維新の時代の松山

維新の時代の松山-朝敵とされ賊軍藩の扱いを受けた松山にとってこの時代は決して明るい時代ではなかった。高浜虚子は当時の松山を次のように語っている。

私の郷里は伊予の松山でありまして、維新の風雪に際会して起ったといふやうな藩とは違ひまして、寧ろ維新の機運に取残されてをったといふやうな風でありました。その当時は極めて人心が萎靡して振はなかったものであります。(『俳句の五十年』「維新の松山」)

廃藩置県で、しかも松山藩は一旦朝敵といふ側にまはりましたので、士は職を失って、大した官吏にも採用されることができませんでした。官吏といふものは大がい薩長土の人々が入り込んで来まして、県の要路をしめました。それで中には商売人になるものもありましたが、それ等はよほど小才の利く人でありまして、大がい無職のまゝ居食をしたり、或は県庁か郡役所の小役人になったり、中には小使になったりする者もありました。(『虚子自伝』「西の下」)

その時分の松山藩は、戦に敗れた藩として、その士族は殆ど潰滅され、立ち上る勇気のあるものは極めて少なかったと言ってよいのでありました。(『虚子自伝』「京都」)

其時分の知事や旅団長の威風はたいしたものであった。殊に維新当時の藩論は佐幕に傾いて、土州、長州の兵隊の包囲を受けた苦い経験があるので旧藩士が藩閥出身の大官の前に頭の上らなかったのは道理のあることであった。若し彼等が職業を求めようとするならば極めて腰を低くして彼等の門戸に出入し、さうして卑賤な小吏に登用されるのを無上の名誉と心得なければならなかった。(「死に絶えた家」ホトトギス大正元年9月)

私は、子供心にも、朝敵であり、敗残者である松山の市民の、其頃知事以下薩長の顕官等の下に屈辱に甘んじてゐるのを不甲斐なく思った。何事か為すであらうことを心に誓ってゐた。(『虚子自伝』朝日新聞社)


敗残者で人心は萎靡、立ち上がる勇気のある者は少なく、屈辱に甘んじていたという。意気消沈の時代の松山。維新の変革は松山にとって暗い時代への転落であった。

【参考文献】
『定本高浜虚子全集』第13巻 毎日新聞社 1973年12月

DSCF6974_convert_20140201123919.jpg

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

砥部出身の俳優・井上正夫

▼ 井上正夫の胸像(松山市駅前)
DSCF6814_convert_20140113142545.jpg

井上正夫は明治14年(1881)6月15日、現在の砥部町生まれ。本名小坂勇一。新派の俳優。松山大街道の新栄座で初舞台を踏む。舞台劇のほか映画などでも活躍し、昭和24年(1949)には芸術院会員に選出された。翌年2月7日、68歳で死去。松山市駅前の胸像は昭和28年(1953)に建立された。

  井上正夫翁胸像除幕式 昭和二十八年五月十六日
言い継がむ伊予の誇りの芸の神 伍健



にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

「弱い子」だった秋山好古

安政6年1月7日、秋山好古(幼名信三郎)誕生。この日は西暦では1859年2月9日、155年前の今日である。

好古は7カ月の早産で生まれ、幼時虚弱であった。「この子が一人前に育つのだろうか」と母貞子も心配するほど弱い子であったという。

将軍は七ヶ月の月足らずの生れであった。されば生来極めて虚弱の質で、その哺育には両親共に多大の苦心と注意とを払ったのである。そのためか、赤ん坊の頃には非常な泣虫で、昼も、夜も、ヒイヒイと泣きづめであった。久敬氏(注-好古の父)が読書や思索に耽る時などは、貞子夫人は夫の心を乱さざるため、信三郎を懐に抱いて外出するのが常であった。それでも尚()ほ泣き止めぬ時には、慈愛に満ちた夫人も流石に困り果てゝ、
「こんな弱い子を育てたって何になるものか。なまじ何にも知らぬ今の中に殺して了(しま)ふ方が、此の子の仕合せかも知れん」
と心を鬼にして石手川の橋の上に立ったことも、一再ではなかったといふことである。三つ四つの年になって後も、
「此の子が一人前の人間になれるだろうか」
とは貞子夫人が弱々しい信三郎を見て、いつも他人に洩した言葉であった。
五十年間も女中として秋山家に仕へ、信三郎の守りをしたお熊婆さんは将軍の幼時を追想して、
「いつも鼻汁を垂らして能く泣いた坊さんで御座いました」
と述懐したことがある。(『秋山好古』第一章「郷土を出る迄」第三「泣味噌の鼻垂れ」)



▼ 秋山好古・真之兄弟の産湯の井戸(松山市歩行町「秋山兄弟生誕地」)
DSCF3490_convert_20130325173237.jpg

江戸時代からこの場所にあるという。秋山家の産湯・家事に使われた。

【参考文献】
秋山好古大将伝記刊行会(編集・発行)『秋山好古』1936年11月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

「摂政宮殿下特別大演習御野立場」碑(松山市高浜2丁目)

▼ 伊予鉄道高浜駅近くの荒神山にある「摂政宮殿下特別大演習御野立場」碑
DSCF7013_convert_20140209125947.jpg

摂政宮殿下特別大演習御野立場


DSCF7012_convert_20140209130047.jpg

陸軍大将秋山好古謹書


DSCF7014_convert_20140209130154.jpg

大正十一年十一月十五日大演習


DSCF7017_convert_20140209130239.jpg

為御成婚奉祝記念建之 大正十三年一月 新濱村



▼ 荒神山からの高浜沖
DSCF7021_convert_20140209130329.jpg

▼ 荒神山からの高浜港
DSCF7025_convert_20140209130429.jpg

大正11年(1922)11月15日、高浜で陸軍の上陸演習がおこなわれ、当地行啓中の摂政宮(のちの昭和天皇)が荒神山からこれを観閲。同13年1月、摂政宮の成婚を祝して当時の新浜村がこの碑を建立した。碑銘は秋山好古の書。

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

前田伍健の川柳

考えを直せばふっと出る笑い


当地柳壇の第一人者、前田伍健(1889-1960)の代表句。先の戦災で焼け野原となっていた松山の街の各所に伍健のこの句が貼り出され、多くの人に再起する勇気を与えたという。

他の川柳に、「言わなくてよかった帰り星仰ぐ」「たぬきいわく人よくよくよしなさんな」「たぬきとも人ともなって陽気好き」「長生きのわけふるさとの山と水」「不器用と言われた男鯛をつり」「こんなのが国宝かいと見直され」「子規の句があって名所へ格上げし」「松山の春松山の秋ヱーナもし」「悟られぬものと悟って茶一ぷく」「生きのびて今年も詣る椿祭」「こんな世と知りつゝ無駄な腹をたて」など。

今日、2月11日はその伍健の忌日である。

【参考文献】
『伍健句集 野球拳』伍健句集刊行会 1962年3月
『愛媛文学手鏡』愛媛文学叢書刊行会 1987年4月
『発掘えひめ人 近代を拓いた101人』愛媛新聞社 2002年9月
『前田伍健の川柳と至言』新葉館出版 2004年2月

DSCF8829_convert_20140422071242.jpg

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード