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雷電為右衛門に勝利したことのある三津出身の力士

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三津の元町7番地、元町地蔵がある一角に地元出身の力士の墓が6基。画像前列左より、

①押尾川

(竿石正面)「釈教祐 押尾川」
(竿石右面)「文化六己巳年」
(竿石左面)「二月十日」
(台石正面)「世話人 若狭川 象ケ峯 門弟中」


②千代之松

(竿石正面)「千代之松墓」
(竿石右面)「士 明治廿二年三月廿六日 女 明治十二年六月十九日 妻 俗名 スヱ」
(竿石左面)「積徳勇天居士 善室名儀大姉」


③三ツ湊

(竿石正面)「妙法 三ツ湊」
(竿石右面)「萬延元申年」
(竿石左面)「八月十八日」


後列左より、

④松之音

(竿石正面)「古三津ノ産 松之音久吉墓」
(竿石右面)「押尾川門弟」
(竿石左面)「明治第甲戌歳 旧九月十五日卒」
(台石正面)「同所 若中」
(台石右面)「世話人」とあり、7人の氏名
(台石左面)7人の氏名


⑤押尾川

(竿石正面)「上林産 押尾川」
(竿石右面)「明治二巳年」
(竿石左面)「正月九日」
(台石正面)「門弟中」
(台石右面)「始 要岩 後 三坂山 改 押尾川 建之」
(台石左面)「世話人 篝火」


⑥打浪

(竿石正面)「(梵字の阿字) 打浪」
(竿石右面)「天保七歳」
(竿石左面)「辰 五月十日」



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墓の前には「郷土の相撲人 四代目押尾川」と題する説明板があり、①の「押尾川」の略歴が記されている。その記述内容には疑問を感じる点もあるので、ここでは『大相撲人物大事典』『史料集成 江戸時代相撲名鑑』(以下『名鑑』と表記)の両書によって、この押尾川の略歴を記しておくことにしよう。

押尾川巻右衛門 三津・塩屋町の灘屋喜太八の子。大坂に出て陣幕長兵衛の弟子となり、龍門瀧之助、のち龍門鯉之助と名のる。寛政2年(1790)3月、江戸に下って藤嶋甚助の弟子となり、西の関脇。翌年4月、名を陣幕嶋之助と改める。同7年11月、東の大関。以後、関脇陥落等もあるが、同12年10月、東の大関で押尾川巻右衛門(三代目)を襲名。文化元年(1804)、引退(年寄名跡押尾川部屋三代目)。江戸幕内での成績は60勝22負9分。同4年7月、帰郷。同6年2月10日、39歳で死去。法名・釈教祐。(説明板では四代目押尾川となっているが、『名鑑』では三代目。四股名の変遷についても、説明板の記述は上記2書と相違している。)

この押尾川は寛政3年(1791)6月の上覧相撲(将軍が観覧する相撲)で、最強力士とされる雷電為右衛門をのど輪攻めで破った。その対戦記録を引用しておこう(陣幕とあるのが当時の押尾川)。

関脇、東の陣幕に、雷電とて、この頃鳴神よりも響きわたれるをあはす。立ちあふさまに陣幕、早や雷電がのどへ手をかけ、咽喉(のど)づめといふ手して、たゞ一度に土俵へおしつめたり。このほどのうちどりには、いくらも角力に立合ひぬるも、滞なく勝ぬるは、思の外にあるかなと人いふ。今日の関脇にかなへりとて、弦を陣幕に与ふ。(幕府編修官・成島峰雄の「すまゐ観覧の記」)



②の「千代之松」については墓石に刻まれている没年月日、戒名以外、情報がない。

③の「三ツ湊」、『名鑑』には「三ツ湊吉平 幕下」「三ツ湊勇吉 三段目」「三ツ湊岩五郎 幕下」「三ツ湊政吉 上ノ口」「三ツ湊勇八 上ノ口」「三ツ湊政七 関脇」が出る。③はこのうちの誰かであろうか。

④の「松ノ音久吉」は慶応3年(1867)6月、西中頭23枚目(大坂番付)。墓石に刻むところによれば、古三津の生まれで、押尾川の門弟(「松南論叢」所収の論考で「押尾川の義理の弟」と推断しているのは誤り。墓石竿石右面の「押尾川」の字の下は「門」の字で、論者のいうような特殊な助詞ではない)。

⑤の「押尾川」は八代目の押尾川巻右衛門。浮穴郡上林村の村上氏の出。天保11年(1840)初土俵。現役時代の四股名ははじめ要岩、のち三坂山。最高位は西前頭4枚目(大坂番付)。安政5年(1858)、引退(年寄名跡押尾川部屋八代目)。明治2年(1869)1月9日、58歳で死去。

⑥の「打浪」、『名鑑』には「打浪三太左衛門 幕下」「打浪惣五郎(宗五郎) 前頭」「打浪久五郎(久兵衛) 二段目」「打浪仙蔵 三段目」が出る。このうち「仙蔵」は天保15年の時点で存命であるので、天保7年死去の⑥とは生存年代が合わない。

【参考文献】
横山健堂『日本相撲史』冨山房 1943年1月
田村仙十郎「関取押尾川伝」(「ふるさと久万第13号」1976年6月)
森常蔵『伊予浮穴郡拝志郷上林 村の風土史』1997年6月
「相撲」編集部『大相撲人物大事典』ベースボール・マガジン社 2001年4月
飯田昭一編『史料集成 江戸時代相撲名鑑(上)』日本アソシエーツ株式会社 2001年9月
三好正文「大関・押尾川ものがたり-大坂・江戸とつながる港町三津の歴史-」(「松南論叢第26集」2005年3月)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

三津出身の力士・押尾川の陣幕、講談に登場

寛政3年(1791)6月の上覧相撲、その雷電と陣幕の取組で、陣幕が勝った(昨日の記事参照)というのは大番狂わせで、講談で語られるネタともなっている。

その次が関脇、陣幕に雷電でございます。この相撲に陣幕は今日こそはという意気組、先だって陣幕は雷電のために春場所にやられております。両人見合っておりましたが、陣幕はひと足早く雷電の先を取りますつもりでございますから、互いに気合いが合うとともに、軍配を引くや否や陣幕は早くも雷電ののど元へ手をかけまして、のど締めという手でしたたかに締めつけまして、一度に土俵へ押しつけました。誠に呆気ない勝負でございます。雷電と陣幕の立合いなればさぞかしおもしろい手があって、見物であろうと思ったのが陣幕のために突然のど締めにかけられましてさすがの雷電もどうすることも出来なく、ついに押しつけられたのでございます。これで陣幕に軍配が上がりました。このとき雷電はにっこり笑いまして、「陣幕に押し詰められし御上覧今年負けても雷電は勝つ」という狂歌を詠みましたので、力士はどっと笑ったそうでございます。雷電という男もなかなかおもしろい気質で、しかし場所柄だけにいささか不謹慎であったという非難もございました。さて関脇の職に堪えたりというので、弦を陣幕に与えたそうでございます。(『長篇講談 雷電為右右衛門』第20席「上覧相撲の事、並びに雷電、陣幕に敗れて狂歌を詠む事」)


雷電が「陣幕に~」の狂歌を詠んだというのは作り話であろうが、人々の話題となった一番であったことは間違いない。三津に生まれた陣幕嶋之助(押尾川巻右衛門)はこの一番で大いに名をあげ、人々に語り継がれる力士となった。

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その陣幕=押尾川の墓(三津・元町7番地)。「押尾川」の上の三字は「釈教祐」。浄土真宗の門徒であった押尾川の法名である。これを「釈経福」と解読している論考もあるが、「経福」では法名としていささかおかしく、上記のように読むべきものと思われる。

【参考文献】
昇竜斎貞丈講演『長篇講談 雷電為右衛門』博文館 1918年11月

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テーマ : 歴史上の人物
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元町地蔵

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三津厳島神社門前の通りにある元町地蔵(松山市元町7番地)。享保元年(1716)7月24日の建立。『三津浜誌稿』には「新立の地蔵様」として出ている(新立は同神社門前の町筋の旧称)。先日の記事で紹介した押尾川他の力士の墓はこの地蔵尊の裏にある。この像を浄土真宗による建立と推定している論考もあるが、地蔵菩薩像の建立は浄土真宗の宗義上あり得ないことなので誤り。

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地蔵尊の裏には「豫州溺死者招魂碑」もある。明治17年(1884)8月25日の高潮による犠牲者の追悼碑。この高潮による犠牲者の多かった大可賀には「大可賀溺死者招魂碑」という同じ形の碑がある(大可賀2丁目の名号堂)。

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明治17年8月25日の高潮惨事については以下の記事を参照していただきたい。→2011年4月4日記事同年8月25日記事

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テーマ : 歴史
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「マムシに注意」の客谷古墳群

松山総合公園のある大峰ヶ台(西山)は埋蔵文化財の包蔵地。弥生時代の高地性集落や数多くの古墳などが発見されている。「客谷古墳群」はその大峰ヶ台の南西裾部にある群集墳。

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この古墳群は昭和61年(1986)に発見された。

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6~7世紀に造られた古墳が8基。その多くは直径5~10mの円墳。

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須恵器、耳環、管玉、三輪玉などが出土。4号墳・6号墳からは人骨も出土。当地方の遺跡では人骨の出土例が少ないので貴重であるという。

【参考文献】
『松山市文化財調査報告書第40集 大峰ヶ台丘陵の遺跡』松山市教育委員会・埋蔵文化財センター 1994年3月
『松山市文化財調査報告書第110集 大峰ヶ台遺跡Ⅲ』松山市教育委員会・埋蔵文化財センター 2006年3月

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テーマ : 歴史
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三津厳島神社の石灯籠

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「常夜燈」「文化十癸酉歳三月吉日」「郷分」「三津中」「今治石工 中谷元右衛門」の銘。文化十年、癸酉の干支の年は西暦1813年。制作を今治の石工に依頼しての三津氏子中の寄進。

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「常夜燈」「厳島大明神」「金毘羅大権現」「文化五辰十月吉日」「願主新立 町中安全」の銘。文化五年辰年は1808年。、新立の氏子が町中の安全を祈願して寄進。新立は厳島神社門前の町筋。

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「奉金毘羅大権現」「文化二乙丑歳正月吉日」の銘。もと松原町(宮前川「松原橋」の西側)にあった金毘羅の石灯籠を厳島神社に移したとの記述が『三津浜誌稿』にあるが、この灯籠のことであろう。文化二年乙丑歳は1805年。

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「天保十二年秋八月」の銘。天保十二年は1841年。旧暦では8月は秋になるので「秋八月」。

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