明治32年12月、子規を上機嫌にさせたもの

明治32年(1899)12月、根岸の自宅での子規の病床生活に一大変化が起こった。病室の庭に面したがわの障子をガラス張りのものとしたのである。冬の寒気は防げるし、外の光景も見える。子規は上機嫌であった。随筆「新年雑記」では次のように言っている。

ガラス障子にしたのは寒気を防ぐためが第一で、第二には居ながら外の景色を見るためであった。果してあたゝかい。果して見える。見えるも、見えるも、庭の松の木も見える。杉垣も見える。物干竿も見える。物干竿に足袋のぶらさげてあるのも見える。其の下の枯菊、水仙、小松菜の二葉に霜の置いて居るのも見える。庭に出してある鳥籠も見える。


見えるものの列挙は以下もつづくが省略して、

其外に予想しない第三の利益があった。それは日光を浴びる事である。真昼近き冬の日は六畳の室の奥迄さしこむので、其中に寝て居るのが暖いばかりで無く、非常に愉快になって終(つい)には起きて坐って見るやうになる。此時は病気といふ感じが全く消えてしまふ。


ガラス障子にしたことで、子規は新鮮なよろこびを感じていた。同月17日付の漱石宛ての手紙でもこのガラス障子のことにふれ、「こんな訳ならば二三年も前にやったらよかったと存(ぞんじ)候」と記している。

障子をガラス張りに替えることを提案したのは虚子であった。虚子はのちに子規を主人公とした『柿二つ』という小説を書いているが、そのなかでガラス障子にしたあとの子規の上機嫌ぶりを次のように描いている。

今年の冬の寒さが新に問題になった時、K(注-虚子)は、庭に面した南の障子をガラス障子に替へたら暖かだらうと言った。天気さへよければ一日日が当ってをるのであるから成程ガラス障子にしたら暖かだらうと彼(注-子規)も考へた。
此病室の凡ての物に不似合な手荒な物音をさせて居た建具屋が四枚の新しいガラス障子を嵌めて帰って行ったのは十二月の初めであった。
今迄障子を開けねば見えなかった上野の山の枯木立も、草花の枯れて突立ってゐる冬枯の小庭も手に取るやうに見えた。暖かい日光は予想以上に深く射し込んで来て、病床に横はった儘で日光浴が出来た。
彼は蒲団をガラス障子の近処迄引張らせて、其蒲団の上に起上って、ガラスの汚れたのを拭き始めた。
「そんな事をおして又熱でも出ると大変ぞな。」と老いたる母親は心配した。
彼はかまはずにガラスを拭いた。余り日がよく当るので彼は少し上気(のぼ)せて来た。壮健な時の楽しかった旅行の記念に何年か病室の柱に吊して置いた菅笠を思ひ出して、彼は其菅笠を取らせて被った。
此珍らしい機嫌はいつも曇ってゐる此一家内の空気を晴々とした。親子三人揃った笑声が暫くの間聞えた。
彼は遂に菅笠を被った儘机に凭れて原稿を書き始めた。
彼は愉快な事があると直ぐ仕事の事を思った。御馳走を食べても之(これ)は仕事をする為の御馳走だと思ふといゝ心持であった。もし仕事も何もせずに唯御馳走だけ食べるものとすると彼は自分に対して申訳が無かった。今ガラス障子が病室に出来て、今迄に覚えない暖かさを覚えるにつけて、彼は唯此愉快を快喫して居るに忍びなかった。彼は遂に菅笠を被った儘で机に凭れたのであった。(高浜虚子『柿二つ』第十一回「ガラス障子」)


子規がみずからガラスを拭いた、菅笠を被って原稿を書いたなどとあるのは、虚子の勝手な創作ではない。32年12月11日付の虚子宛ての子規の手紙に「今日は終日、浴光。自らガラスを拭くなど大機嫌に御座候。菅笠を被って机に向ふなど近来になき活溌さにて、為に昼の内に原稿を書き申候」とあるように、子規自身が述べていることがらである。ガラス障子の取り付けという何でもないことだが、病床の子規にとってはわれわれが想像する以上のよろこびだったのである。

【参考文献】
『高浜虚子全集』第6巻(小説集2)毎日新聞社 1974年10月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
『子規全集』第19巻(書簡2)講談社 1978年1月
柴田宵曲『評伝 正岡子規』岩波文庫 1986年6月

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高浜開港記念碑

▼ 高浜開港記念碑(松山市高浜1丁目)
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高浜開港記念碑
  逓信大臣従三位勲一等寺島健


高浜港の正式開港(明治39年9月11日)を記念した碑。高浜開港は伊予鉄道の主導によってなされた。以下。読み物風の県史『愛媛県政史』の記述。

高浜と伊予鉄とは不可分の関係があった。伊予鉄が高浜に投じた努力は大したものであった。海岸の埋立にしろ、大阪商船の桟橋とりつけにしろ、中橋徳五郎(引用者注-大阪商船社長)が来たにしろ、みな伊予鉄がやった仕事である。そこで三津浜町民は、絶望的ないかりの声を放った。
「三津の繁栄を奪ふものは高浜である。高浜は伊予鉄の経営である。伊予鉄の経営者は井上要である。井上要は進歩党の党目ではないか。井上を倒せ。進歩党を倒せ」
此の時以来、井上と、井上の率ひる進歩党に対して、三津浜町民は最大級の憎悪と反感とを示した。ここへ眼をつけたのは政友会であった。政友会は、自己の勢力伸張のためには、なかなかうまく頭を働らかせた。三津と政友会とはここで、情意の投合が出来た。(中略)
政友会は高浜を葬らうとしたが、進歩党は三津浜を葬らうとした。(『愛媛県政史』四「壮年期の愛媛県」)


伊予鉄道の社長・井上要が進歩党の議員でもあったことから、三津浜町はその対立政党の政友会と結びついた。当時の人は高浜を進歩党の港、三津浜を政友会の港と評したともいう。

以下のブログ記事も参照していただきたい。
「高浜開港と三津浜築港運動」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1456.html
「明治42年、幻の三津浜築港」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1457.html
「三津浜築港記念碑」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1458.html
「明治の三津浜築港問題-三津浜町と政友会の会合」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1459.html
「伊予鉄と三津浜」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1345.html
「乗合馬車で伊予鉄に対抗」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1346.html
「伊予鉄対松電」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-1347.html

【参考文献】
沢本勝・阿部里雪(利行)『愛媛県政史(一九二六年版)』愛媛県政史刊行部 1926年1月

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伊予鉄道社長・井上要と愛媛県知事・安藤謙介の対立

明治末年、愛媛県知事・安藤謙介は大規模な三津浜築港(港を近代化する大改修工事)を計画したが、これに猛反対したのが、伊予鉄道社長で進歩党議員の井上要であった。井上は『安藤知事横暴史』なる本まで出版して知事を攻撃、安藤は多数派の政友会を背景に計画をあくまで推進、二人の対立は激化し、中央の新聞にもそれが記事となるほどだった。

政友会は高浜を葬らうとしたが、進歩党は三津浜を葬らうとした。安藤の三津築港計画はすいぶん思ひきったことをやったもんだ。(中略)もちろん県会は、此の計画案を可決した。しかし進歩党は、へこまなかった。云ふまでもなく其の急先鋒は井上要であった。井上は、ここで、豺狼のような凄まじい活躍を見せた。それはまるで毒刃のごときものであった。三津浜築港の申請書が主務省に申達されると彼は直ちに不認可の蹶起運動を開始した。井上は「安藤知事横暴史」を出版し、之()れを宮内省、枢密院にまで持ち込んだ。さうして此の土木計画の無謀と、安藤知事の非を鳴らした。安藤と井上との一騎打が始まったのだ。彼らが上京すると東京の諸新聞は、彼ら二人の写真を掲載し「喧嘩する二人」と云ふような題目で、喧嘩のいきさつを書き立てた。三津浜町民の井上に対する憤慨の有様は物凄いものであった。井上が汽車で三津を通ると、彼らは石を投げつけ、罵り騒いだ。三津浜築港起工式が来た。町民の心は明るくうれしかった。それは祝福と栄光の日であった。彼らは安藤知事を礼讃した。彼らは政友会を謳歌した。そこで安藤知事の記念碑が出来た。それは礼讃と謳歌の結晶であった。街はむろん賑はった。ダンヂリが出た。笛、鐘、太鼓、仮装団が出た。おいらん道中もあった。町民は、歌ひ、舞ひ、踊った。井上はしかし憎まれた。ウンと憎まれた。おはなしにならぬくらいに憎まれた。(中略)此の狂熱的な歓喜が、タッタ一ヶ月ほどの後に於て、まるで、うたかたの夢のごとくに、あっさりと消えさらうとは、さすがの三津浜町民も、思ひ設けなかったであらう。為政者と、政党に頼るほど、はかないものはない。(『愛媛県政史』四「壮年期の愛媛県」)


二人の争いは、桂内閣による安藤の事実上の解任で終息、後任の知事によって三津浜の築港も取り止めとなった。安藤との争いに勝利した井上であったが、三津浜には反井上の感情がながくのこった。

▼ 井上要翁頌徳碑(梅津寺公園前)
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井上要がその創設に尽力した二番町の初代県立図書館前に建てられ、のち梅津寺の現在地に移された。

【参考文献】
沢本勝・阿部里雪(利行)『愛媛県政史(一九二六年版)』愛媛県政史刊行部 1926年1月

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獅子文六の小説『大番』に見える南予方言

獅子文六(1893-1969)の『大番』(初出「週刊朝日」1956年2月26日号~1958年4月27日号)は東京兜町の証券界で成功して行く相場師の生涯を描いた娯楽小説。主人公の相場師・赤羽丑之助(ギューちゃん)は愛媛の南予地方の生まれということになっている(獅子文六は終戦直後の一時期、南予の旧岩松町に住んでいた)。小説の会話文では、その南予地方の方言が以下のように効果的につかわれている。

「あんたはん、大阪で逢うた赤羽さんと、ちがいますか」
と、ウドン屋の店先から、飛び出してきた男があった。見ると、大阪で、旅館や見物の案内をしてくれた、兵頭勘助だった。
「オータ、これは……」
「がいに、美々しゅう、着飾っとんなすけん、見ちがうところでしたわい。あの節は、だんだん(礼の意)……」
「いや、わしこそ、えらい、お世話かけて……。あんた、いつから、鶴丸(引用者注-南予の架空の地名)へ、来なはったのや」
「はい、今朝がた、姫之宮(引用者注-南予の架空の地名)から、参ったばかりですらい。あんた、イリコの景気が、いよいよ、立ちよってなし、正月も、ゆっくり、休んでおられん始末や。今日は初商(はつあきな)いしょう思うて、鶴丸へ来よったんやが、思うように、荷が集まらんでなし。あんた、一つ、どこぞ、世話してやんなさらんか」
「そら、心当りを、訊ねてあげてもええが、今は、森さん方へ、お年賀に行くところやけんな、戻りまで、その辺で、待っとんなせや」
「え? あんた、森さんと、ご懇意だすかいな」
兵頭勘助は、俄かに、眼を輝かせた。
「はい、森さんの嬢さんとも、東京で、仲よう交際しとりますらい」
丑之助は、だいぶ、オマケをつけた。 (『大番』「新暦」二)


「あんた、どがいしなした?」
と炊事室から、弁五郎が駆け上ってきた。
「おウ、ちっと体悪うしとったが、もうこの通りや。これから精出して働くけん、お前もシッカリやれや」
「そら、結構だすらい。大将も、森さんのお嬢さんのような病気出しなはらんかと、心配しとったところやけんな」
「阿呆やな、わしア、肺病とは縁はないわい。しかし、可奈子はんも、お気の毒したな。鶴丸町の森家でも、どがいにか、嘆いとられるやろう。どや、お前、一度、郷里へ戻って、慰めてあげんかいな」
そういう丑之助の態度に、シンミリした情感はあっても、狂噪の色は、まったく見られなかった。
「そやな、わしも久しゅう戻らんけん、国が恋しゅうなったところだすらい」
「ほて、お前も、東京はこの辺で思い切って、鶴丸町でウドン屋でも始めたら、どがいぞ。きっと、当りよるぜ。資本は、わしが出してやるけん……」
「そら、大けに……。わしも考えてみますらい。何のかんのちゅうても、わしア釜前で働く外に、芸のない人間だすけんな」
三十年前の二人を考えると、現在の差は、あまりにも、隔りができた。弁五郎は、それを嘆かずにいられなかった。
「何いうとるかい。わしかて、相場の外に、何の芸もない男やないか」
丑之助は、優しく対手(あいて)を慰めた。 (『大番』「大団円」二)


小説では、他にも単語として、「トッポ(間抜け)」「テンポ(向う見ず)」「鬼味噌(弱虫)」「ズンバイ(たくさん)」「ソータイぶり(久しぶり)」「テンゴー(出来もしないこと)」「ノーゾー(ふしだら)」などの南予方言がつかわれている。南予の方言はここ中予の松山の方言とは系統を異にしており、小説の上のような言葉もなじみのないものが多い。アクセントの位置なども、京阪型の中予方言とはかなり異なるのではなかろうか。

【参考文献】
獅子文六『大番(上)』小学館文庫 2010年4月
獅子文六『大番(下)』小学館文庫 2010年4

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漱石、好古も通った道後温泉

松山中学在職時代の夏目漱石は毎日、道後温泉に通っていた。

あんないゝ先生が松山なぞへ来たのは、道後の温泉がある故、保養旁々(かたがた)教鞭をとるに過ぎまいなぞと云はれてゐた。事実先生は、毎日半里(注-約2キロメートル)の温泉まで通ったものである。(真鍋嘉一郎「夏目先生の追憶」)


北予中学校長時代の秋山好古も道後温泉に行くのを日課としていたという。

翁(注-秋山好古)に対し何人も常に関心せしはその健康である。何と言っても高齢である。(中略)然るに校長先生の職務には余りに恪勤精励を極めたるを以て、これがためその病勢を増進することなきや、その健康の衰退することなきやは何れも気遣った処である。然るに翁は学校の帰途必ず道後の温泉に入浴し、一日も欠くる処なく、極めて規則正しき年月を送られたのである。霊泉果して効験ありしか翁の病気は、年と共に次第に癒へてその健康少しも変る処なきを得たのは誠に喜ばしい限りであった。(井上要『北豫中学・松山高商楽屋ばなし』二二「松山に於ける私人秋山翁」)



▼ 道後温泉本館
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▼ 道後温泉駅前の「坊っちゃん列車」
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【参考文献】
井上要『北豫中学・松山高商楽屋ばなし』(編集兼発行人・岡田栄資)1933年11月
『漱石全集』別巻 岩波書店 1996年2月

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