四方の霞の春めきて見ゆ


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治まりて波も静けき世の中はよろこび祝ふ年のはじめを



【参考文献】
『子規全集 第六巻 短歌 歌会稿』講談社 1977年5月

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新年の御慶

梅提()げて新年の御慶(ぎょけい)申しけり


子規、明治28年(1895)の新年の句。子規の高祖父(曾祖父の父)正岡一甫の次のようなエピソードを念頭に詠まれたものであろうか。

翁(注-正岡一甫)が正月礼にまわる時には必ず一枝の寒梅を袖にして「のどかな春でございます」といい給いしとか。(子規『筆まかせ』第一編「玄祖父」)


一甫は松山藩のお茶坊主を務めた人で、風雅を愛する洒脱な人であった。次のような洒落たエピソードもある。

曾て五右衛門風呂を木炭にてわかし、その湯に入りて「薪にてわかせしとは入り心地が違う」といい給いしと。(同上)


子規の精神的なルーツはこの一甫であったかもしれない。

【参考文献】
『子規全集 第二巻 俳句二』講談社 1975年6月
『子規全集 第十巻 初期随筆』講談社 1975年5月

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明治29年1月3日、子規庵での新年句会

明治29年(1896)1月3日-この日、東京根岸の子規の家では、新年の句会が開かれた。参会者は正岡子規(催主)、内藤鳴雪、森鴎外、夏目漱石、五百木飄亭、河東可全、河東碧梧桐、高浜虚子。鴎外は途中からの出席であった。子規も漱石も世間的にはまだ無名であったとはいえ(鴎外はすでに『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』などを発表)、後世の目から見れば実に豪華な顔ぶれ。稀有な句会であったといえよう。この会で詠まれた句の一部を記しておこう。

元日の人通りとはなりにけり 子規
榾の火は消えけり歳は明けにけり 鳴雪
おもひきって出て立つ門の霰哉 鴎外
半鐘と並んで高き冬木哉 漱石
売れ残るあんかう寒し魚の棚 飄亭
恐ろしき雲の峰立つ野末哉 可全
うつむいて物申したる寒さ哉 碧梧桐
赤い実の枯れて貧しき小庭哉 虚子


子規と鴎外のつながりは意外であるかもしれないが、この二人は前年5月、日清戦争の従軍先(金州)で出会っていた。過去記事でこのことにふれているので、参照していただきたい(→2009年11月27日記事)。

【参考文献】
『子規全集 第十五巻 俳句会稿』講談社 1977年7月

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秋山真之、元気のない正月

明治29年(1896)1月初め、秋山真之が子規のもとを訪問。秋山が訪れたのは3年ぶりで半日閑談したのだが、このときの秋山はあまり元気がなかったと子規は述べている。

秋山、この正月三年ぶりにて尋ね来たり、半日ばかり閑談致し候。(中略)秋山も強情ものなれば後来、何かやらかすべしとは存じ候へども、この正月逢ひたる時、あまり元気なきやう見受けし故、如何やと心配致し居り候。(明治29年8月28日付・井林博政宛て子規書簡)


前年の11月18日、秋山は日清戦争の功により勲六等単光旭日章を受章。軍人としては栄誉であったはずで、気力充実の正月を迎えていたとしてもおかしくはないのだが、子規を心配させるほどの元気がない様子。日清戦争での戦場体験で何か思うところがあったのかもしれない。

「秋山も強情ものなれば後来、何かやらかすべしとは存じ候へども」-秋山は将来、何か大きな仕事をするというのが子規のかたく信ずるところであった。「天下の英雄は秋山と自分のみ」というような意識も子規にはあったようである。

「秋山は早晩何かやるわい」といふ事は子規君の深く信じて居られた事で、大きくいへば天下の英雄は吾子と余のみ、といったやうな心地もほの見えて居った。(高浜虚子「正岡子規と秋山参謀」)


子規の表現によれば秋山真之は「剛友」(『筆まかせ』第一編・明治二十二年の部「交際」)。強き友であっただけに、その元気のなさは子規をとりわけ心配させたのであった。

【参考文献】
秋山真之会編『秋山真之』1933年2月
『子規全集 第十巻 初期随筆』講談社 1975年5月
『子規全集 第十九巻 書簡二』講談社 1978年1月

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山口県周防大島

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周防大島東端の伊保田(いほた)港。周防大島松山フェリーの「しらきさん」が寄港する(三津浜港から約70分)。伊保田という地名は、海を隔てて伊予と接しているため伊予田と言っていたのが転訛したものであるともいう。

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国道437号(松山市~山口県岩国市)。三津浜港から伊保田港まではこの国道の海上区間。周防大島松山フェリーの航路が国道という扱いになっている。

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伊保田正八幡宮。

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島内には「雨振(あまふり)」「油宇(ゆう)」という地名。「雨振」の「あま」は海士、「ふり」は朝鮮語のプーリ(集落)に由来するという(宮本常一の説)。「油宇」はこの集落の面する海が凪のとき油を流したように平面になるためであるという。

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昭和51年(1976)に大島大橋が開通して山陽側と陸続きになるまで、この島の旧・東和町(島の東南部)の人々の暮らしにかかわる往来は、対岸の三津浜がもっぱらの相手先であったという。古くは若い女性たちが行儀見習いを兼ねて就職するのも、三津の大きな商家であったといわれる。

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能書家として知られた明月上人(松山湊町の円光寺住職 1727-1797)はこの島の出身、民俗学者の宮本常一(1907-1981)や歴史学者の奈良本辰也(1913-2001)もこの島の出身である。


【参考文献】
『角川日本地名大辞典35 山口県』角川書店 1988年12月
『日本歴史地名大系 第36巻 山口県の地名』平凡社 1980年8月
『宮本常一著作集40 周防大島民俗誌』未来社 1997年2月
松山市教育委員会編『松山の民俗』 2000年3月

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