加藤嘉明、会津へ転封

寛政4年(1627)、加藤嘉明は伊予松山20万石から会津若松40万石に転封となった。東北枢要の地への加増転封。史書が伝えるところでは、嘉明のこの転封は藤堂高虎の推薦によるものだという。

(寛政四年四月)十日(中略)加藤左馬助嘉明、伊予国松山城二十万石を転じ、陸奥国会津若松の城四十万石を下さる。(中略)世に伝ふるところは、会津若松の城は陸奥、出羽の鎮として大事の所なれば、家門譜代の宿将ならでは置かれがたき地なるに、嘉明外様の身にてかく要害の地を委任せられしそのゆへいかなる事といへば、既に下野守(注-会津領主蒲生忠郷)卒去の後、たれかに若松の城をあづけ給はんとて、宿老耆旧のともがらをめして、会議ありしに、藤堂和泉守高虎一人すゝみいでて、当時にたれかれと申さんより、加藤左馬助にしくもの候べしとも思はず、かれは幼より豊臣家につかへ、志津が獄七本槍の一人、その後関原に当家へ志をはこび、大坂にも其心をひるがへさず、きはめて律儀ものにて候へば、いか様なる要地を委任し給ふとも、御心やすかるべく候と申ければ、諸老これに同じてかくは定まりしとぞ、しかるに藤堂と加藤は、その昔朝鮮の戦に番船を乗取し功を争ひしより互に不快となり、修身面をあはせても一語を交へざりしとぞ、さる不快のなかにても国のため私の憤をおさへて、その能をすゝめける高虎が量の広さよとて、上下感ぜぬものはなかりしとぞ。(『大猷院殿御実紀』巻九)


上に言及があるように、藤堂高虎と加藤嘉明は朝鮮の役以来、不仲であったが、高虎は嘉明を推薦。「高虎が量の広さ(高虎の度量の広さ)」と上にはあるが、高虎には何か別の意図があったのかもしれない。

すでに65歳となっていた嘉明はこの会津転封を喜ばなかった。将軍家光から転封を命じられたとき、嘉明は「役にたつ家臣がみな死んでしまったので任に堪えない。どうかこのまま松山で身を終えさせ給え」と辞退を申し出ている。

又その家の説によるに、この日会津の地たまはるべしとの仰承りし時、嘉明申けるは臣が家に、兼々戦場のはせめぐりをもしなれ候河村権七など今は皆死はてゝ、用にたつべき者候はねば、要枢の地あづかるべき様も候はず、たゞこのまゝに松山に老身を養はしめ給へと申ければ、汝が子明成、父におとるべしとは思召さず、辞退せず奉れと仰ありければ、嘉明も畏りしとぞ。(同上)


家光は「汝の子の明成は汝に劣らざる器だから心配は要らない」と言って嘉明の辞退をしりぞけた。かくして嘉明は会津の領主となるのだが、その没後あとを継いだ明成は堀主水(もんど)という家臣との間で争いを起こし、会津40万石の領地を幕府に返上することになる(次回ブログ記事参照)。

▼ 加藤嘉明騎馬像(城山ロープウェイ東雲口駅舎横)
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【参考文献】
『続国史大系』第10巻 経済雑誌社 1902年12月
日下部正盛『加藤嘉明と松山城』愛媛新聞サービスセンター 2010年9月

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会津騒動-主君加藤明成と家臣堀主水の争い-

加藤嘉明の没後、家督を相続した嫡子明成は、父の代からの重臣・堀主水(もんど)と対立、「会津騒動」と呼ばれる君臣の争いを引き起こした。史書はこの騒動を次のように伝えている。

(寛永)同き八年九月十二日、嘉明六十九歳にして卒す。式部少輔明成、家を継ぐ。(中略)同き廿年五月三日、遁世して所領の地、悉く収公せらる。
明成が遁世せし事は、父の時より家の老に堀主水と云ふ者ありけり。明成は父に似ずして、世人の嘲り笑ふ政事などありしを、かの堀、事に触れては諌むる事もありけん、主従の間不快なりき。堀が従者と或者の従者と、争論の事出来たり。堀が従者、非拠たる由を明成決断す。誠は堀の従者の申す所、理ありければ、堀重ねて、これを訴ふ。故に堀勘当せられて、剩さへ職事を奪る。堀やすからぬ事に思ひ、舎弟多賀井又八郎、真鍋小兵衛と三人、宗徒の郎等八人、妻子従類すべて三百余人、寛永十六年四月十六日寅の刻ばかりに、若松の城を出て、中野といふ所にして、鉄炮を放ち、辰の時ばかりに、倉兼川に至り、往来の橋を焼断ちて去りぬ。明成此由を聞て、討手を差向けしかど打漏しぬ。堀は鎌倉に忍び居たりしに、討手むかふと聞えしかば、高野山に赴く。明成、使者を立て速に搦め取って出さるべきよしを云せけると、此山には来らぬよしを答ふ。明成大に怒て、おのが所領に替て、かの家人を追捕せん事を訴へて、既に軍兵を高野山に差向けんとす。堀こゝにも、たまりかねて、紀伊殿の御領に隠れ居たり。明成やがて紀伊殿に此由を申て、討手を差向く。堀かくと聞て関東に忍び下り、一封の書を奉りて、おのれ罪なき由を申し開く。左大臣家(注-将軍徳川家光)此よし聞し召され、申す所ことわりあるに似たれども、身既にかの家の司として、初めに兵を挙て城を去り、火を放って橋を焼く。これ君臣の礼を失ひ、国家の法を乱る。其罪これ軽からずとて、明成が乞ふに依て、兄弟三人を賜る。明成大に悦び、同十八年の三月、堀が兄弟三人を、芝浦の別業にして誅しぬ。既に所領に申し替へ、家人を願ひのまゝに下し賜て誅しぬる上は、かくてもあるべき事ならねば、同廿年に至りて、身の病多く国務に堪へず、かるが故に所領の地、悉く奉る由を申して、遁世せしなり。(新井白石『藩翰譜』第七下「加藤」)


明成と不和となった堀主水は、妻子眷族三百余人を率いて会津を出奔、城下を出たところで若松城に向けて発砲したというから、よほどの恨みがあったのだろう。明成のこの家臣に対する怒りもすさまじく、諸地に逃れる堀を執拗に追捕、ついにこれを誅殺するに至った。その後、明成は病気を理由に会津40万石の所領を幕府に返上するのだが、実質的にはこれは騒動を引き起こしたことによる改易措置であったのかもしれない。

このいわゆる「会津騒動」を小説にしたのが田宮虎彦(1911-1988)の『寛永主従記』である。同小説は新聞に連載後、半世紀以上単行本化されなかったが、2010年、明治書院からようやく刊行。作者は連載前に「会津騒動を題材にした作品をライフワークにしたい」と周囲に語っていたという(愛媛新聞2010年5月17日記事)。

【参考文献】
『校刻 藩翰譜』巻四 吉川半七(発行者)1894年9月
『国史大事典』第1巻(丸井佳寿子執筆「会津騒動」の項)吉川弘文館 1979年3月
田宮虎彦『寛永主従記』明治書院 2010年4月
日下部正盛『加藤嘉明と松山城』愛媛新聞サービスセンター 2010年9月

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「雀らも海かけて飛べ吹流し」

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雀らも海かけて飛べ吹流し 石田波郷


威勢のいい鯉の吹流しに負けずに、雀たちも元気に、海かけて飛んで行けと呼びかけた句。「海かけて」は「作者の郷里伊予の海辺を思い描いているのではないか」(山本健吉)という。石田波郷(1913‐1969)は温泉郡垣生村(松山市西垣生町)の生まれ。句の季語「吹流し」(夏)。

【参考文献】
山本健吉『鑑賞俳句歳時記 夏』文藝春秋 1997年2月

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松山市営球場跡(堀之内)

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堀之内の市営球場跡。中央公園内(松山市市坪西町)に「坊っちゃんスタジアム」ができる以前はここに球場があった。設置されている解説板には、「1948年、市民や高校生らのボランティアによって造られたこの球場は、改修を繰り返して2万5千人収容の球場になり「野球王国愛媛」を支え、市民らに親しまれた」等と記されている。

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松山城の石垣、この季節になると……

松山城の石垣、この季節になると雑草が至るところに生えてくる。

▼ 本日(5月9日)撮影、筒井門・隠門下の石垣
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この間までは下の画像のようにきれいだったのだが……

▼ 3月26日撮影
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新緑の季節は雑草がはびこる季節でもある。

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