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正岡子規、大本営に履歴書、作文一篇を提出する

明治28年(1895)3月6日-この日、正岡子規は広島に着き、同地の大本営に履歴書、作文一篇を提出した。子規自筆のこれら書類はアジア歴史資料センターのサイトで見ることができる(「東京日本新聞社員正岡常規の履歴書等の件」レファレンスコードC06062024200)。→アジア歴史資料センターで子規本名の「正岡常規」で検索。

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テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

伊予鉄と三津浜

明治24年(1891)1月に開かれた伊予鉄道の株主総会で、松山-三津間の路線の高浜延長が議案となった。三津浜町の株主らはこれに猛反対したが、井上要らの賛成派が多数を占めて可決、工事が着手され、翌年5月、三津-高浜の延長区間が開通した。のちに長きにわたってつづく三津浜の対伊予鉄抗争はこの高浜延長が発端であった。

二四年一月開催された伊予鉄道会社の株主総会において、既設の松山-三津間の鉄道(二一年一〇月開通)を、高浜まで延長する案が、議題にのぼった際、この案は三津浜港を衰滅させる結果を招くと判断した同町有志二神清八らは、猛烈に反対した。その理由とするところは、港湾としての欠陥をうずめて、船車連絡が完成した暁の高浜港は、必ず三津浜港を圧倒し、その繁栄を奪うに相違ないというのであった。結局井上要(伊予鉄委員)らの高浜延長論が、二神らの反対論を抑えて勝ち、資金二万円をもって、翌二五年五月高浜まで、伊予鉄道は延長された。これが三津浜港を主張する一派との熾烈な対立抗争をよびおこし、やがて県政上でも党争を誘発する大問題の発端となったのである。(『松山市誌』第五章)


高浜延長は第一回の株主総会で既に延長を予想し三津停車場の位置を変更していたのである。しかし、三津町民はこの延長を同町の繁栄を奪うものとして大反対をなし、これを議する二十四年一月の株主総会は、井上要を主唱者とする賛成派と、これに反対する三津派に別れ、宛ら一大討論場化したが、結局延長論が勝を制した。
そうして、この工事は工費的に二万円を投じて、翌二十五年五月一日には開業することを得たのであった。
後年、三津、高浜の抗争は愛媛県政にもその累を及ぼし地方の大問題となったが、それは全くこの僅か二粁(㌔)半の鉄路に胚胎していたのである。(『伊予鉄道七十年のあゆみ』)


伊予鉄の路線の高浜延長はこの地に同社主導で近代的な港を築いて、船と鉄道の連絡をはかろうとするものであった。隣接する港町三津浜にとってそれは大きな脅威であり、藩政時代よりつづく町の繁栄が危機に瀕することであった。三津浜では伊予鉄不乗車運動をおこしたり、馬車を運行させるなどして同社に反抗したが効果はなく、ついには松山電気軌道(松電)という競合鉄道会社まで設立して伊予鉄に打撃を与えようとした。会社の規模はもとより違うが最新鋭の広軌電車による併行線の運行で、伊予鉄にとっては恐るべき強敵の出現であった。

鉄道が交通の利便となるものである以上は沿線の市邑からは最も歓迎せらるべきはづである。この沿線の市邑こそ鉄道の為めには誠に大切なる御得意であって相思共栄の間柄でなくてはならぬ。然るに松山に次げる沿線の大市街三津浜町より計らずも此鉄道が好感を以て迎へられざるのみならず、却って仇敵視せらるゝに至りたるは実に当事者不徳不敏の責を免れず真に遺憾至極である。
三津浜の諸氏は先きに鉄道の不乗車同盟を作ったが夫()れは間もなく解消した。今度愈(いよいよ)高浜が開港となり汽船が同港に移るや之を憤慨して鉄道に対抗すべく明治三十九年十一月から有志結合して馬車営業を開始したが、馬車を以て鉄道に当るは火縄筒を以て精鋭の新武器と相争ふようなわけで到底永く続かないとは分ってゐる、誠に苦心焦慮の折柄政友会の有力者と共に断然新鋭を誇るべき電車を敷設し並行線を造って一挙に伊予鉄を根底から征服する計画を立てることゝなった。(中略)
鉄道に並行して美事な電車を敷設せんとするは真に匕首を我喉元に擬するものであって之こそ実に恐るべき強敵の出現と云はねばならぬ。(井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』第四「松山電気軌道の競争より合併まで」一「恐るべき競争電車」)


高浜開港によって将来の繁栄を阻まれたと信じた三津浜町有志は、政友会の有力者と提携して、伊予鉄道に併行線をつくり、しかも電車を運転して相手を圧倒しようと画策した。同四〇年(一九〇七)三月に松山電気軌道株式会社が設立せられ、三津浜-道後間の施設工事が始められたが、ようやく同四五年(一九一二)三月になって全通した。伊予鉄道でもこれに対抗するために、同社線の一番町-道後-古町間を改築して電化し、松電よりも早く電車による運転を開始した。かくて両社の競争は激烈をきわめ、一番町・道後では両社の駅が軒をならべ、両社員は電車の発車前に警鈴をふりながら街道にまで進出して、乗客の争奪をするありさまで、この風景は全国の話題とまでなった。(『愛媛県史概説』上巻)


明治二四年(一八九一)一月伊予鉄道が株主総会において松山~三津間の鉄道を高浜まで延長することを議題にあげたのを契機に、それまでは必ずしも顕在化してなかった高浜港との対抗意識が三津浜港湾関係者に俄然強まることとなった。伊予鉄道はかまわず高浜までの延長を実行する。そして案の定、山陽鉄道・大阪商船を結ぶ宇品航路の船車連絡運輸が開始される(明治三六年三月)。これを便利にするため高浜駅が桟橋に近い埋立て地に移設されるやら、大阪商船会社は支店を三津浜から高浜に移すやらで三津の人々の心中は穏やかならぬものがあった。(中略)
高浜整備を推進する伊予鉄道の社長井上要は進歩党の代議士でもあったので、三津浜側はあげて対立政党の政友会勢力を応援しこれを利用しようとした。反伊予鉄意識がこうじて、鉄道で打撃を加えようと、明治四〇年(一九〇七)には松山電気軌道会社が設立され、当時まだ松山にはなかった電車を伊予鉄道と併行して走らせ、両社の激しい競争風景が全国の話題となるような事態も起こった。(『愛媛県史 社会経済3 商工』第3章・第3節・4)


松電は明治40年(1907)3月設立、44年9月開業。伊予鉄との間に激しい乗客獲得競争をくりひろげたが、会社規模の違いは如何ともしがたく、当局の仲介などもあって、大正10年(1921)4月、伊予鉄に吸収合併された。

【参考文献】
井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』伊予鉄道電気社友会 1932年9月
伊予鉄道株式会社『伊予鉄道七十年の歩み』1957年10月
愛媛県『愛媛県史概説』1959年3月
松山市誌編集委員会『松山市誌』1962年10月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 社会経済3 商工』1986年3月

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乗合馬車で伊予鉄に対抗

明治末-反・伊予鉄の気運がたかまる三津浜町では、有志らが三津-松山間の乗合馬車を運行して同社に対抗した(昨日の記事参照)。『三津浜誌稿』はこれについて次のように記述している。

明治晩年頃、宮前町厳島神社前から、松山間を馬車が走っていた。これは高浜港の開港(明治三十九年)を怒って、井上要氏と関係ある伊予鉄道には乗るなと云う事から、三津浜町民の要望に応え、宮前町に住む町会議員であった、白石作太郎氏等が経営したものではないかと思われる。
したがって三津浜の人々は此の乗合馬車にゆられ、馬車はラッパを吹きながら田舎道をつっ走り、坊ちゃん列車と競争していたという。その斗志はうかゞわれるがなぜか、ユーモアを感ぜさせられるひとこまは、漱石の坊ちゃんのせいばかりではなかろう。世代の変遷にすねた三津浜人の気性と、何事にもよく一致団結した昔日の町民の面影であった。抗すべき筈がなかろうとも、その意気は天を衝く勢があり、後明治四十三年松山電気軌道会社が出来るまで競争していたという。
乗合馬車と共に人力車も宮前にたむろし、馬車は松山まで五銭、人力車三銭五厘であった。(『三津浜誌稿』「宮前町 乗合馬車」)


鉄道に対抗するに馬車ではもとより勝負にならない。この乗合馬車の運行はながくはつづかず、ついには鉄道で対抗するということになった。伊予鉄を屈伏させるための鉄道。松山電気軌道(松電)はそのために設立された鉄道会社であった。

▼ 三津厳島神社(松山市神田町)
この神社の前が乗合馬車の発着場であった。
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【参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月

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「伊予鉄」対「松電」

伊予鉄道と松山電気軌道(松電)の対立抗争について、伊予鉄の社史(『五十年史』)が記すところを引いておこう(下線は引用者の付加)。

元来松山電気軌道線は全く我社の鉄道に並行して建設せんとするものであり其の動機、計画に無理がある。[中略]
道後線電化後間もない四十四年九月一日、松山電気軌道株式会社の経営になる電気軌道の開業を見る事となった。同線は三津浜町を起点とし我社高浜線に並行して松山市内に入りこれを貫通して一番町より更に我社線に並行し道後に到る六哩二分(十粁)の区間である。然も我社と敢然輸贏[引用者注-勝敗]を決せんとして設立せられたものであるから三津浜海岸に新に海水浴場を設け我社梅津寺海水浴場と相争はんとし、或は古町三津の中間衣山に知新園と称する遊園地を設け道後と相並んで旅客の吸収に努める外其の営業振りにも斬新奇抜なものが多かった。[中略]
斯くて我社二十余年の経営をさんとするに到ったので我社も亦従来の営業方法を更め敢て其の挑戦に応ぜねばならなくなった。
これより先我社は先づ道後線の電化を計り予めこれに備へる処があったが更に松山-高浜間及道後線を一丸として賃銀低減を計り且つ低廉な回数切符の発売を開始し旅客の吸収に勉める事となった。
当時道後、一番町の両駅は両社軒を並べて相接し電車発着毎に両社現業員は警鈴を振りつゝ街頭に進出して乗客の争奪を繰り返す為め附近住民は喧騒に堪へず、遂に警察も注意を促したので我社は左の如き提案をなし漸く振鈴を廃止し街頭進出を中止した事さへある。

拝啓貴社愈々御隆盛奉賀候 陳者(のぶれば)一番町、道後に於ける両社の駅鈴は発車度数頻繁なるを以て乗客に注意を促す必要も無之と存候 のみならず附近の住民は其の喧噪に苦しみ殊に病床に就きたる者ある場合の苦痛は一層甚大なりとの実況に之有候に付 来る四月一日(大正二年)より最終電車発車の場合を除き振鈴相廃し候では如何に候哉 御意見拝承致度候云々


両社の競争は益々運賃の高率割引となり甚だしきは苦肉の策として遊覧回数券の名目にて之れを普通回数券に代用せしめ、或は学生回数券を普通人に発売する等猛烈な競争を来たさゞるを得ない事となった。(『五十年史』)


道後線電化」-松山電気軌道は時代の先端をゆく電車路線であったから、その開通に先んじて伊予鉄道は自社の道後線を電化した。

三津浜海岸に新に海水浴場」-『三津浜誌稿』はこの海水浴場について次のように記している。

此の旧お台場の海岸はアカシヤの並木が繁った白砂と、遠浅で水の綺麗な涼地であったところから、三津浜の海水浴場が設けられ、明治四十四年松山電気軌道株式会社の営業開始と共に、同社の手で経営されていた。大正十年同社が伊予鉄電[引用者注-当時の伊予鉄の社名は伊予鉄道電気株式会社]に合併したため、経営は三津浜青年会の手に移った。伊予鉄電が梅津寺海水浴場を開いたのも、けだし三津浜とは常になじめなかった、伊予鉄電との皮肉な運命であると思う。眺めがよく涼しい理想的な海水浴場で、アカシヤの緑と浜朝顔のほのかなあどけない花や、良夜に咲き乱れた月見草の草原、又炎天下に日ねもす遊びすごした幼い想出のつきない海水浴場であったが、今日はその白砂は埋立地の下になってしまった。(「梅田町 三津浜海水浴場」)


衣山に知新園と称する遊園地」-『松山案内』『松山市誌』はこの知新園について次のように記述している。

西山の北、衣山にある花卉園で、松山電車の停留所もある。規模大ならざれど動物園もありて、恰好の遊園地である。之に隣れる金刀比羅宮は、由緒ある社で、其山上の唐土台は、展望を以て聞ゑて居る。(『松山案内』)


松電は、伊予鉄の梅津寺海水浴場に対抗して、三津浜海水浴場を設置しただけでなく、衣山に知新園という見世物用の動物舎を含む遊園地を作り、四国唯一の動物園と称して乗客の誘致に努めた。(『松山市史』第3巻)


運賃の高率割引」-運賃の割引合戦等で、伊予鉄では乗客数は増えたが、運賃収入は減収となった。松電も収益の不振に苦しみ、両社は共に傷ついた。

【参考文献】
松山勧業協会編『松山案内』1913年2月
伊予鉄道『五十年史』1936年9月
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
伊予鉄道『伊予鉄道百年史』1987年4月
松山市史編集委員会編『松山市史』第3巻 1995年5月

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伊予鉄道・道後温泉駅

▼ 伊予鉄道・道後温泉駅
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現駅舎は昭和61年(1986)の建築で、旧駅舎を忠実に再現したもの。大正時代、この駅の隣には松山電気軌道(松電)の道後駅があった。

伊予鉄と松電は路線が併行しており、一番町、道後では駅も隣接していた。この両駅で見られたのが両社従業員による鈴を鳴らしての熾烈な客取り合戦。当地の奇観として全国的にも知られた。伊予鉄の社史には、「当時道後、一番町の両駅は両社軒を並べて相接し電車発着毎に両社現業員は警鈴を振りつゝ街頭に進出して乗客の争奪を繰り返す為め附近住民は喧騒に堪へず、遂に警察も注意を促した」と記されている。

高浜虚子の『伊予の湯』「某夫人の日記」の章にこの道後の両社の駅のことが出ている。

主人と二人で松山に行く。半里にも足らぬ短い処に会社の違った電車の二つあるのが滑稽。どういうわけかと思ったら政友会と憲政会との争いから二つ出来ているのだとの事。並んである停車場の一足近い方のへ乗る。これが憲政会の方との事。ピッと言って道後を発車したと思うと間も無くピッと言って一番町駅というに着く。其処(そこ)がもう松山であった。(高浜虚子『伊予の湯』「某夫人の日記」)


「政友会」の方の駅が松電、「憲政会」の方の駅が伊予鉄である。伊予鉄社長の井上要は憲政本党系愛媛進歩党の代議士であった。三津浜はその対立政党の政友会を支持して、松電設立に携わった。

【参考文献】
高浜虚子『伊予の湯』(発行編集・森知之)1919年4月
伊予鉄道『五十年史』1936年9月

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