「つねき」とも呼ばれた子規

正岡子規は本名常規(つねのり)、幼名升(のぼる)。周囲からは「のぼさん」と呼ばれたが、叔父の加藤拓川は「つねき」と呼んでいたという。

正岡子規の本名は常規ですね。あの「つねのり」を加藤拓川は「つねき、つねき」と言っておりました。「つねのり」と言わないで「つねき」、音読と訓読をまぜた変な読み方でありますが、そういうことを親戚の中でよくやっていたのかもしれません。(子規の縁戚・服部嘉香「子規と古白と拓川」『加藤拓川』所収)


上京の志のあった子規を東京に呼び寄せたのはこの拓川であった。明治23年(1890)、まだ学生であった子規はパリにいたこの叔父に頼んでハルトマンの『美学』のドイツ語原書を送ってもらった。子規はドイツ語が読めなかったが、叔父からのこの本を漱石らの友人に得意になって見せびらかしたという。

【参考文献】
畠中淳(編著)『加藤拓川』松山子規会 1982年2月
ドナルド・キーン 角地幸男訳『正岡子規』新潮社 2012年8月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

子規、ハルトマンの哲学書で漱石を恐れさせる

学生時代の一時期、哲学に凝っていた正岡子規はパリにいた叔父加藤拓川(恒忠)に頼んで美学のドイツ語原書を送ってもらい、これを友人らに得意になって見せびらかした。難解な哲学書をふりまわす子規に「僕などは恐れをなしていた」と漱石はのちに語っている。

彼は僕などより早熟でいやに哲学などを振り回すものだから僕などは恐れをなしてゐた。僕はさういふ方に少しも発達せずまるでわからん処へ持って来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持込み大分振り回してゐた。尤も厚い独逸書で、外国にゐる加藤恒忠氏に送って貰ったものでろくに読めもせぬものを頻りにひっくりかへしてゐた。幼稚な正岡が其を振り回すのに恐れを為していゐた程こちらは愈々幼稚なものであった。(夏目漱石「正岡子規」)


送ってもらった書はハルトマンの『美学』。子規はドイツ語ができないので、ドイツ語に堪能な幼なじみの三並良の助けを借りてこの書を読もうとした。が、語義はわかっても内容は少しもわからず、二、三枚読んだだけで諦めてしまったという。

審美学の書物見たしと思ひ丸善などをあさりしに審美の書めきたるは一冊も無し。わざわざ外国にある人のもとに頼みやりて、何か審美学の書物をといひしに、ハルトマンの審美学をおこしくれたり。嬉しさに其本を携へて独逸語を知る友人の許へ行き、初めより一字一句読みてもらひしが、さて字義ばかりは分りても、分らぬは全体の意義なり。二三夜通ひて二三枚読みしが少しも分らぬに呆れはてゝ終に其儘に打ち棄て置きたり。(正岡子規『随問随答』八)


その後、『柵草紙』誌上に森鴎外の訳でハルトマンの『美学』の連載が始まった(『審美論』の題)。子規はこれも読んだが、訳を読んでも一向にわからなかったと述懐している。

然るに其後のしがらみ草紙にハルトマンの審美学の訳を載するの広告あり。此時もいたく喜びて、急ぎ買ひ読みしに、再び失望し了りぬ。しがらみ草紙の訳は原書を一字一字訳したる者故、訳の正確なると同時に、原書にて分らぬ一章一節の大意は訳文にても一様に分らぬなり。吾はしがらみ草紙を抛ちし以後再び審美書を手にせざりき。(正岡子規・同上)


ドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマン(1842-1906)。鴎外は一時期このハルトマンを信奉し、「書籍の形したる我師なり」とまで言ったが、子規にとっては縁遠く理解しがたい哲学者であった。余談になるが、東京大学はこのハルトマンを哲学の教授として招こうとした。だが、ハルトマンは自身に代わる旧知の間柄の人物を推薦して東大のその任に就かせた。これが夏目漱石、西田幾多郎、波多野精一、九鬼周造、和辻哲郎、安倍能成、久保勉らの数多の教え子に深い精神的影響を与えることになるラファエル・フォン・ケーベル(1848-1923)である。

【参考文献】
『子規全集』第5巻(俳論俳話2)講談社 1976年5月
『子規全集』別巻2(回想の子規1)講談社 1975年9月
小堀桂一郎『森鴎外』ミネルヴァ書房 2013年1月
濵田恂子『入門近代日本思想史』ちくま学芸文庫 2013年2月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

ケーベル先生

哲学・西洋古典学を東京帝国大学で長く教えたラファエル・フォン・ケーベル(1848-1923)は、多くの学生に慕われた理想的な教師であった(昨日のブログ記事参照)。

文科大学(注-東京帝国大学文科大学)へ行って、此処で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人迄は、数ある日本の教授の名を口にする前に、まづフォン・ケーベルと答へるだらう。斯程(かほど)に多くの学生から尊敬される先生は、日本の学生に対して終始渝(かは)らざる興味を抱いて、十八年の長い間哲学の講義を続けてゐる。先生が疾くに索寞たる日本を去るべくして、未だに去らないのは、実に此愛すべき学生あるが為である。(夏目漱石「ケーベル先生」)


西田幾多郎(1870-1945)はケーベルにそれほど親炙したほうではないが、「哲学者は煙草をすわなければならない」というケーベルの教えだけは実行するようになった。

私が先生についたのは、僅に先生が日本に来られた最初の一年間位のことであり、かつ初から先生と傾向を異にしていた私は、先生の教について今日まで何一つ実行したものがない。唯先生は私が煙草をのまぬのを見てPhilosoph muss rauchen.とからかわれたが、今は煙草だけはのむようになった。しかしそれだけ私の真似できない多くのものを有っておられた先生が尊かったように思われる。(西田幾多郎「ケーベル先生の追懐」)


波多野精一(1877-1950)はケーベルによって真に哲学に導かれたという。

私自身にとっては先生こそ真に哲学へ導いた師であったことは、その後のあらゆる変遷や発展を通じて私がいつも感謝を以て想い起す学生時代の体験である。(中略)しかしながら先生の本質は学問や哲学には尽きて居なかった。すべての専門すべての一技一能――先生が音楽に堪能であったことは人の知る通りである――を超えて先生において尊かったものは、先生の人格である。けだし先生のような円熟した個性をそなえた人は稀に見る所であろう。(中略)私は今不思議の魅力を有した先生の人格の秘密を探求しようとも啓示しようともする者でない。しかし先生には学者とか君子とか有徳の士とかいうような窮屈な型を超越して広いのびのびとした処があったことは誰しも感附かずには居られなかった。今私の感じ得た所が正しいならば、先生にとっては生そのものが芸術であり自己の人格自己の個性そのものが極めて尊き神聖なる芸術品であったのである。先生が教養に重きを措き自らも深き広き豊かなる教養をそなえられたのもそのためである。(波多野精一「ケーベル先生追懐」)


波多野は毎年、ケーベルの命日になると師の写真を取り出し、一日机上に飾っていた。ケーベルを師としたことに誇りを持っていて、「自分の先生はケーベル先生の他にはない」と語っていたという。

久保勉(くぼまさる 1883-1972)はケーベルを「自身の哲学を生きた人」であったと述べている。

ケーベル先生は一方において哲学や文学の広い領域に通暁しかつ到る処で独自の見識をもった学者であると同時に、他方においては才能を恵まれた芸術家でもあった。しかし先生にあっては多くの芸術家や学者に見られがちな学者臭とか芸術家臭とかいうものはみじんもなかった。先生は哲学者即ち愛智者であった。智慧を愛する者として先生は実生活の上でも真剣に智慧の指示に服従し、その具現に努めた。言いかえれば先生は自身の哲学を生きた人である。実際先生にあっては、哲学即生活(ロゴス即ビオス)であり、両者は相即不離の関係にあったのである。(久保勉訳編『ケーベル博士随筆集』巻末解説)


久保はケーベルの晩年、十数年にわたって起居を共にし、師の死去まで忠実に仕えた。その献身的な仕えぶりにケーベルの他の弟子たちからも感嘆の声がもれたという。

【参考文献】
久保勉訳編『ケーベル博士随筆集』岩波文庫(改版) 1957年11月
『漱石全集』第12巻 岩波書店 1994年12月
上田閑照編『西田幾多郎随筆集』岩波文庫 1996年10月
竹田篤司『物語「京都学派」-知識人たちの友情と葛藤』中公文庫 2012年7月
波多野精一『時と永遠 他八篇』岩波文庫 2012年8月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

ケーベルの愛弟子・久保勉

岩波文庫から出ている『ケーベル博士随筆集』はケーベル(1848-1923)の愛弟子の久保勉(くぼまさる 1883-1972)の訳編になるものだった。久保勉は伊予郡米湊村西野(現在の伊予市)の生まれ。松山中学を経て海軍兵学校に入学。日露戦争に従軍したが、病のため軍籍を離れ、東京帝国大学哲学科に入った。大学で師事したケーベルの影響で、古代ギリシア哲学を専門とする学者の道を歩む。ケーベルに対してはその死まで内弟子のような立場で献身的に仕えた。昭和戦前は東北帝国大学教授、戦後は東洋大学教授。岩波文庫で今も版を重ねている『ソクラテスの弁明・クリトン』『饗宴』はこの人の訳になるものである。

久保勉訳編の『ケーベル博士随筆集』から少し引用しておこう。

我らが美を観じこれを把握する官能は想像力(ファンタジー)である――これは就中(なかんづく)芸術に独特必須なる官能である。あたかも想像力を離れて芸術のないのと同様、これを離れてはまた真の道徳も、宗教もないのである。

およそファンタジーなくしては真に人間らしき生存は考えられない。ファンタジーなき人間にとっては真なるものも美なるものもまた善なるものも存しないであろう、何となれば現象界においては、換言すれば感官的知覚もしくは経験にとっては何一つとして、それがファンタジーの媒介を経ざる限り、真でも美でもまた善でもないからである。世界が混沌にあらずしてコスモス(調和あり秩序ある世界の意)であり、また倫理的秩序であることを我らが認識するのは、ひとりファンタジーの力によるのである。


ケーベルの思想の核心には、ファンタジーの力に対する信頼があった。ケーベルの門下生たちにもそれはうけつがれているかもしれない。

【参考文献】
久保勉訳編『ケーベル博士随筆集』岩波文庫(改版) 1957年11月
『愛媛県百科大事典(上)』(大浜正隆執筆「久保勉」の項)愛媛新聞社 1985年6月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

港山が「島」であった時代

▼ 西港山(左)・東港山(右)
DSCF0914_convert_20120928135145.jpg

三津浜港の入口に位置する東西の港山。江戸時代から明治時代にかけて、この山の北側一帯(画像では山の背後)は塩田であった(新浜塩田という名称)。塩田ができる以前は、いわゆる塩入荒野状態で満潮時になると一帯が海水で覆われていたらしい。

戦国時代、西港山には「湊山城」と呼ばれる城郭が設けられていたが、この時代、東西の港山の北側は海水の流れ込む塩入荒野、南側はもとよりの三津の海で、山全体がいわば島状をなしていた。「湊山城」はこの山が「島」であった時代にこれを要塞化した海城(うみじろ)だったのである。

【参考文献】
山内譲「伊予国三津と湊山城」(「四国中世史の研究」第7号 2003年8月)

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード