「松山鉄道会社」

「松山鉄道会社」は伊予鉄道の幻の社名。同社は「松山鉄道会社」の名称で発足するはずであったが、明治20年(1887)9月14日の創立総会で、「松山~」では名前が小さいとの意見が出され、伊予鉄道会社の社名となった(現在の社名は伊予鉄道株式会社)。井上要(同社第3代・第5代社長 1865―1943)の『伊予鉄道思ひ出はなし』に同日のこの創立総会の模様が伝えられている。

明治二十年九月十四日、今より四十五年の昔、此日は我伊予鉄道会社が第一回の株主総会を開き、始めて呱々の産声を目出度く実業界に誕生したときである。その時私は一株拾円の株式五つの株主として臆面もなく出席し計らずも役員に当選した。(中略)
第一回の株主総会を県会議事堂に開いたとき先づ小林翁[引用者注-伊予鉄道初代社長・小林信近 1848―1918]は一壇高き議長席から説明報告する処あり。其席を譲るや知事藤村紫朗氏が株主の一人として鉄道の効能を演説した。時に出席して居った株主は三四十人であったであらうが誰れ一人軽便鉄道を見たものもなく又知ったものもない。夫()れは其筈である。当時我国に於ては官設の鉄道僅に数十哩(マイル)あるのみ。その外には民間建設のものとして唯日本鉄道、阪堺鉄道の二会社が数十哩を運転して居るに過ぎぬ。殊に軌間二呎(フィート)六吋(インチ)の軽便鉄道なるものは我国には全然存在してゐない時代である。(中略)
元と此小鉄道は社名を松山鉄道会社と称し其敷設する線路は松山萱町二丁目の裏、則ち今の瓦斯会社附近を起点とし、一線直通、三津松原橋、則ち今の女子師範北手海岸を終点として出願し許可せられたものであって、それが則ち総会の議案であるが、私共は最も熱心に其線路の宜しきを得ざるを論難し、起点は松山湊町の西端、福正寺前、則ち今の本社所在地とし更らに三津口、則ち倉紡工場の西手に廻って道後街道との連絡を計り、三津は将来高浜に延長すべく今の三津駅に至ることに変更しなければならぬと主張して多数の共鳴を得た。けれども此線路が果して技術上敷設の可能性ありや否やは当時誰れも判断し得るものがない。則ち鉄道技術の知識者は誰一人も居ない。そこで余儀なく議事を中止し、発起人の一人たる山内清平君が急に細引を引張って実地の見通しを測りそれでよからふと意見を述べたのを頼りに此変更を決定した。さうして都筑温太郎君が松山鉄道では名前が小さい将来は伊予各地に延長する抱負で之を伊予鉄道と改称すべしと主張し、之も亦総会を通過したこと丈(だけ)を覚えて居る。(井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』)


この創立総会では路線も、当初の「松山(萱町二丁目)―三津(松原橋)」という案が「松山(福正寺前)―三津口(萱町六丁目)―三津(住吉橋東詰)」と変更された。三津駅の位置の変更は高浜延伸を見越したものであったが、のちに実現するこの高浜延伸が契機となって三津浜に反・伊予鉄の気運が生じることになる。

【参考文献】
井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』伊予鉄道電気社友会 1932年9月

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『万葉集』志貴皇子の「さわらび」の歌

石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出()づる春になりにけるかも(原文-石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春尓成来鴨) 志貴皇子(しきのみこ


春となったよろこびを素直に表現した『万葉集』巻八の巻頭歌。教科書にも登場する名歌であるが、初句の「石激」を「いはばしる」とよんだのは江戸時代半ばの賀茂真淵以来のことで、古訓に従うと「いはそそく」のよみが適切なのだそうである。

石そそく垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも


万葉の時代の「そそく」は現代語の「そそぐ」に当たる言葉。当時は「そそく」と清音で、しかも「ツォツォク」もしくは「チョチョク」というふうに発音されていたらしい。「石ばしる~」にあった一気呵成の流れるような韻律が「石そそく~」では消えてしまうようにも思われるが、これが万葉の時代のよみということであれば致し方ない。

【参考文献】
佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波文庫 2013年1月

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小林信近、松山-三津間の鉄道の敷設を願い出る

鉄道というものが全国的にもまだ珍しい明治前半、松山―三津間にこれを通そうと発案したのは、のちの伊予鉄道初代社長・小林信近(1842―1918)だった。小林はもと県産の桧材を大阪方面に移出する仕事に携わっていたが、松山―三津間のわずかの距離の馬車による輸送費が、三津―大阪間の海上運賃よりもはるかに高くついたために、鉄道事業の必要性を痛感したという。

明治六年家禄奉還の士族に対し政府は産業資本の為め官林の払下をすることゝなって、翁[引用者注-小林信近]は白川親応氏(故陸軍大将白川義則男の父)と共に上浮穴郡杣川村字中山の官林三百余町歩の払下を受け多くの桧を製材して大阪に輸送した。然るに其経費は餅よりも粉に多く、安い材木も高い運賃では利益がない。殊に一路坦々たる松山より三津浜までの僅々一里半は道路凸凹、殊に雨後には泥濘を極めて其の運賃は三津浜より大阪まで百里に近き海路の運賃よりも高いことを実験した。其後阪神間の鉄道枕木を納むることゝなって熟々鉄道の利便を知り、彼此対照して愈々我郷土の為めに交通改善の急務なることを痛感した。(中略)偶(たまたま)明治十五年四月発行の内務省土木局の綸旨報告に仏蘭西の「ドコービール鉄道略説」あるを見出し次いで「仏蘭西新発明小形軽便鋼鉄路効験書及報告書」と題する少冊子を入手し之を一読して翁は誠に暗夜に光明を認めたるものゝ如く忽ち輝きたる希望に満ちて勇躍奮起を禁じ得ざる有様であった。茲に端緒を得て針路を定め横浜では英国技師ダイアックを訪ねて設計其他の指導を受け又独乙人ハアーゼに就いて技術上の研究を為し、遂に土工用のドコービールよりも軌間二呎六吋の小鉄道の優れるを知り独乙商の代理店なる刺賀商会より機関車輌等の見積を徴し漸く設計と予算を仕上げたものである。(井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』)


明治19年(1886)1月、小林は当局に鉄道敷設の申請をしたが、却下となった。当時、民営の鉄道は日本鉄道(政府資本)と阪堺鉄道しかなく、民業としての経営は難しいというのが当局の判断だったが、小林はこれに服せず、ねばりづよく交渉して同年12月、ようやく敷設の許可がおりた。

明治十九年、小林信近、山内清平、野間大作ノ三人、発起人ト為リ、一月二十三日、松山鉄道ノ名称ヲ以テ(中略)小鉄道ヲ敷設スルノ願書ヲ提出セリ。(中略)当時、日本・阪堺ノ外、私設鉄道ノ成立セシモノ無ク鉄道ハ民業トシテ経営困難ナルモノナルヲ以テ鉄道局ハ其成立ニ信用ヲ措カズ、願書ヲ却下シタリシカバ小林信近ハ之ニ服セズ、自ラ鉄道局ニ出頭シ具サニ其趣旨ヲ陳述シ漸ク長官ノ意ヲ動カシ(中略)十二月十五日命令書下付セラル。(鉄道省編『日本鉄道史』)


茲に於て翁は小鉄道敷設の願書を提出したが当時の鉄道局は真に受けず、これは狂人の妄想であらうと云ふので直に却下した。翁は出頭して陳弁した。けれども無経験者の空想であるとして却々に許してくれぬ。再三熱誠を注いで懇願し哀願した末が漸く「それならやって御覧なさい」と云ふことゝなった。時の鉄道局長官は有名な井上勝氏、技師は松本荘一氏であるが、此小鉄道が愈々竣工して意外の成績を挙げたる後は翁に対し大いに感謝の意を表し「軽便鉄道は実に君のお手柄であった」と感嘆賞讃したそうである。(井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』)


鉄道局の松本荘一との交渉では次のようなやりとりもあったという。

松本氏は願書の設計を難詰した。而して設計中、機関車二台を備ふとあるを咎めて曰く、一台の機関車損傷せば其修理中、残る所一台のみ、夫()れを連日使用せば終に破裂の憂あり。之()れを如何にする心得なるかと。小林氏頗る答弁に窮したるも更に反問して曰く、西洋往来の汽船も亦同じく蒸気機関を用ゆと聞く。然るに連日連夜焚火して而も数個の予備あるを聞かず。其理由如何と是に於て松本氏も亦窮し、夫れ程の熱心あれば試みに許可を与ふべしと。(伊予鉄道電気株式会社編『我社の三十年』)


小林信近社長の伊予鉄道が松山―三津間で営業を開始したのは明治21年(1888)10月28日。民営鉄道としては全国で三番目、軽便鉄道としては全国初のものだった。軽便という名の通りのその小さな列車は、のちに漱石の『坊っちゃん』で「マッチ箱のような」と形容され、「坊っちゃん列車」として親しまれるようになる。

▼ 「1号機関車」の原寸大モデル(伊予鉄道本社前)
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【参考文献】
伊予鉄道電気株式会社編『我社の三十年』1919年4月
鉄道省編『日本鉄道史(上)』1921年6月
井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』伊予鉄道電気社友会 1932年9月

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伊予鉄道1号機関車・客車

▼ 伊予鉄道1号機関車・客車の現物(梅津寺公園)
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▼ 客車の現物(正宗寺・子規堂前)
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伊予鉄道の1号機関車・客車等一式は東京の刺賀商会を通してドイツから輸入された(ミュンヘン・クラウス社製。機関車2両・客車6両・緩急車・貨車等)。機関車は分解して送られ、到着後組み立てたが、客車は組み立てたものがそのまま大箱に入れて送られて来た。

其の当時、車輌や機関車は独逸に註文をしたのでありますが、機関車は重量八噸ばかりのもので之を分解して輸入し、こちらで組立てたのでありますが、客車は独逸で組立てたものを箱に入れて向ふから持って来た。其の客車は外部は鋼鉄、内部は木で出来て居る。(井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』)


当時の報告書には次のようにあるという。

明治二十一年六月、刺賀商会へ注文をせしレール及び付属品到着、神戸において請け取り直ちに三津ケ浜へ回漕、七月二日陸揚げせり。また機関車及び諸車も到着、八月九日陸揚げせり。


海路、神戸経由で送られて来た機関車・客車等一式は三津浜港から陸揚げされた。当時はもちろんクレーンもなく、作業はすべて人力でおこなわれた。この日、三津浜港はこれを見守る人々で人垣ができたという。

【参考文献】
井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』伊予鉄道電気社友会 1932年9月
『伊予鉄道百年史』伊予鉄道株式会社 1987年4月

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明治21年、伊予鉄道開業

明治21年(1888)10月28日、伊予鉄道開業(松山-三津間)。開業当初には次のような珍談もあった。

当時鉄道は全国にも珍しく岡蒸気(陸蒸気)と称して遠近から汽車見物に来る人多く、中にはホームに草鞋を脱いで乗車する人、客車の床に端坐する人、甚だしいのになると機関車の偉力に感嘆して列車が松山駅へ着くと撒米して礼拝する人もあった程で、如何に当時の人々が驚異の目を瞠ったかを伺ふに足る。(伊予鉄道『五十年史』)


当時、列車は一時間半ごとに運行、一日十往復し、縁日・祭礼日などには増発された。松山-三津間の運賃が三銭五厘で、所要時間は二十八分であった。乗客数は当初の見積もりよりも二倍近く多く、収益も好成績をおさめたという。

蒸気機関車のいわゆる「坊っちゃん列車」は開業の年の明治21年から昭和29年(1954)まで運行された。平成13年(2001)10月よりはディーゼルエンジンの復元「坊っちゃん列車」が観光用として運行している。

▼ 復元「坊っちゃん列車」
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【参考文献】
伊予鉄道『五十年史』1936年9月 
伊予鉄道『伊予鉄道百年史』1987年4月

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