「もがりちっちきち~」

『坂の上の雲』(1968年~1972年産経新聞連載)に明治松山の夏の風物詩といった感じで、子供たちの「もがり」とりの遊びのことが出てくる。

この夏、移転早々、休暇があった。真之は島まわりの小さな蒸気船で松山のみなとの三津浜へ入った。(中略)松山に入ると、背後で笑う者がいた。なぐってやろうかとおもったが、子供だった。子供たちはどぶ川で、
「もがり」
というものを獲っていた。蚊に似た、蚊よりも四、五倍大きい昆虫で、それを網でとる。
もがり、ちっちきち
上に鬼がいる
下の方へさがれ
真之も子供のことにうたった唄である。この旧城下町はすこしも変わっていない。(司馬遼太郎『坂の上の雲』「海軍兵学校」)


この「もがり」とりの一節は、安倍能成(松山大街道出身)の自伝『我が生ひ立ち』(1966年刊)の次のような記述にもとづいたものであろう。

夏の初めになると、「もがり」と呼んで居た蚊の三四倍ある羽虫が、溝の上に夕方から群れ飛んだ。我々子供は「もがりちっちきち、上に鬼が居る、下の方へさがれ」とうたひながら、それを網や手で取って紙袋に入れたものであるが、取って何にするといふのでもなく、「もがり」は胴から緑の汁を出して一夜で死んだ。(安倍能成『我が生ひ立ち』Ⅰ「生家の様子」)


安倍能成がここで「溝」と言っているのは、大正の中頃まで大街道に流れていた大法院川という小川のことである。

久保より江の松山時代を思いだしての随想にも、この「もがり」とりの遊びが出る(久保より江は松山二番町の「愚陀仏庵(夏目漱石の下宿先)」の家主上野義方の孫娘)。

それからあれも夏の夕ではないでせうか。モガリをとるとて袋をこしらへて男の子は棹の先に何かをつけて「モガリチッチキチ上に鬼がをる下の方へ下れ」と追ひまわすんです。蜻蛉よりはずっとちさくて青いやうで翌くる日は袋の中で皆死んでをりました。(久保より江『嫁ぬすみ』「中の川の思出」)


たわいない遊びであるが、明治松山に生まれた人にとって、この「もがり」とりはながく記憶にのこる夏の遊びだったようである。

【参考文献】
久保より江『嫁ぬすみ』政教社 1925年8月
安倍能成『我が生ひ立ち』岩波書店1966年11月
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』(新装版)文春文庫 1999年1月

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明治32年7月6日、梅津寺海水浴場開設

明治32年(1899)7月6日 伊予鉄道梅津寺臨時停車場開場、海水浴場開設。


『松山市史料集』第13巻の年表に上記の項目。115年前の今日、伊予鉄道梅津寺臨時停車場が開設され、同社管理の梅津寺海水浴場が正式にオープンした。明治37年発行の高浜清(虚子)『松山道後案内』には、当時のこの海水浴場のようすを窺わせる次のような記述がある。

【梅津寺臨時停車場】 梅津寺の浜は高浜の南五丁の処にある。前にひろびろとした海をひかえて一帯の松林の陰に一宇の古寺がある。浪はすぐ前の平砂に打ちよせて白帆は手に取るごとく見える。平生はここへは停車せんのであるが、毎年海水浴の時候には臨時に停車場を設けて、殊に汽車の割引切符を発売し、臨時列車を増発するために、無数の海水浴客はこの寺に集まるのである。この頃は寺ばかりでは狭隘を感ずるので砂原に多くの休憩所もでき、無料で休憩することになっている。また松原の中に種々な運動の器具も備えつけてある。海は非常に遠浅で最も海水浴場たるに適して居る。(中略)毎年旧七月十八日に流灯施餓鬼を行う。春はまた汐干狩の人が群集する。


当時、砂浜近くにあった黄檗宗梅津寺は海水浴客の休憩所代わりとなっていた。伊予鉄道は臨時列車を増発、多くの人出で賑わっていたことが窺われる(寺が高台の現在地に移転したのは昭和13年。海水浴場の拡張のためだった)。

昭和40年代、梅津寺海水浴場には年間約30万人もの人出があったが、その後、市内プール施設の拡充などもあって客足は減少。平成21年6月には、長年管理してきた伊予鉄道も海水浴場としての業務を休止すると発表した。今は夏場になっても訪れる人のほとんどいないただの砂浜である。

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上の画像の左は伊予鉄道梅津寺駅。

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この辺りに海水浴客のための納涼台があったように思う。

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【参考文献】
高浜清(虚子)『松山道後案内 附伊予鉄道の栞』俳書堂 1904年5月(1983年4月復刻)
『松山市史料集』第13巻 松山市役所 1988年4月

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正岡子規「帰郷中目撃事件」

明治22年(1889)7月7日、正岡子規、松山に帰省(9月25日まで滞在)。東京に居を移して以降、死去までに計9回おこなわれた子規の帰省のこれがその3回目である。20年7月の2回目の帰省から2年、故郷の変化も目につくものが多く、子規はそれらを「帰郷中目撃事件」と題する一篇に箇条書きにしてまとめた。

本年夏期帰省して一昨年と変りたるものゝ著きものをあぐれば左の如し。
一、三津港に高き烟突の多くできしこと。
一、三津松山間に軽便鉄道出来し事。
一、我家の移転せしこと。
一、老人のますます弱り小児の非常に大きくなりしこと。
一、親類に顔を知らぬ子多く出来し事。
一、家並のよくなりしこと。
一、少しらしき家には陸軍歩兵少尉中尉大尉などいふ標札の必ずかけあること。
一、立花橋が鉄橋風にできしこと。
一、新道ができしこと。
一、道後の公園少しさびしこと。
一、我家に老人をかきしこと。少妹を嫁せし事。
一、友だちが官員となり新聞記者となりたるある事。
一、友だちが口髯をはやせし者多きこと。
一、友だちの妻帯せし者多きこと。
一、友だちの子を生みし者あること。
一、新たに城北に練兵場を設けしこと。
一、知事書記官などの変りしこと。
一、私立中学校のできしこと。
一、総ての風が東京に似ること。言葉も多少東京に似ること。
一、沖釣りの流行すること。
一、三津にボートができしこと。
一、新浜に池洲(いけす)ができしこと。
一、萱町に公会堂のたちしこと。
一、大街道の川上の家を取りのけし事。
一、新栄座といふ芝居小屋のできし事。
一、囚徒が車を引き鈴を鳴らし塵芥を集めにくる事。
一、城楼の奇麗になりしこと。(『筆まかせ』第一編明治二十二年の部「帰郷中目撃事件」)


以下、若干の注を加える。「三津港に高き烟突の多くできしこと」-三津の名物として知られた三津浜煉瓦会社の大煙突はのちの時代のものだから、ここで指しているのは港周辺の鉄工所等の煙突であろう。

「三津松山間に軽便鉄道出来し事」-明治21年10月、伊予鉄道が日本最初の軽便鉄道として開業。当初の路線は三津-三津口-松山であった。

「我家の移転せしこと」-明治21年5月、正岡家は湊町四丁目一番地から湊町四丁目十六番戸(大原家屋敷十番地内)に移転。この移転後の家には夏目漱石が訪れたこともある(明治25年8月中旬)。漱石は当時のこの正岡家で松山鮓のもてなしをうけた。

「立花橋が鉄橋風にできしこと」-文政年間(1818-1830)架設の旧立花橋が明治22年4月、鉄橋のものに建て替えられたことをいう。

「新道ができしこと」-明治19年着工の土佐街道を指すものであるらしい。当時の県民を驚かせた大工事であったという。

「道後の公園少しさびしこと」-藩政時代、「御竹藪」と呼ばれ、竹林と化していた湯築城跡は明治21年6月、愛媛県道後公園となった。公園となってからのちも竹藪のさびしい雰囲気が残っていたのであろう。

「我家に老人をかきしこと。少妹を嫁せし事」-「老人を~」は子規がなついていた小島久(曾祖父常武の後妻)が死去したこと、「少妹を~」は妹律が22年6月、中堀貞五郎(松山中学教師)と結婚したことをいう。

「友だちが口髯をはやせし者多きこと」-江戸時代は一部の職種を除けばひげを蓄えない時代。明治になると、官員や軍人などが権威づけのためにひげを蓄えるようになった。明治政府には若い世代が多く登用されたが、その若さを隠し、権威をつけるためにはひげが有効な手段であった。

「新たに城北に練兵場を設けしこと」-明治22年3月、松山城の北の広大な土地に「城北練兵場」が設置。歩兵第22連隊の演習用地であったが、一般の立ち入りは自由で、子供たちの恰好の遊び場となっていた。中学生の高浜清(虚子)がはじめて子規と出会ったのもこの練兵場であった。

「言葉も多少東京に似ること」-子規の「言語の変遷」(『筆まかせ』第二編・明治二十三年の部所収)には、その具体例が以下のように挙げられている。「また「大変」という語は東京にては普通の言葉にて「甚だしき」の意味なるが、この頃は少し松山に入りこみたるが如し。「よしにおし」というが松山語なるが、「およし」という松山人も出来たり。松山にては丁寧なる返事は「ヘイ」のみなりしが、「ハイ」という言葉は殆ど普通になれり。「故に」というは松山にて「ケレ」という。今では東京語「カラ」をいう者多し」。

「沖釣りの流行すること」-三津・高浜辺りより釣船を出して遊漁することが流行するようになった。夏目漱石も在松時代に高浜沖での釣りを体験している。

「新浜に池洲ができしこと」-三津の旧船場町に「溌々園」という料理店ができたことをいう。敷地内に大きな生簀があったことから、「三津のいけす」と呼ばれた。明治20年代のはじめ頃まで旧船場町は新浜村(今の辰巳町から高浜にかけての地)の飛び地であったので、「帰郷中目撃事件」では「新浜に~」となっている(「池洲」は生簀のあて字)。「溌々園」の経営者は子規の大叔父の歌原邁で、子規はこの店を頻繁に利用した

「新栄座といふ芝居小屋のできし事」-明治20年10月、大街道の一番町側入り口に新栄座が落成、松山地方初の本格的劇場であった。23年7月16日付の五百木良三宛て子規書簡には、「肝をつぶせしもの」として「新栄座の釣天井」が挙げられている。28年10月6日、子規は漱石とともにこの劇場を訪れ、泉祐三郎一座の照葉狂言を観劇した。

【参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月

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明治25年7月15日、正岡子規、高浜の延齢館に赴く

明治25年(1892)7月15日-この日、子規は碧梧桐・虚子とともに高浜の延齢館に赴き、その一室「雪の間」で競吟(せりぎん)をおこなった。子規の「雪の間に小富士の風の薫りけり」(前書「高浜延齢館ニテ」)という句はこの日のことを詠んだものであろう(同日の競吟の句会稿には記載がないから後日回想して詠まれたか)。

延齢館は高浜1丁目の小僧坂と呼ばれる高台にあったリゾート施設。小富士(標高282m)の聳える興居島を沖合に望むことのできる眺望絶佳の場所にあった。延齢館での競吟の翌日、子規が書いた手紙にはこの地の風光を讃えた文言が見える。

昨日は秉君(引用者注-河東碧梧桐)と高浜(引用者注-高浜虚子)と三人にて高浜の延齢館に赴き候。この地の風光もっとも絶倫、須磨・明石も将(まさ)に色なからんとす。貴兄また一顧し給うては如何。(明治25年7月16日付・竹村鍛宛ての子規書簡)


この手紙には「涼しさや苫舟(とまぶね)苫を取はづし」(前書「高浜にて」)という句も添えられている。

同年、子規は「松山ゆ車も通ふ高浜の高どの遠く白帆ゆくなり」(前書「高浜海水浴楼上」)という歌も詠んでいるが、この「高どの」は延齢館のことであろう。伊予鉄道が延長されて松山より汽車で高浜まで行けるようになったので、「松山ゆ車も通ふ」と詠まれている(「ゆ」は起点をあらわす助詞。「~より」)。

延齢館は明治37年(1904)に取り壊された。その建物があった小僧坂も高浜港の工事に伴い、姿を消した。虚子の『松山道後案内』にこの延齢館についての言及があるので引用しておこう。

延齢館 海中に突出した岩の上の建物で、倶楽部組織になって居るが、貸席をも業として居る。青松を透して白帆の去来を望むべく、此辺の好風景は此楼一つで占領しているかの如き観がある。夏は海水浴場の休憩所にもない又塩湯の設けもある。



▼ 子規が称賛した高浜よりの風景
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【参考文献】
高浜清(虚子)『松山道後案内 附伊予鉄道の栞』俳書堂 1904年5月(1983年4月復刻)
『子規全集』第1巻(俳句1)講談社 1975年12月
『子規全集』第6巻(短歌 歌会稿)講談社 1977年5月
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
松山市教育委員会(編著)『俳句の里 松山』子規記念博物館 2013年3月

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松山で最初の百貨店

いま松山市内にある百貨店は「松山三越」と「いよてつ高島屋」の二店。前者は「三越松山支店」の名称で昭和21年(1946)開店、後者は「いよてつそごう」の名称で昭和46年(1971)開店。実はこれ以前にも「大丸」と名のる百貨店が松山にはあった。

この「大丸百貨店」があったのは本町通り、札之辻交差点の母恵夢お堀端店がある辺り。大正6年(1917)、もしくは翌年の開店、同地で呉服店を営んでいた渡部卯平の経営になるものだった(『愛媛県史』には「渡辺卯平」と出るが「渡部卯平」であろう)。建物は洋風の四階建てだったが木造で、一階洋品、二階呉服、三階文具・化粧品、四階食堂といった店内構成。店内には全国的にもまだ珍しいエレベーターが設置されており、松山名物の一つに数えられていた。時代の先端を行く店だったが、松山の商業地の中心がこの店の立地する古町から湊町・大街道へと移りつつあった時期で、その流れに抗しきることはできず、昭和4年(1929)頃閉店。10年余りの短い営業だった。この百貨店のことは市民の記憶からも消えてしまっている。

【参考文献】
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 社会経済4 商工』1987年3月

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