秋山好古、大阪師範学校時代の質素な生活

明治8年(1875)5月、秋山好古(数え年17歳)は大阪師範学校に入学。翌年、同じ松山出身で同い年の鴨川正幸が同校に入学した。秋山と鴨川は松山では家も離れていたので交際といえるほどのものはなかったが、師範学校ではただ二人だけの同郷人だったので、たちまち親しくなった。当時、同校の生徒は年長者が多く、30歳、40歳くらいの者も珍しくなかった。200名ほどの全校生の中で秋山と鴨川は最年少の部類に属していた。

秋山、鴨川はともに士族の出であったが、家は豊かではなかったため、二人の師範学校時代の生活は極めて質素であった。二人とも羽織を一枚ずつしか持っていなかったが、秋山のは裏が破れ、鴨川のは表が破れたために、二枚の羽織を合わせて一枚の羽織を作り、外出の際には交替で着て出たなどという話も伝わっている。

鴨川は帰郷後、松山市の収入役をながく務め、市政功労者として表彰された。師範学校時代の秋山については次のように語っている。

秋山君は師範学校では中位の成績で、特に傑出してゐたといふ点は見なかったが、多くの年長者の間に伍しながら、堂々として少しも引けを取らない態度を持してゐた。それに何時も要領を得たやうな得ないやうな、茫漠としてゐる中に、何となく大きなところがあった。


秋山は師範学校卒業後、名古屋の小学校で半年余り教職を務めたが、一転して陸軍士官学校に入学、軍人の道を志すようになる。

▼ 松山市梅津寺町・見晴山の秋山好古銅像
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【参考文献】
秋山好古大将伝記刊行会(編集・発行)『秋山好古』1936年11月
松山市史編集委員会編『松山市史』第3巻 松山市役所 1995年5月

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東京の飛鳥山、松山では……

▼ 道後公園(国史跡「湯築城」跡)
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正岡子規の「東京松山比較表」(『筆まかせ』第一編「松山会」)には

飛鳥山 道後公園


という項目がある。東京の飛鳥山(あすかやま)は江戸時代以来の桜の名所、明治6年(1873)には上野、芝などとともに日本最初の公園に指定された。松山でこの飛鳥山に当たるのは道後公園ということで、比較表に上の一項が設けられたのであろう。

秋山好古が陸軍士官学校の入学試験を受けたとき、「飛鳥山ニ遊ブ」と題して書けという作文の課題があったが、好古は飛鳥山が公園であることを知らず、「飛鳥(ひちょう)、山ニ遊ブ」の意だろうと考えて、鳥が山で歓び遊んでいるさまを書いたというエピソードが司馬遼太郎の『坂の上の雲』(「春や昔」)にある。これは実は好古と同期の別人のエピソードなのだが、この件については次回のブログ記事で述べることにしよう。

【参考文献】
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月

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『坂の上の雲』の「飛鳥山ニ遊ブ」の作文のエピソード

前回のつづき)

秋山好古が陸軍士官学校の入学試験を受けたとき、作文の課題の「飛鳥山(あすかやま)ニ遊ブ」を「飛鳥(ひちょう)、山ニ遊ブ」と勘違いしたという話は、『坂の上の雲』(「春や昔」)に次のように出ている。

試験がはじまった。
作文の考査である。好古は、さきに願書を出したとき作文があるということは寺内正毅大尉からきかされなかった。
ところが早耳のあの丹波人本郷房太郎が薩摩の受験生からきいてきて、
――作文もあるそうじゃ。
と、耳うちしてくれたのである。
(中略)
正面に、題が貼りだされている。
「飛鳥山ニ遊ブ」
というのが題であった。
好古は、なんのことかわからない。アスカヤマという山がこの世にあろうとは夢にも知らないのである。
飛鳥山とは、上野、隅田川とならんで東京における桜の三大名所なのである。山といっても丘のようなもので、ふもとを音無川がめぐり、頂きを歩けば荒川の流れをのぞみ、国府台や筑波山を見ることができる。東京の者なら子供でもその地名は知っているであろう。
が、好古が知るわけがない。
(こりゃ、山の名ではあるまい。飛鳥(ひちょう)、山ニ遊ブ、とよむべきではないか)
そうだと思い、そう思うと急に勢いが出てきて書きはじめた。
「余ガ故国伊予ニハ名湯アリ、道後ノ湯ト名ク。湯ノ里ニハ山アリ、山容ナダラカニシテ神韻ヲ帯ブ。古ノ河野氏ノ城阯ナリ」
というところから書きはじめ、その山に鳥が大よろこびで遊んでいるという描写をした。
とにかく時間いっぱいで書きあげて校庭に出てみると、桃太郎のような顔の本郷がぼんやり立っている。どうした、ときくと、「えらいことをした」と本郷はいう。本郷も飛鳥(ひちょう)のほうであった。(司馬遼太郎『坂の上の雲』「春や昔」)


好古のこの勘違い話は彼の些細なエピソードも記している秋山好古伝記刊行会編の膨大な伝記にも載っていない。では司馬遼太郎の全くの創作かといえばそうでもなく、実は上にも名の出ている好古と同期の本郷房太郎(丹波篠山出身)のエピソードであった。その本郷の伝記には次のようにある。

その入学試験については、次のやうな面白い話がある。作文の試験に、「飛鳥山ニ遊ブノ記」といふ題が提出された。幼年学校にでも学んでゐたら、飛鳥山ぐらゐは知ってゐたのであらうが、何分故郷を出て東京に住むこと僅か一年、それも厳格な塾生々活をしてゐた大将は、飛鳥山といふ山が東京附近にあらうなどとは全く知らなかった。問題を一瞥するや、「飛鳥、山ニ遊ブノ記」と読んだ。さうして百花爛漫として咲き乱れ、諸鳥欣々然として戯れ遊ぶ、楽しい春の山の景色を書綴って提出したといふことである。然るに幸にも入学許可になった三十四名の中に入って、堂々入学を贏ち得たといふことは、勿論他の学科の施成績が優秀であったには違ひないが、同時に又その文章も余程立派に出来て居たのであらう。(『陸軍大将本郷房太郎伝』第一編「伝記」四「陸軍士官学校生徒時代」)


司馬遼太郎はこの本郷のエピソードを『坂の上の雲』では、秋山・本郷二人の失敗談とした。小説としてはそのほうがおもしろいと判断したのであろう。

【参考文献】
本郷大将記念事業期成会(編集発行)『陸軍大将本郷房太郎伝』1933年2月
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文春文庫(新装版) 1999年1月

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秋山好古の「つらくてたまらん」時代

明治10年(1877)5月4日、秋山好古(数え年19歳)は陸軍士官学校に入学(第3期生)。入学試験の作文で「飛鳥山ニ遊ブ」の題意を勘違いしたあの本郷房太郎も同期であった。不運なことにこの入学前の2月、西南戦争が勃発、陸軍当局は士官学校の生徒も在学のまま戦地におくるつもりでいたから、同年入学の好古らに対する教育は過酷を極めたものとなった。さすがの好古もその過酷さにはこたえたようで、短い休暇中に帰省したおり、士官学校のことを尋ねた友人(鴨川正幸)に「つらくてたまらん」とこぼしている。

(鴨川正幸は)その年の夏、士官学校から休暇のため帰省してゐた秋山と途中で出会ったことがある。鴨川氏は秋山に向って、
「お前、士官学校い入ったさうぢゃねや。アシも田舎で愚図愚図してゐて詰まらんけん、士官学校いでも入らうかと思うんぢゃが、何()うかねや」
と聞くと、率直な秋山は、
「止()め止め、何ぼにも辛くてたまらんけん」
と言ったので、生来あまり強健でもなかった鴨川氏も、思ひ止(とど)まったといふことである。(『秋山好古』第一篇第二章第一「初めて剣を吊る」)

(注-文中の「士官学校い~」は「士官学校へ」の意。松山地方の方言では助詞の「へ」は「い」のように聞こえることがあるのでこのように表記したのであろう。)


士官学校の教育は忍耐強い好古でも「つらくてたまらん」ものであった。この鴨川と好古のやりとりは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、

好古は三津浜で船からおり、下士官服に似た士官学校の制服をきて町へ入ってきた。そういう好古を最初に町角で見かけたのは、幼友達の鴨川正幸であった。(中略)
鴨川はなつかしいよりもなによりも、好古が士官学校に入ったことがうらやましくてならず、
「士官学校ちゅうのは、やはり官費かな?」
とたしかめてから、
「あしも田舎で薄ぼんやりすごしていてもつまらんけん、士官学校ィでも入ろうと思うんじゃが、どんなもんじゃな」
鴨川にすれば、本気であった。(中略)ところが好古は、
「やめえ、やめえ」
と、帽子の下から汗をながしながら手をふった。鴨川はおどろき、何してや、ときくと、
「何してて、あげなところ、なんぼか辛うてたまらん」
と、好古は頭をふった。(中略)
「信さんでも、つらいかねや」
これには、鴨川もおどろいた。銭湯にやとわれて水汲み風呂たきをした好古の姿を鴨川は幼友達だっただけによく知っており、その好古がつらがるようでは、
(あしにはどうにもならんな)
とおもった。


というように、小説的にうまく脚色されて描かれている(文春文庫新装版第1巻91ページ以下)。

▼ 松山市梅津寺町・見晴山の秋山好古銅像
DSCF5560_convert_20131017113546.jpg

【参考文献】
秋山好古大将伝記刊行会(編集・発行)『秋山好古』1936年11月
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文春文庫(新装版)1999年1月

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原敬の暗殺を予言した人物

大正10年(1921)11月4日、原敬(はらたかし)首相が東京駅頭で一青年によって刺殺されるという事件が起こった。当時、国勢院総裁だった小川平吉の回想によると、その前日、五百木良三が「原はきっと殺()られる」と断言していたという。

嘗つて大正十年十一月原敬氏遭難の前日、目白の近衛公爵邸の庭園で公爵が懇親の人々を招かれて雅宴を催されたとき、近衛公を囲んで頭山君、寺尾君、大竹君、五百木君や私などが居った席で、談たまたま暗殺のことに及び、星亨、安田善次郎などの話が出た折、五百木君は(原は)必()っとやられると断言せられたのであった。(中略)私は五百木の予言が余りにも適中したことに寧ろ慄然としたのであった。私だけではなく近衛公爵も、五百木君が余りにも強く原氏の暗殺を予言されたので、もしや同君が何らかの関係を暗殺事件に持つものではなからうかと、秘かに君の身辺を憂慮せられたのであった。(小川平吉「大陸政策・思想問題の先覚者」『日本及日本人』五百木追悼号)


この五百木は正岡子規の親友のあの五百木飄亭である。明治3年(1871)、松山に生まれた五百木は子規の最初の俳句の弟子ともいうべき存在だったが、のちに政治への関心を深め、国事に奔走するようになった。原の暗殺を予言したことから、この事件への関与を云々する人もいるが、確かな証拠はなく、近衛邸宴席での放談として言ったことがたまたま当たっただけなのかもしれない。五百木の「句日記」には「原敬氏東京駅に倒る」の前書で次の一句があるという。

散る一葉(ひとは)我に天地の響あり


五百木にとって原の死は天下変動の兆し、この句からは原の死を悼むというような思いはうかがえない。

【参考文献】
松本健一『昭和史を陰で動かした男 忘れられたアジテーター・五百木飄亭』新潮選書 2012年3月

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