「鬼は内」の豆まき

節分の豆まきで唱える「鬼は外、福は内」。江戸時代に摂津三田(現・兵庫県三田市)の領主であった九鬼家ではこれが「鬼は内、福は内」だったという。

先年のことなり。御城にて、予、九鬼和泉守隆国に問には、世に云ふ、貴家にては節分の夜、主人闇室に坐せば、鬼形の賓来りて対坐す。小石を水に入れ、吸物に出すに、鑿々として音あり、人目には見えずと。このことありやと云しに、答に、拙家曾て件のことなし。節分の夜は、主人恵方に向ひ坐に就ば、歳男豆を持出、尋常の如くうつなり。但世と異なるは、其唱を「鬼は内、福は内、富は内」といふ。是は上の間の主人の坐せし所にて言て、豆を主人に打つくるなり。次の間をうつには、「鬼は内、福は内、鬼は内」と唱ふ。(松浦静山『甲子夜話』二)


『「いき」の構造』で知られる哲学者・九鬼周造(1888-1941)の家も同様であった。

私の家では、節分の豆まきには「福は内、鬼は内」というのが昔からの習慣になっている。福よ、鬼よ、一しょにござれである。(九鬼周造「自分の苗字」)


民俗学者の五来重によると、「鬼は内」と唱える家は少なくないというから、九鬼姓の家だけの習わしではないのであろう。

世の中には鬼の子孫という家筋はかなり多くあって、「鬼は内、福は内」という豆撒きをする家もすくなくない。鬼の子孫という伝承をのちのちまでもちつたえた家筋は、多く修験山伏の家筋であるが、祖霊を鬼として表象することは、実は一般的であった。それが仏教や陰陽道の影響で邪悪な鬼となり、地獄の牛頭馬頭や餓鬼となってからは「鬼は外」と追われる鬼になった。(五来重『宗教歳時記』)



【参考文献】
『古事類苑 天部・歳時部』吉川弘文館 1976年10月
五来重『宗教歳時記』角川選書 1982年4月
『九鬼周造随筆集』岩波文庫 1991年9月

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「二日灸」

旧暦二月二日・八月二日に灸をすえる「二日灸」という風習が古くはあった。この日に灸をすえると倍の効能がある、疫病除けになるという俗信にもとづいたもので、子規が子供の頃の正岡家でもこれが行われていた。

〈河東碧梧桐〉松山では、子供にお灸をすゑる習慣があって、我々時代まで、可なり頑強に圧迫したものですが、無論升さん(子規のこと)もすゑたことでせう。
〈正岡律〉私どもの宅では、二八月と言って、一年に二度すゑました。一個処に五十位づゝ、背中と横腹と腰とへ九個処位据ゑましたから、やがて半日仕事でした。このお灸は、東京へ遊学する時まで、ずっと続いてゐました。お灸をすゑると、すゑ賃といふので、兄はいつも大和屋-其の頃の貸本屋-から、例の八犬伝だとか、弓張月だとか言った小説本を借りてゐました。(正岡律・河東碧梧桐「家庭より観たる子規」)


俳句では「二日灸」は二月のそれに特定して春の季語となっている。

婆々様の顔をしぞ思ふ二日灸 子規(明治26年)


子規は婆々様の小島久に灸をすえてもらっていたのであろう。

【典拠文献】
『子規全集』第1巻(俳句1)講談社 1975年12月
『子規全集』別巻3(回想の子規2 附補遺)講談社 1978年3月

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追儺(ついな)

「追儺」は節分の夜の鬼払いの儀式。森鴎外に『追儺』という短編小説があるが、その末尾には次のようなことが記されている。

追儺は昔からあったが、豆打は鎌倉より後の事であらう。面白いのは羅馬(ローマ)に似寄った風俗のあった事である。羅馬人は死霊をlemurと云って、それを追ひ退ける祭を、五月頃真夜なかにした。その式に黒豆を背後(うしろ)へ投げる事があった。我国の豆打も初は背後へ打ったのだが、後に前へ打つことになったさうだ。


豆をまくようになったのは、確かにのちのことである。宮中で行われる追儺ではもともと弓矢で悪鬼を追い払っていた。民俗学者の五来重によると、豆は「鬼を追うためのものでなくて、厄を豆にうつして外に捨てるものだった」という。

鴎外の『追儺』は築地「新喜楽」の女将の威勢の良い豆まきを見ての作者の思いを述べた小品。「我等の内にある最も善なるものは、古い時代の感覚の遺伝であるかも知れぬ」という思いがそこに述べられている。

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【典拠文献・参考文献】
『鴎外選集』第1巻 岩波書店 1978年11月
五来重『宗教歳時記』角川選書 1982年4月

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正岡子規「節分」についての記述

正岡子規が子供の頃の節分は、鬼やお多福に扮した門付藝人が家々を訪い遊藝を行うという古俗を残すものであった。

此時只恐ろしきものは節分の日の赤鬼なりき。門の外につゝ立ちて竹のさゝらを突き鳴らし「鬼にもくれねば這入らうか這入らうか」とおらびたる時は膽魂も一時に消ゆる心地して若し這入り来らば如何にしてましと独り胸騒ぐ時お多福は鬼を制して「鬼は外に居れ福が一処にもろてやろ」と自らを玄関迄来り「御繁昌様へは福は内、鬼は外、福々福入り福入り」といふ。此時遅しと待ち構へ切餅数個を持ち出でゝお多福に与ふれば鬼もお多福もかたみに打ちさゝやぎつゝ往ぬめり。あとには恐ろしき者もなければおのが年の数を豆に数へて紙などに包みなどす。婆殿の豆の七十にも余りたることの羨ましくおのれの年の十にも足らぬは本意なき心地せり。其夜厄払を呼びて其豆を与へなどせしは十一二歳の頃迄にて其後は厄払といふ者も来ずなりにけり。(正岡子規「新年二十九度」)

女はお多福の面を被り、男は顔手足総て真赤に塗り額に縄の角を結び手には竹のささらを持ちて鬼にいでたちたり。お多福先づ屋敷の門の内に入り、手に持てる升の豆を撒くまねしながら、御繁昌様には福内鬼は外、といふ。この時鬼は門外にありてささらにて地を打ち、鬼にもくれねば這入らうか、と叫ぶ。そのいでたちの異様なるにその声さへ荒々しければ子供心にひたすら恐ろしく、もし門の内に這入り来なばいかがはせんと思ひ惑へりし事今も記憶に残れり。鬼外にありてかくおびやかす時、お多福内より、福が一しょにもろてやろ、といふ。かくして彼らは餅、米、銭など貰ひ歩行(ある)くなり。やがてその日も夕になれば主人は肩衣を掛け豆の入りたる升を持ち、先づ恵方に向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向ひ豆を撒き福は内を呼ぶ。これと同時に厨にては田楽を焼き初む。味噌の臭に鬼は逃ぐとぞいふなる。撒きたる豆はそを蒲団の下に敷きて寝れば腫物出づとて必ず拾ふ事なり。豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払にやるはいづこも同じ事ならん。たらの木に鰯の頭さしたるを戸口々々に挿むが多けれど柊ばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。(同『墨汁一滴』明治34年2月4日条)


節分の夜の「厄落とし」の習俗もまだ残っていた。

節分には猶さまざまの事あり。(中略)又この夜四辻にきたなき犢鼻褌(ふんどし)、炮烙(ほうろく)、火吹竹(ひふきだけ)など捨つるものあり。犢鼻褌の類を捨つるは厄年の男女その厄を脱ぎ落すの意とかや。それも手に持ち袂(たもと)に入れなどして往きたるは効(かい)無し、腰につけたるまゝにて往き、懐より手を入れて解き落すものぞ、などいふも聞きぬ。炮烙を捨るつは頭痛を直す呪(まじない)、火吹竹は瘧(おこり)の呪とかいへどたしかならず。(同『墨汁一滴』明治34年2月6日条)


子規のこうした記述は明治初期の節分風俗を伝える貴重な証言ともなっている。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
『子規全集』第12館(随筆2)講談社 1975年10月

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明治の青年が夢中になった芸能「女義太夫」

女義太夫(娘義太夫)は明治の中頃に一大ブームとなった寄席演芸。若い女性による艶やかなその語り芸は、当時の青年たちの心を惹きつけ、「追っかけ連」「どうする連」などと呼ばれる熱狂的なファンまで出現させた。明治の中頃に学生であった夏目漱石も正岡子規もこの女義太夫に夢中になった。漱石・子規の往復書簡には、二人の熱中のさまを伝える次のような文面がある。

当年の正月は不相変(あいかわらず)雑煮を食ひ寐てくらし候 寄席へは五六回程参りかるたは二返取り候。一日神田の小川亭と申(もうす)にて鶴蝶と申女義太夫を聞き、女子にてもかゝる掘り出し物あるやと愚兄と共に大感心。そこで愚兄余に云ふ様「芸がよいと顔迄よく見える」と。其当否は君の御批判を願ひます(明治23年1月初・松山帰省中の子規に宛てた漱石の書簡)

女義太夫鶴蝶とか余程絶伎之由(尤山川よりハ一段下るべくと存候)。おまけに絶品とか別品とか申事、四国仙人[注-子規の別号]千里外より垂涎、久米仙人[注-空中飛行中に若い女性に見ほれ、神通力を失って墜落したという伝説上の仙人]宜敷(よろしく)といふ姿に御坐候。大兄の御眼鏡なれバよもや違ひもあるまじく御熱心の程ハ小川亭まで御出張の一事にても奉推察(すいさつたてまつり)候。(明治23年1月18日付・上の書簡に対する子規の返信)


漱石が感動したと言っている「鶴蝶」は鶴沢鶴蝶。東京の女義太夫界の中堅で、明治24年の「番付」では、左方の二番目にその名が出ている(近代デジタルライブラリー「女義太夫芸評」コマ番号9・同コマ番号16には鶴蝶の芸評)。

学生時代の秋山真之も女義太夫に夢中になっていた。柳原極堂によると、秋山と子規は都(みやこ)という女義太夫のファンだったようである。

其のころ十八九位の都(みやこ)といふちょっと可愛いゝ娘がゐた。小川亭や白梅にしょっちゅう出てゐた。母親らしいのが三味を弾いて、其の娘が長唄をうたってゐた。そして長唄が終ると腰だけちょっと上げて、膝だけで踊ったが、それが可愛いゝので評判だったし、書生仲間の噂の中心になってゐた。(中略)秋山も正岡も、都が出るといふとよく出かけて行った。
秋山が浄瑠璃本を頻りに読みだしたのも此のころだった。当時の寄席では娘義太夫が盛んであったし、義太夫を聞くには、浄瑠璃本を読んでゐなければわからないので、自然と近松ものなどを読むやうになった。(『秋山真之』所引・柳原極堂「寄席」)


高浜虚子の自伝的小説『俳諧師』には、虚子の自画像の三蔵が心惹かれる小光(こみつ)という女義太夫が登場する。

さうだ、神田の小川亭に掛ってゐる。彼女(あれ)を聴きに行かう。いま点けたばかりのラムプをもう吹き消して出掛ける。
中入りがすんで例の如く御簾が上ると小光が見台の上に美しい髷を見せて辞儀をしてゐる。「語ります太夫竹本小光、愈々弁慶上使の段東西東ザーイ」と拍子木がなる迄、小光は見台の横から偸み見をするやうにぢっと客の方を見る。これは小光の癖であるが、今日はどういふ訳だかその視線がぢっと三蔵の方に向ってゐて動かない。三蔵はまぶしいやうな気持がする。それから小光は顔を上げて三味線の調子を合せながら尚時々三蔵の方に流眄(ながしめ)をくれる、その夜は酔うたやうな心持で帰って来る。翌日又出掛ける。昨夜と同じ処に坐ってゐると果して又鋭い秋波をあびせかけられる。(高浜虚子『俳諧師』六十一)


この小光は小土佐(ことさ)という女義太夫がモデルであったといわれる。小土佐は寂しさ、憂いというイメージの人で、明治20年代後半に人気があったという(水野悠子『江戸東京娘義太夫の歴史』)。

漱石も子規も真之も虚子も夢中になった女義太夫。この演芸の歴史について述べた水野悠子『知られざる芸能史 娘義太夫』の一節を引いておこう。

明治の中頃、寄席に出る娘義太夫は青年の心をトロトロと蕩かしたといわれている。ろうそくの明かりに照らし出された娘義太夫と目が合ったといえば狂喜し、熱演する娘義太夫の日本髪が乱れ、ほつれ毛が頬にかかったといっては興奮した学生たちは、髪にさした簪が落ちると先を争って拾ったという。娘義太夫を追いかけたから、「追っかけ連」、「ドースルドースル」と叫んだから「どうする連」と呼ばれた熱烈なファンたちは、下駄を鳴らして東京中を走り回った。(中略)明治三十年(一八九七)をはさんだ十数年が絶頂期で、それは娘義太夫ブームといったほうがぴんとくる最も賑わしい時代であった。


【典拠文献・参考文献】
高浜虚子『俳諧師・続俳諧師』岩波文庫 1952年8月
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
『子規全集』別巻1(子規あての書簡)講談社 1977年3月
秋山真之会編著『秋山真之』(復刻版)マツノ書店 2009年4月(原本1933年刊)
水野悠子『知られざる芸能史 娘義太夫』中公新書 1998年4月
水野悠子『江戸東京娘義太夫の歴史』法政大学出版局 2003年3月

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