正月の凧揚げ

今はともかく正月の風物詩として古来欠かせなかったのは、凧揚げであった。幕末、江戸三田の松山藩邸(松山藩中屋敷)内で子供時代を暮らした内藤鳴雪(1847-1926)は、正月には凧揚げが盛んに行われたと述べている。

正月の遊戯で盛んに行われたのは凧揚げであった。男の子は大概凧を買ってもらい、またよそからも贈られもした。各これを揚げて楽しむこともするが、唯揚げるばかりでなく、凧合戦をする事が盛んであった。これは子供でなく、二十歳近くの者が先立ってやった。合戦というのは隣屋敷の凧とからまし合いをすることである。私の屋敷では、北隣は久留米藩有馬家、南隣は島原藩松平主殿正、西は砂土腹藩小さい方の島津であった。私どもの屋敷(注-三田の松山藩邸)ではこの三つの藩邸と凧合戦をした。からんで敵の凧をこちらへ取ったのが勝となっていた。遂には罵り合いを始め、石の投げ合いまでにも及んだ。そこで藩々の役人等は、互に相済まぬというので青年を戒めたが、その当座は止めていても、ほとぼりが醒めるとまた始めた。それでまずは黙許という姿であった。
からまし合いは、とても子供ではできないので、大きい人に貸して、戦に勝つと敵の凧はその勝凧の持ち主なる子供のものになるので、自分の凧が殖えるので喜んだ。(中略)
藩邸の凧揚げは右の通りの有様であったが、なお町家でも凧揚げをした。これは往還でも揚げたが、多くは屋根にある洗濯物の干し場で揚げた。町家同士ではからまし合いはなかった。また藩邸のが町家とからまし合いをするという事は決してなく、そういう事をすると恥辱としてあった。(『鳴雪自叙伝』二)


明治10年代に日本に滞在したモース(1838-1925)は、正月には東京の空が凧で充満していたと述べている。

この季節(一月)、東京中の人が皆紙鳶(たこ)を持っている。そして風の具合がいいので、空は大きさ、形、色の異る紙鳶で、文字通り充満している。(中略)男の子達は、単に紙鳶をあげてよろこぶばかりでなく、屡々紙鳶を戦わせるが、これは私が見た、彼等が仲間同士で戦う唯一の方法であることをつけ加えよう。(『日本その日その日』第十五章「日本の一()と冬」)


当時の子供たちにとって正月の凧揚げはこの上ない楽しみであった。ただ一人ではなかろうが、これを楽しみとしなかったのは、子供の頃のことを「(正月)凧揚げて遊ぶもの多かれど余はあまりこれを好まざりき。総て戸外の遊戯はつたなき方なりければ内に籠り居て独り歌がるたを拾ひこよなき楽しみとせり」と述べた人物、すなわち正岡子規である。

【典拠文献・参考文献】
石川欣一訳『日本その日その日2』平凡社東洋文庫 1970年10月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

神に願いごとをする

『源氏物語』の「明石」の巻、その須磨に高潮が襲来する場面で、光源氏は海の神である住吉明神に願を立て自身の無事を祈る。ことなきを得た光源氏はつづく「澪標」の巻で「願ほどき」のために住吉神社に参詣し、神に多くの奉納品をささげる。『源氏物語』のこの筋立てにあらわれているように、神に願いごとをしてそれが叶った時には、「願ほどき」、俗にいうお礼参りをしなければならないと古来観念されていた。「願ほどき」をしなければ非礼であり、神を怒らせることになると考えられていたのである。こうした観念が近代に至るまで残存していたことは、民俗学者、宮本常一(1907-1982)の父の次のような体験談からも窺われる。

父の最も大きな旅行は南洋のフィジーへ出稼ぎに行ったことであった。神戸から乗船して行ったのである。フィジーへの移民は父たちの後に一回あった。(中略)第二回の移民はブリンスベーンの港とかにあげられて見世物にひきまわされたといわれている。父たちは見世物にはならなかったけれど風土病で半分以上倒れた。父など生きてかえったのが不思議であったという。帰途暴風雨に逢って沈没せんばかりの目にあい、多くの患者はこの暴風雨のためにさいなまれて死んだ。(中略)この暴風雨の最中乗っている人たちは一心になって、「どうぞ助けていただきたい。島影を見せて下され。無事に神戸へついたらかならず金毘羅様へ裸足(はだし)参りをしますから……」と祈った。すると不思議にやや風が凪いだ。どこかの島影が見えた。一同は狂喜した。それから天候は回復し、命ある者は再び日本の土を踏み得たのである。しかしながら神戸へかえって金毘羅様へ参ったものは誰もいなかった。父はせめてお礼参りだけはしたいと思って瀕死の重病人でありつつ船で多度津へ渡り、そこから人力車で琴平に行き、あの高い石段の下で下(おろ)してもらって、這ってのぼってお参りしたという。何が苦しかったといってもこれほど苦しかったことはなかったそうである。それでも不思議に死ななかった。がこの時以来神様を拝むことを止めた。欲なことは神にたのむまいと思うようになったという。従ってお宮へ参ったというのは死ぬるまで数えるほどしかなかった。(宮本常一『家郷の訓』「父親の躾」)


神に対する立願は「願ほどき」の実行をも約束するものでなければならなかった。神助に対してはそれ相応のお返し。上に言及のある「裸足参り」というのもそのお返しだし、髪の毛を切って奉納するという下の例のようなものもそのお返しだった。

私どもはかねて途中に金毘羅参詣をするという事を藩に願っておいたので、参詣をした。(中略)社前に夥しく髪の毛が下っていた。これは難船せんとする際、お助け下されば髪を切って捧げますと誓った人が、後日捧げたものである。(『鳴雪自叙伝』三)


神に願いごとをするというのは相応の返礼も約束すること、それなりの覚悟をもってすることだったのである。

【参考文献】
阿部秋生・秋山虔・今井源衛校注『日本古典文学全集13 源氏物語(2)』小学館 1972年1月
宮本常一『家郷の訓』岩波文庫 1984年7月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

将軍の御成(おなり)

江戸時代、将軍が城を出て市中に赴くことは「御成」と呼ばれた。「御成」は徳川家の菩提寺である寛永寺や増上寺への参詣の時くらいであったらしいが、警戒は厳重で、沿道の人々は火も焚くことができず、外へ出ることもできなかった。この「御成」がおこなわれた頃の江戸を実際に知っている内藤鳴雪(1847-1926)や加藤弘之(1836-1916)は次のような証言を残している。

この二つの寺(注-寛永寺・増上寺)へ将軍が参詣される、いわゆる『御成』の日には、その沿道の屋敷屋敷は最も取締を厳重にし、或る時間内は全く火を焚く事さえなかった。沿道の大名屋敷では、外へ向った窓には皆銅の戸を下ろし、屋敷内の者は外出を禁ぜられ、皆屋敷内に謹慎していた。幕府から外出を禁じられたのではないけれども、もし誰か不敬の行為でもすると、藩主の首尾にも関係するから、各藩主が禁じていたのである。(内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』二)

私が知って居る時分の様子を御話すると、将軍が滅多に外に出られると云ふことはない。上野の寛永寺、それから芝の増上寺、それに仏参に出られるといふことが大抵定例である。其時には総て其御通りになる所は人を通さないのである。通行止にしてしまう。そればかりでない。道筋には火を焚くことが出来ない。飯を炊くことも出来ない。煙を立てるといふことも出来ない。さうして家の内に居って、唯町人は其処に坐って居る風をして居るけれども、武家はもう御通筋に居ることが出来ない。それはどう云ふことだと云ふと、刀を帯して居るから其為に武家は御通筋には一寸通れない。それであるから上野でも芝でも御道筋といふものは人間は些とも通らない。唯医者と産婆だけは通行を許したと云ふ話であります。(加藤弘之『学説乞丐袋』第三十「過去七十年の追懐」)


加藤弘之は上記書の中で「是は拵えた話であるか知らぬが……」と断わり、次のような話を記している。「御成」の時、将軍の通る道筋は通行が禁止されたから、街はひっそりとして人影を見ない。このさまを不審に思った将軍は近侍の者に尋ねた。「江戸の街はたいそう賑やかと聞いているが、そうではないのか」。近侍の者が「普段は賑わっているのですが、御成の時は人止めを致しますので静かなのでございます」と答えると将軍は言った。「そうか、それでは今度は御成でない時に、出かけてみることにしよう」と。「拵えた話」ではあろうが、世間から隔離された江戸時代の将軍の一面が示されている。

【典拠文献・参考文献】
加藤弘之『学説乞丐袋』弘道館 1911年10月
高坂正顕『明治思想史』燈影舎 1999年11月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

正岡子規、故郷のよさを実感する

明治23年(1890)の正月休み、東京から帰省した正岡子規は、故郷松山が暖地であることを今さらながらに実感した。同年、子規は「故郷の暖気」と題して次のような一文を書いている。

此冬帰省せしに故郷の寒暖計は余程東京より高からんと思はる。寒暖計は兎も角も風の吹かぬだけにても大変に相違を感ずる也。家外に出でし時にても、北窓を開きし場合にても、東京の如き肌を切る如き(余の為には咽喉を切る如き)風の吹くことなし。故に余は松山にては夜間の歩行にもハンケチ注-当時はハンカチでなくハンケチの称が一般的)を首に捲くことは稀なり。余は毎夜十一二時頃に雪院(注-雪隠のあて字)に行くがきまりなるが、東京にては隙間の風、下より吹きあげてプーッと来れば尻は寒きこといはんかたなく、折角出かゝりし糞も辟易して後もどりする位なり。然るに郷里にては雪院に行きても水の中へ尻をつッこむ如き心地せしことなし。従て花の開くことも少しは早かるべし。(『筆まかせ』第二編「故郷の暖気」明治二十三年)


東京に比べると松山の冬ははるかに過ごしやすいものであった。これより以前の明治18年(1885)の夏休み、同じく帰省した子規は、故郷の海の幸が嘆賞すべきものであると述べている。

当地ニ於テ(中略)喜ばしきものハ第一海魚の鮮なる事にて候 就中小生の推して第一トスル所ノ者ハ鯛の吸ひ物と洗ひ鯛なり 洗ひ鯛ハさしみの類なれども夏日炎暑の候なればに菊池兄に至てハ此天地ニ生を受ケシより以来未ダ嘗て其味を知らざる事なれば若シ万々一ノ事ありて之ヲ食はしめば一嘗三嘆のみならざるべし(明治18年8月2日付・清水則遠宛書簡)


正月休みや夏休みの帰省で、子規は故郷のよさをあらためて認識した。「海南は英雄の留まる処に非ず、早くこの地を去りて東京に向ふべし」(「諸君将ニ忘年会ヲ開カントス」明治15年)の語をなして故郷を捨てた子規だが、いくたびかの帰省を経たのち吐露したのは、「世に故郷程こひしきはあらじ。(中略)故郷は学問を窮め見聞を広くするの地にあらずされども故郷には帰りたし。故郷は事業を起し富貴を得るの地にあらずされども故郷には住みたし」(「養痾雑記」明治28年)という思いであった。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第9巻(初期文集)講談社 1977年9月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

明治時代の学生

明治30年代に東京で学生生活をおくった生方敏郎は、当時の学生の誰もが蛮カラ(粗野・野蛮)で薩摩風に染まっていたと述べている。

学生の風俗と来たら、蛮殻(ばんから)も甚だしかった。(中略)東京へ来て見ると、多くの学生が黒木綿の紋付を着ていた。今頃紋付を着ることはお葬式にでも行く時でなければ滅多にないが、その時分の学生は普段に紋付を着ていた。(中略)
下駄は皆一様に書生とあるからには薩摩下駄を穿いていた。(中略)
私は東京へ出てこういう学生の風俗を見てかなり異様に感じたが、自分もたちまちそれに倣った。だがこういう風俗は、薩摩出身の学生から始まったものらしい。
その頃、薩摩の学生と言えば実に幅が利いていた。そして乱暴で通っていた。(中略)
彼らの暴力に対してはほとんど圧倒されていた。(中略)彼らはことごとく短刀を懐にし、命知らずであることと、その一人を敵とすればことごとく団結して来て復讐するということは、皆の間に了解されていた。

東京の学生の全部の風俗が、ことごとく薩摩の学生の風俗ではなかったか? 蓬髪汚面、短褐弊袴、醤油で煮しめたような手拭を腰にブラ下げ、右か左の肩を怒らせ、弥蔵(注-握りこぶし)というものを拵えて懐におさめ、目を怒らして歩き、友達に会えば「貴様どこへ行く」。君とは言わずして貴様と言ったものだ。これことごとく薩摩学生の模倣であったのだ。

最も私が驚いたことには、ほとんどの学生もが白鞘の短刀とか大和杖とかまたは大きなジャックナイフなどを本箱の抽斗に蔵していたことだ。(生方敏郎『明治大正見聞史』)


森銑三も『明治東京逸聞史』の中で「今日の学生と較べたら、当時の書生は野蛮に近かったといってよいだろう」と述べている。教師としての経験もある夏目漱石は当時のこうした学生に嫌悪感を懐いていたのであろうか、『吾輩は猫である』(明治38年1月~翌年8月「ホトトギス」連載)の主人公の「猫」に「書生といふ人間中で一番獰悪な種族」云々と辛辣なことを言わせている。

【典拠文献・参考文献】
森銑三『明治東京逸聞史2』平凡社東洋文庫 1969年7月
生方敏郎『明治大正見聞史』中公文庫 1978年10月
『漱石全集』第1巻 岩波書店 1993年12月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード