明治25年12月1日、正岡子規、新聞「日本」に入社する

明治25年(1892)12月1日-この日、正岡子規は正式に新聞「日本」の社員となった。翌2日付の「日本」には子規執筆の「海の藻屑」と題する記事が早くも掲載。同記事の執筆が正式入社後の初仕事であった。

海の藻屑
奔浪怒濤の間に疾風の勢を以て進み行きしいくさ船端なくとつ国の船に衝き当るよと見えしが凩に吹き散らされし木の葉一つ渦巻く波に隠れて跡無し。軍艦の費多しとも金に数ふべし。数十人の貴重なる生命如何。数十人の生命猶忍ぶべし。彼等が其屍と共に魚腹に葬り去りし愛国心の値問はまほし。
ものゝふの河豚に喰はるゝ哀しさよ


「海の藻屑」は入社前日の11月30日に伊予の海で起こった軍艦千島の沈没事故を俳句入りの記事にしたもの。この事故についてはすでに1日付の「日本」で「沈没溺死 松山特発丗日午前一時四十五分 今朝未明和気郡堀江沖に於て英船ラヘナ号と衝突し軍艦千島沈没し乗組員溺死多し」と伝えられていたから、子規は自作の俳句を添え、情に訴えるかたちでこの事故の悲惨さを伝えようとした。

軍艦千島は海軍がフランスの造船所に発注した水雷砲艦(排水量750t)で、明治25年4月に竣工。日本に回航中、伊予の海でイギリス商船のラベンナ号(2372t)と衝突して沈没、90名の乗員中74名が死亡した(ラベンナ号も損傷を受けた)。千島の沈没地点は報道の当初より堀江沖とされてきたが、実際は興居島と睦月島の間あたりであったらしい。この事故に対しては私設の水難救済所が設けられていた堀江村(現在の松山市堀江町)の村民が迅速に対応し、献身的な救助活動をおこなったことが伝えられている。

子規がのちに『病牀六尺』(六月十五日条)で、「此水難救済会といふのは難破船を救ふのが目的であって既に日本の海岸には二三十箇処の救難所を設け其の救難所にはそれぞれ救難の準備が整ふて居るさうである。(中略)日本の如く海の多い国では此上も無く必要なものであるが、(中略)少くとも海に沿ふて居る各県民は振ふて水難救済会の会員となる様にしたいものである」と述べたのは、この千島艦事故のことが思い起こされたためであるかもしれない。

▼ 堀江町の浄福寺境内にある子規句碑
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千島艦覆没 ものゝふの河豚にくはるゝ悲しさよ 子規


新聞「日本」掲載時の「ものゝふの河豚に喰はるゝ哀しさよ」の表記を子規はのちに「ものゝふの河豚にくはるゝ悲しさよ」と改めて『寒山落木』に収めた。句碑にはこの表記改訂後のものが刻まれている。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年12月
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1971年10月
松尾忠博「軍艦千島の沈没と正岡子規」(「子規会誌」34号)1987年7月

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ルイス・フロイスの『日本史』-「日本最大の海賊」

戦国時代、芸予諸島の海の領主として強勢を誇った能島村上氏。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイス(1532-1597)の『日本史』には、この能島村上氏が「日本最大の海賊」であると記されている。

副管区長(コエリュ)師は室(むろ)を出発して旅を続け、やがて我ら一行は、ある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や地所や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な勢力を有していたので、他国の沿岸や海辺の住民たちは、能島殿によって破壊されることを恐れるあまり、彼に毎年、貢物を献上していた。(第六〇章〈第二部七七章〉)


能島村上氏は海賊の頭目として恐れられていた。海賊というと、船舶を襲撃して略奪をほしいままにする海の犯罪者というイメージだが、実際は海の領主。領有海域を航行する船舶を監視して、無断通行する船があれば検断する。軍事的にも強大な水軍力で、瀬戸内周辺での合戦という事態になると、海賊を味方につけようと多くの戦国大名たちが画策した。

能島村上氏は芸予諸島の能島を本拠地として多くの海賊衆を従えていた。フロイス一行は航行中に海賊の襲撃をうけないようにするため、この能島村上氏から「通行保証状」を得ようとする。

我ら同僚司祭や修道士たちは、このあたりが多数の島嶼であるために絶えず船で通行せねばならなかったし、つねに海賊の手に陥る危険に曝されていたので、副管区長の司祭は、その人物から通行保証状をもらえないものか交渉したいと考えた。すなわちそれが得られれば、たとえ彼の手下の海賊たちに捕えられることがあっても、掠奪されたり危害を加えられたりすることなしに済むからであった。
我らはちょうどこのたび伊予国への途上、能島殿の城から約二里の地点にいたので、副管区長師は、一人の日本人修道士に贈物を携えさせ、彼に交渉するように命じ、能島殿に対して、我らがその交付する署名によって自由に通行できるよう、好意ある寛大な処置を求めた。能島殿は、その修道士に尊敬を払い、手厚くもてなし、彼を自らの居城に招待した。そして己が好意をより高く売りつけようとして、いくらか躊躇しながら言った。「伴天連が、天下の主、関白殿の好意を得て赴かれるところ、某(それがし)ごとき者の好意など必要ではござらぬ」と。だが修道士がしきりに懇願したので、彼は、怪しい船に出会った時に見せるがよいとて、自分の紋章が入った絹の旗と署名を渡した。それは、この海賊が司祭に対してなし得た最大の好意であった。(同上)


フロイス一行は瀬戸内海の「通行保証状」として、能島村上氏から「紋章が入った絹の旗と署名」を与えられた。この紋章というのは能島村上氏の家紋である「上」の字。同氏が発給するこの「上」の家紋入りの旗を船に掲げていれば瀬戸内の海賊らは襲撃をみあわせたので、これが安全に航行するための「通行保証状」となったのであった。

フロイスの『日本史』には能島村上氏に匹敵する海賊来島村上氏についての記述もある。

日本中で最高の海賊としてその座を競い合ってきたのはただ二人だけで、彼らの館は何年も前から存続し、彼らは強大な主として公認され、そのように扱われ、奉仕されて来た。その一人は今述べた能島殿であり、他の一人は来島殿と称する。来島殿については、彼がその幾人かの部下とともに、いかにしてキリシタンになったかを次年度の記事の中で述べることにする。(同上)

日本には、往昔の国主たちの特許状によって、当初から、全海域と海国の最高指揮官をもって任ずる二人の貴人がいる。そして海国の人々は諸地方において、安全に生活するために、毎年、彼らに貢税を払っている。彼らの一人は、すでに述べるところがあった能島殿であり、他の一人は来島殿と称し、官兵衛殿に伴ってこの戦に従っている。官兵衛殿はこの人にキリシタンの教義をすべて聴聞させた。彼は教えを理解すると、洗礼を受けるため、彼とともに聴聞した幾人かの家臣とともに戦場から下関に向かった。(第六一章〈第二部八二章〉)


キリシタンになったというこの「来島殿」とは村上通総(みちふさ)のことであるらしい。

能島村上氏と来島村上氏はともに伊予の豪族河野氏に臣従していたが、研究者によると、能島村上氏は独立性がつよく、河野氏との間にはやや距離があったのに対し、来島村上氏は河野家臣団に属し、その重臣の一人であったという。

【典拠文献・参考文献】
山内譲『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』平凡社選書 1997年6月
山内譲『中世瀬戸内海の旅人たち』吉川弘文館 2004 年1月
松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史3』中公文庫 2000年3月
松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史11』中公文庫 2000年11月

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昭和16年12月8日

昭和16年(1941)12月8日、日本軍の奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まった。政治学者でのちに東京大学総長となる南原繁は開戦を知って次のような短歌を詠んだ。

人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ


常識的に考えても学問的な知見から判断しても無謀な戦いであるとの思いが詠まれている。今日は12月8日、71年前の今日がその衝撃的な開戦の日であった。

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南原繁

【参考文献】
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社 2009年7月

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下村寅太郎『東郷平八郎-近代日本海軍の形成』

京都学派の哲学者、下村寅太郎(1902-1995)が戦時下に執筆した評伝『東郷平八郎-近代日本海軍の形成』に次のような一節がある。

日本人のこころにとっては奇襲戦法にこそ戦術の本質が存するごとくに考える傾向がある。権謀術策によって勝つということは中国兵法の性格であり、特色であるが、日本人の本来の兵法ではない。日本人にとっては、戦術そのものは奇策である。それは戦術に合理的思惟を越えた行動にもとめる。
実際に今でも我々には、「戦術」という言葉は何か公開性をもたない秘術めいた隠密性を感ぜしめるものがある。我々は戦術に対して、意識的と否とは別として、奇策・秘術というようなものを期待している。もっぱら公理的な正攻法はむしろ戦術に属せず、虚を衝く奇攻法にこそ戦術の本質があるかのごとく考える傾向がある。結局戦術に合理性を越えた端的をもとめる。少なくとも戦術の合理主義を重視しない意識がある。これは戦争を戦術を越えた端的とする日本人の「心」にほかならぬ。同時にそこには戦術の合理性の探求に対する強靭な意志が乏しい。


奇策・奇攻法でもって戦争を遂行しようとする軍部への批判ともとれる内容。下村のこの評伝は、戦時下、自由な言論が抑圧されるなかで、雑誌「知性」昭和18年(1943)6月号~翌年8月号に連載されたが、「軍部への、当時におけるぎりぎり可能な範囲での批判だった」(大橋良介)といわれる。戦術の合理性を重視せず、奇策・奇攻法で万に一つの勝ちを拾いに行こうとする軍部。そうした軍部の姿勢が先の戦争をいたずらに長びかせた原因の一つであったのかもしれない。

下村寅太郎が戦争中に書いたこの評伝は、昭和50年(1975)に『明治の日本人』(北洋社)に収録されて再び世に出た。収録の折り、下村は千数百字ほどの短い「後語」を付け加えたが、その末尾には、「戦争は世界史の現実である。戦争に眼を蔽(おお)うことは現実に眼を蔽うことである。戦争がいかにして起こるかだけでなく、戦争がいかに戦われるかは、同様に厳粛な問題である」という重い言葉が記されている。

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〔東郷平八郎〕

【典拠文献・参考文献】
下村寅太郎『精神史の中の日本近代』[京都哲学撰書 第4巻 大橋良介 解説] 燈影舎 2000年1月

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日露戦争、その後

日露戦争(明治37年~翌年)でロシアに勝利した日本は次第に大国意識をもつようになった。一等国になったという声がこの戦争後、随所で聞かれるようになったと夏目漱石も述べている。

戦争以後一等国になったんだといふ高慢な声は随所に聞くやうである。中々気楽な見方をすれば出来るものだと思ひます。(夏目漱石「現代日本の開化」明治44年8月、和歌山での講演)


当時のこうした風潮に漱石はかなり批判的だった。小説『それから』の中でも主人公に次のような発言をさせている。

日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国丈(だけ)の間口(まぐち)を張っちまった。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。(中略)日本国中何所(どこ)を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いぢゃないか。悉く暗黒だ。(『それから』 明治42年6月27日~10月14日朝日新聞連載)


日露戦争の勝利によって生じた大国意識。精神科医で著作家の中井久夫が「日露戦争を眺めなおす」というエッセーの中で述べていることを引用しておこう。

一般に自国が大国だという国は現実離れをしがちである。政治家は今も時々、自国を中小国と考えてみる必要があるのではないか。いかなる国も十二分に大国ではない。(中井久夫『関与と観察』所収「日露戦争を眺めなおす」)


【典拠文献・参考文献】
『漱石全集』第6巻 岩波書店 1994年5月
『漱石全集』第16巻 岩波書店 1995年4月
中井久夫『関与と観察』みすず書房 2005年11月

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