刑場に赴く罪人救済の伝説「極楽道観音堂」と「極楽橋」

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松山市永木町1丁目の「極楽道観音堂」。寛永の頃、松山藩領民の安泰を願って置かれた七観音のうちの一つだという。藩政時代、斬首と定められた罪人が立花の刑場へと向かうおり、この観音に額ずき悔い改めると罪一等が減じられ命を助けられたともいわれる(付近の極楽橋にこれと関連する伝説。下記)。今は小さな堂宇があるのみだが、近隣の言い伝えによると、昔は立派な本堂や通夜堂があったらしい。

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極楽道観音堂近くにある「極楽橋跡」碑(昭和53年5月建立)。地域住民の建碑であろう。「史蹟」とあるが、文化財指定の史跡というわけではない。

藩政時代、死罪と決した者を立花の刑場へ送る道は、ここにあった極楽橋をわたる道と今の市駅あたりにあった地獄橋をわたる道の二つ。極楽橋をわたる道で送り出された罪人は、命だけは助かることになっていたという。罪人が藩の役人に連れられて極楽橋をわたると、集まっていた人々は罪人の命が助かることを知って手をたたいて喜んだ。橋をわたり終えると、極楽道観音堂の僧が罪人の髪をおろして宗門の道に入れたなどと伝えられている。

極楽橋という名称から、昔は葬儀の列もこの橋をわたることになっていた。昭和17年頃までその風習はつづいたという。

【参考文献】
佐々木忍『松山有情』愛媛県教科図書株式会社 1978年5月


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「民衆は〈不幸な人々〉のことを深く気にかけている……」

ロシアの民衆は犯罪者のことを「不幸な人々」と呼んで同情を寄せていたとドストエフスキーはいう。

我々の社会の上流階層には知られていないことだが、ロシアでは商人も町人も農民もすべて、「不幸な人々」のことを深く気にかけているのだ。(ドストエフスキー『死の家の記録』)

民衆は、たとえ囚人の犯した罪がどれほど恐ろしいものであれ、決してその罪のことで囚人を責めようとはせず、囚人が負わされた罰に免じて、そしてそもそもその不幸に免じて、すべてを許そうとするのである。ロシア中どこへ行ってもすべての民衆が犯罪を不幸と呼び、犯罪者を不幸な人と呼ぶのは、理由があってのことなのだ。これは極めて意味深い定義である。それも無意識に、本能的にそう思っていることだけに、なおさら大事なのだ。(同上)


異常な犯罪が頻発する今の時代、「不幸な人々」などとはとても言っていられないかもしれないが、ドストエフスキーのいうロシア民衆のそうした心情も共感できないわけではない。

いとしい家族のためには恥も忘れ、盗みをもするのが人間だと兼好法師は言う。

まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。(卜部兼好『徒然草』第百四十二段)


犯罪の原因である貧困をなくすのが為政者のつとめだ、というようなことも兼好法師は述べている。

されば、盗人を縛め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の饑()ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒(つね)の産なき時は、恒の心なし。人窮まりて盗みす。世治まらずして、凍餒(とうたい)の苦しみあらば、科(とが)の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便のわざなり。(同上)



昨日の記事でふれた「極楽橋」の伝説。重罪人の命が助けられると知って、人々が手をたたいて喜んだという当地方の言い伝え。事実であったかどうかはともかく、罪人を「不幸な人」と見なす心情がここからは窺える。犯罪はその多くが「不幸」なるがゆえと理解されていたからこそ、こうしたかたちの話となっているのではなかろうか。

【参考文献】
西尾実・安良岡康作校注『新訂 徒然草』岩波文庫 1985年1月
ドストエフスキー・望月哲男訳『死の家の記録』光文社古典新訳文庫 2013年2月

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中島神浦「本陣跡」

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中島の西南部に位置する神浦(こうのうら)。

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元治元年(1864)11月、松山藩は長州征討の幕命をうけて出兵、藩主松平勝成の本陣が神浦の庄屋杉田氏方に置かれた。神浦のこの石垣はその本陣跡であるという。

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本陣跡の近くにある常夜灯。文久3年(1863)の建立。

中島の神浦は江戸時代、松山藩領。中島は松山藩領と大洲藩領とに分かれており、神浦・宮野・長師・熊田・吉木・饒・畑里の7村が松山藩領、大浦・小浜・粟井・宇和間の4村が大洲藩領だった。この島の呼び名も両藩では異にしており、松山藩では風早島、大洲藩では忽那島の名称を用いていた(風早島は風早郡の島であることからの呼び名、忽那島は古代以来の島名)。

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秋山好古の死

今日11月4日は秋山好古(1859-1930)の忌日。

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道後鷺谷には秋山好古の墓がある。

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かれは数日うわごとを言いつづけた。すべて日露戦争当時のことばかりであり、かれの魂魄はかれをくるしめた満州の戦野をさまよいつづけているようであった。臨終近くなったとき、「鉄嶺」という地名がしきりに出た。やがて、
「奉天へ。――」
と、うめくように叫び、昭和五年十一月四日午後七時十分に没した。(司馬遼太郎『坂の上の雲』「雨の坂」)


『坂の上の雲』では、好古の最期の言葉を「奉天へ」としているが、その場に実際にいた秋山中(秋山真之の三男)の証言によると、「馬引け」が最期の言葉であったという。

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海上区間のある国道

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国道437号は松山市から山口県岩国市に至る一般国道。海上区間のある国道である。

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三津浜港から山口県伊保田港までがその海上区間、「海の国道」である。画像・三津浜港。

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周防大島松山フェリーの航路(三津浜-伊保田-柳井)の三津浜-伊保田間が国道という扱いになっている。画像・三津浜港到着の周防大島松山フェリー「しらきさん」。

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三津1丁目の石崎汽船旧本社ビル(画像・左の建物)前の通り。それほど広い通りではないが、ここも国道437号の一部。

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