明治の松山、伊予鉄の駅開設にともなう珍騒動

明治20年(1887)9月14日に開かれた伊予鉄道の創立総会で、路線は松山(湊町西端=福正寺前)-三津口(萱町六丁目)-三津(住吉端東詰)と決定。駅ができる松山湊町の商店主らは一様にこれを喜んだが、同町の反対方向である駅の西側の町筋に鉄道利用客の足が流れることを危惧して、駅の西面に堤防を築かねばならぬと断固取り決め、一時大きな問題となったという。

此線路の起点を湊町西端に決めて工事にかゝらうとする頃、湊町の人々は一喜一憂で乗客出入の中心を手近に引寄することゝなったのを喜ぶと共に其乗客が西方の各町に散るを憂ひ、四方開通、集散自由では大に町の繁栄を害するにより断然松山駅の西面に堤防を築かなければならぬと申合せ、大に問題となった。幸に夫()れは鈴木安職君等尽力によって漸く鎮静したけれども一時は中々の騒ぎであった。此一例を見てもその頃一般の鉄道に対する理解の程度と世相人心の如何なるものであったかを卜するに足るであらう。(井上要『伊予鉄電思ひ出はなし』第一「伊予鉄道の創業時代」二「第一回株主総会の思ひ出」)


堤防を築いて人の流れを止めるというのもおかしな発想だが、当時の湊町商店主らにとってはこれも真剣に考えてのことだったのだろう。伊予鉄道の開業以降、湊町・大街道が古町にかわって松山の商業機能の中心となったから、湊町商店主らがいだいた当初の危惧は結局杞憂に過ぎなかった。

【参考文献】
井上要『伊予鉄電思ひ出はなし』伊予鉄道電気株式会社社友会 1932年9月

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明治松山の三大呉服店

正岡子規(1867-1902)の「東京松山比較表」(『筆まかせ』第一編「松山会」)に

大丸 米周
越後屋 米藤
白木屋 しほや


という項目がある。「大丸」「越後屋」「白木屋」は江戸・東京の三大呉服店。これに対応する「米周」「米藤」「しほや」は松山の代表的な呉服店で、いずれも子規生い立ちの家と同じ町内の湊町(長町・永町)に店舗を構えていた(「米周」は現在、ビル名としてのこっている。「しほや」は現在の塩屋呉服店)。

この湊町に近い大街道で生まれ育ったのがのちの学習院院長・安倍能成(1883-1966)であるが、その自叙伝『我が生ひ立ち』は幼少年期=明治の頃の松山についての記述が詳しく、「米周」「米藤」「しほや」についても以下のように語られている。

長町で米周、米藤といふ同じ格の呉服屋が二軒隣り合せて居て、米藤の方は世良藤蔵といひ、米周が即ち長坂で、父は長坂周次郎といひ、兵七郎(注-安倍能成の小学生時代の同級生)も跡取りになってからは父の名を嗣いだ。長町には外に「志ほ屋(しほや)」といふのがあったが、これは京都からの出張店であって、精選された品はこちらにあるといふ姉の話であった。しかし「志ほ屋」の方はひっそりして居たけれども、米周、米藤の方は実に賑かであった。広い店を鍵の手に十数人の手代がすわって客に接して居た。客の注文の品を聞いては、手代が側に待機して居る丁稚(小僧)に、何々を持って来いと命ずると、丁稚はええーんといって、その品物を歌のやうに復誦し、奥の蔵へいって持って来るのである。恐らく蔵にはさういふ品を配付する手代が居るのであらうが、私はその後又外でかういふ光景を見たことはないけれども、恐らくこれは松山だけの現象ではあるまい。(安倍能成『我が生ひ立ち』Ⅰ「尋常小学のクラスメート」)


ここに記されているように、明治の頃までの呉服店は、店頭に商品を陳列せず、客の注文を聞いてから奥の蔵にしまってある商品を取り出し、客に見せるという座売り方式だった。ショーウィンドウが取り入れられ店頭に商品を飾る陳列販売方式が一般化するのは大正期になってからであったらしい。

明治27年(1894)10月刊の『商工案内松山名所普通便覧』では、「米周」が「呉服太物商 長坂周次郎」、「米藤」が「呉服太物商 世良藤蔵」、「しほや」が「呉服太物商 志を屋 吉田重兵衛支廛」として出ている。明治42年(1909)3月刊の『松山案内』では、「米周」が「合名会社米周呉服店舗」、「米藤」が「商号米藤世良呉服店」、「しほや」が「呉服太物商 商号塩屋 吉田重兵衛支店」として出ている。

【参考文献】
安倍能成『我が生ひ立ち』岩波書店 1966年11月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
池田洋三『新版 わすれかけの街 松山戦前戦後』愛媛新聞社 2002年6月

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「九月十四日の朝」-子規庵の庭の糸瓜

「九月十四日の朝」は正岡子規が死の5日前に虚子に口述してなした1300字ほどの短いエッセー。この日の朝の光景を綴ったもので、文中には庭の糸瓜の葉が揺れて、秋冷が心地よいとの記述が見える。以下、このエッセーの一部。

今朝起きて見ると、足の動かぬ事は前日と同しであるが、昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得た為であるか、精神は非常に安穏であった。顔はすこし南向きになったまゝちっとも動かれぬ姿勢になって居るのであるが、其儘にガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風も無い甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀が三枚許(ばか)り載せてあって、其東側から登りかけて居る糸瓜は十本程のやつが皆痩せてしまうて、まだ棚の上迄は得取りつかずに居る。花も二三輪しか咲いてゐない。正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭は其よりも少し低く五六本散らばって居る。秋海棠は尚衰へずに其梢を見せて居る。余は病気になって以来今朝程安らかな頭を持て静かに此庭を眺めた事は無い。(中略)虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふやうに、糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く。其度に秋の涼しさは膚に浸み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持であった。何だか苦痛極って暫く病気を感じ無いやうなのも不思議に思はれたので、文章に書いて見度くなって余は口で綴る、虚子に頼んで其を記してもらうた。


死の前日、子規がしたためた「絶筆三句」はこのエッセーでも言及されている糸瓜を詠んだものであった。

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水も取らざりき


これを詠んだ9月18日は旧暦8月17日。旧暦8月15日の夜に取った糸瓜の水は痰切り、咳止めの薬になるという俗信があったので、後の二句にはその糸瓜の水が詠まれている。上のエッセーに記すとおり、子規庵の庭には女郎花、鶏頭、秋海棠などもあったが、子規が辞世を意識して句に詠んだのはどこかユーモラスな糸瓜であった。9月19日の子規の忌日はその糸瓜にちなんで「糸瓜忌」とも呼ばれている。

【参考文献】
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月

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正岡子規「絶筆三句」

正岡子規の絶筆は「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」の三句。子規はこの三句を死の前日(明治35年9月18日)、仰臥のまま筆で記した。そのときの模様は側にいた碧梧桐が克明に記録している。

妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。軈(やが)て例の画板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるのであらうと不審しながらも、予はいつも病人の使ひなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添へ、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ
 糸瓜咲て
とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくさうにあったので、こゝで墨をついで又た渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて
 痰のつまりし
まで又た一息に書けた。字がかすれたので又た墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駈られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに
 佛かな
と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるやうに感じた。書き終って投げるやうに筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つゞけざまにして痰が切れんので如何にも苦しさうに見えた。(中略)其間四五分間たったと思ふと、無言に前の画板をとりよせる。予も無言で墨をつける。今度は左手を画板に持添へる元気もなかったのか、妹君に持たせた儘(まま)前句「佛かな」と書いた其横へ
 痰一斗糸瓜の水も
と「水も」を別行に認めた。こゝで墨をつぐ。すぐ次へ
 間にあはず
と書いて、矢張投捨てるやうに筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなさうなので、予は以前に増して動悸が打って胸がわくわくして堪らぬ。又た四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ちかたが少し具合がわるさうであったが其儘少し筋違に
 を登ひのへちまの
と「へちまの」は行をかへて書く。予は墨をこゝでつぎながら、「登」の字の上の方が「ふ」の字のやうに、其下の方が「ら」の字の略したものゝやうに見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であらうと聊か怪みながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるものゝやうなしるしをした。それで始めて「を登とひの」であると合点した。其あとはすぐに「へちまの」の下へ
 水も
と書いて
 取らざりき
は其右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂の方が先きに落ちたので、白い寝床の上へ少し許(ばか)り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身も其字を見て居る様子であったが、予は此場合其句に向って何といふべき考へも浮ばなかった。がもうこれでお仕舞ひであるか、紙には書く場処はないやうであるけれども、又た書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去る事が出来なかったが、其後再び筆を持たうともしなかった。(河東碧梧桐「君が絶筆」『子規言行録』)

[「登」は碧梧桐の原文では「登」をくずした変体仮名の「と」であるが、ここでは便宜上漢字の「登」で示した。]


この三句をしたためてから13~14時間後に子規は亡くなった。

子規直筆のこの「絶筆三句」は軸装されて子規庵に保存されていたが、子規の五十回忌に当たって国立国会図書館に寄贈された。同館のデジタル化資料でその画像を見ることができる(→http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288398/5)。

「絶筆三句」の書としての価値を論じたものに石川九楊『近代書史』(第25章)があることも付け加えておこう。

【参考文献】
河東碧梧桐編『子規言行録』政教社 1936年12月
石川九楊『近代書史』名古屋大学出版会 2009年8月

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興居島にあった城「明沢城跡」

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興居島の泊港の北にある丘陵(通称「城山」)。

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戦国時代、この丘陵には「明沢城」と呼ばれる城郭があった。

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丘陵の南麓には、明沢城主・村上信濃守弘正の菩提寺と伝える弘正寺がある。

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明沢城阯 大字本浦の中央点より東北二町四十間の所、海上に突出せる断崖絶壁の上にあり。上部平坦にして東西六十間、南北十二間、老松蟠生す。之を城山と曰ふ。河野家十八将の一人、士大将・船大将兼帯村上備中守吉光の旗本組衆、村上信濃守弘正これに居る。のち天正年間、石崎四郎三郎居る。(『新編 温泉郡誌』「興居島村」)


明沢城は、本浦海上に突き出た丘陵を、十数段に削平して連郭方式を中核とし、堀切りによって背後を内陸部と隔絶している。頂上部にある一の郭は、北面に土塁が一条あって、南面には幅五メートルの腰曲輪があり、その中央部に方一メートル配石された所がある。自然石は赤変して、のろし台遺構と思われる。(中略)『河野分限録』に、因島村上氏の麾下組衆村上信濃守弘正が、天正年間に興居島城(明沢城)主として在城したとある。菩提寺とされる弘正寺もある。(『松山市史』第1巻)



【参考文献】
松田卯太郎編『新編 温泉郡誌』松山石版印刷所 1916年3月
興居島中学校編『ふるさと興居島』1985年3月
松山市史編集委員会編『松山市史』第1巻 1992年10月

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