正岡子規、擬似コレラ(?)に罹る

子規は少年の頃、擬似コレラに罹ったと母八重はいう。

十三か十四の時分に類似コレラ(擬似コレラ)に罹りましたが丁度盂蘭盆の頃で、松山ではよく味噌をつきますが、其味噌豆を沢山たべたのでお腹を下したのでございます。病気は別にわるいといふこともないので、七日許りして家の内では遊ぶやうになりました。(碧梧桐記「母堂の談話」)


子規の幼なじみ三並良の回想記によると、このとき正岡家の門前には巡査が立って、家が隔離され、親戚の藤野漸が連絡をとろうにも大声で呼ばわるしかないというような事態であった。

もう中学時代であったか、どうか忘れたが、子規は或る夏コレラ病に罹った。此の時ほど我々の心配したことはなかった。当時は患者のある家の門に「コレラ患者あり」と黄色い紙に書いて、はり出され、巡査が門前に番をして、交通は全く断たれた。岩村県令もコレラにかゝった。県令も全快したが、それには腰湯が大功を奏したことを、親戚の藤野漸が県庁の官吏であったのでよく知って居た。此の漸は古白の父で古白は子規とは従兄弟であった。漸は何とかして、此方法を正岡の家人に知らせてやらうとしたが、交通遮断では如何ともすることが出来ない。彼は中の川辺りの側を歩きながら、垣根ごしに、大声に「腰湯をおさしよ」と呼ばわって、終にその意味が通じ、子規はコレラから救はれた。(三並良「子規の少年時代」)


このときの子規の病は実際には急性大腸炎(大腸カタル)であったともいわれる。治療に当たったのは、小唐人町(松山市大街道2丁目)の安倍義任医師であった。安倍義任は哲学者、教育者として知られる安倍能成の父である。

子規はこの病に罹った翌年の正月、安倍医師に礼状(明治13年1月5日付)を書いている。

(上略)余九死一生ヲ免レ唯独リ世ニ存スルヲ得ルハ実ニ国手(注-医師を敬っていう語)ノ治術宜シキヲ得 妙薬ノ法ニ適スルニヨルベシ 其伝染スルモ之ヲ懼レズ 暑烈シキモ之ヲ避ケズ 国手ノ厚情之ヲ謝セント欲スレドモ辞ナク 之ヲ報ゼント欲スレドモ能ハズ 余今十三年ノ元旦ニ逢フモ実ニ国手ノ賜ナリ(以下略)


講談社版『子規全集』には子規の手紙が1100通余り、年代順に収録されているが、その最初のものがこの安倍医師への礼状である。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
『子規全集』別巻2(回想の子規1)講談社 1975年9月
『子規全集』別巻3(回想の子規2)講談社 1978年3月

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松山藩と裏千家十一代玄々斎

江戸時代、茶道の裏千家と松山藩は関係が深く、裏千家五代常叟から十一代玄々斎までの代々の当主は、藩の茶道奉行として京都の松山藩邸(京都市中京区高倉通り六角下ル和久屋町・高倉小学校付近)に出仕していた。内藤鳴雪の父はその松山藩邸の留守居役を務めていたことがあり、十一代玄々斎とも職務上の付き合いがあった。鳴雪の自叙伝には若干ではあるが、この裏千家当主との付き合いについての記述がある。

京都の藩邸へは出入りの人々がある。そのおもな者には、徳大寺殿(注-公家の名門。摂家につぐ清華家の家柄)の家来の滋賀右馬大允というのがある。松山藩はこの徳大寺家を経て朝廷への用を多く弁じていたものであるから、藩からこの滋賀へは贈物などもして機嫌を取っていた。(中略)茶道の千家は利休以来裏表があるが、この裏千家も私方へ出入をした。この千家の玄々斎宗室と呼ぶのが藩士の名義になって二百石を受け、側医者の格で居た。(中略)こういう出入の者等には、留守居としては毎月一回はちょっとした饗応をせねばならなかった。そのうち滋賀や千家などは稀に祇園町へも連れて行かねばならなかったらしい。(中略)京都住居は僅か八ヶ月であったが、(中略)いよいよ京都を去るという前夜、ちょっとした別れの宴を内で開き、滋賀や千家等を招き、席の周旋には『山猫』という者が来た。山猫というのは、祇園町のでなく山の手の方の芸子を呼ぶ称である。誰かが『御留守居さんの出立に、山猫はちと吝い』といった。千家は頻りに祇園町行きを迫って『明朝間に合わせますからちょっと行きましょう』などといったが、父は応じなかった。(『鳴雪自叙伝』五)


鳴雪のこの記述では、玄々斎は祇園の花街へ行くことをせがむいささか軽薄な人物だが、茶道史上では、さまざまな改革を成し遂げた裏千家の中興の祖といわれるほどの人であったらしい。玄々斎は松山へもたびたび赴いており、維新後も長期間在松して茶道の普及につとめた。じつは三津浜にも縁の深い人物なのだが、そのことについては次回のブログ記事でふれることにしよう。

【典拠文献・参考文献】
武田幸男『松山藩と裏千家茶道-茶道覚書-』愛媛県文化振興財団 1994年3月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

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裏千家十一代玄々斎と三津浜

三津浜の豪商であった天野家の屋敷には「以静庵」と呼ばれる茶室があった。『三津浜誌稿』にはこの天野家の茶室が裏千家十一代玄々斎の手になったものであるとの註記がある。

明治三十五年頃、当時天野家は槌屋という、造酒屋であったが、昼火事により全焼してしまったという。隆盛を誇った天野家も後年は昔日の面影なく、庭園にあった立派な茶室(玄々斎の手になったもの)は郡中の宮本小三郎氏に買はれたとも云はれ、焼失はまぬがれている。(『三津浜誌稿』第二章「各町の変遷」十四「新町」)


この天野家の「以静庵」で催された茶会の記録が伝存しているが、それによると、裏千家を通じて入手したと思われる茶道具の名品が数多く使用されており、「その財力と、地方における文化水準の高さを裏付けるもの」(『松山市史料集』第7巻解題)であるという。

玄々斎は藩政時代には、松山藩の茶道奉行として二百石を支給されていたが、維新後はその禄も失い、自活の道を求めて、町方豪商たちへの指導を積極的におこなうようになった。藩政時代より松山をたびたび訪問していた玄々斎であったが、明治7年(1874)の8月頃、来松したおりには、三津(神田町4丁目)の善宗寺に居を求め、翌年の5月下旬まで同寺に滞在して茶道の普及につとめた。三津滞在中は「毎日のように松山へ出て町方の指導に当たっていた」(武田幸男『松山藩と裏千家茶道』)という。

▼ 玄々斎が長期滞在していた三津の善宗寺
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【典拠文献・参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
松山市史料集編集委員会編『松山市史料集』第7巻 松山市役所 1986年4月
武田幸男『松山藩と裏千家茶道-茶道覚書-』愛媛県文化振興財団 1994年3月

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大伴家持「なでしこ」の歌

なでしこがその花にもが朝(あさ)な朝()な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ(3・408)
我がやどに蒔()きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む(8・1448)
なでしこが花見るごとに娘子(をとめ)らが笑()まひのにほひ思ほゆるかも(18・4114)


いずれも『万葉集』大伴家持(718?-785)の歌。歌意は「あなたが、なでしこのその花であって欲しい。そうしたら、毎朝毎朝、手に持って、恋い慕わない日などないだろうに」(3・408)、「我が家の庭に蒔いたなでしこはいつ花ひらくだろうか。花ひらいたらあなただと思って眺めよう」(8・1448)、「なでしこの花を見るたびにいとしい少女の笑顔の美しさが思われてならない」(18・4114)。

なでしこは秋の七草の一。大伴家持はこの花の可憐な風姿を格別に好んだ。なでしこを愛する女性に見立てて歌を詠んだのは家持が最初で、それまでは木に咲く花(梅、桜、橘など)を女性に見立てるのがつねであった。

【典拠文献・参考文献】
伊藤博『萬葉集釋注 二』集英社文庫 2005年9月
伊藤博『萬葉集釋注 四』集英社文庫 2005年9月
伊藤博『萬葉集釋注 九』集英社文庫 2005年12月
竹田美喜『竹田美喜の万葉恋語り』創風社出版 2011年6月

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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
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明治25年8月5日の正岡子規

明治25年(1892)8月5日-この日、子規は高浜虚子、河東碧梧桐、新海非風とともに三津の「溌々園」に赴き、競吟(せりぎん)句会をおこなった。この句会での兼題は「蓮の花」「泳ぎ」「沖膾(おきなます)」など。子規はこれらの題で「咲立つて小池のせまき蓮哉」「ともづなにあまの子ならぶおよぎ哉」「はね鯛を取て押へて沖膾」などの句を詠んでいる。

河東碧梧桐の『子規を語る』に「三津のイケス」という章があるが、この章は同日の句会の模様を再現したものである。以下にその一部を引いておこう。

碧梧桐と虚子は持って来た風呂敷包みをあけて、紙や筆を整理したり、借りた硯で墨をすったりしていた。夏らしくない小雨がしとしと降りこんで、庭に伸びた南天の細長い枝が、頭を重そうにシナっていた。
虚子「何か題を出してもらわんと……。」
碧梧「そうよな。のぼさん題を出しておくれや。」
非風「もう始めるのかな、野暮の床いそぎじゃな。まアゆっくり別嬪論でもやる位な余裕を持とうじゃないか、ハッハッ。」
子規「さア何でもそこらにあるものでよかろがな、何でもお出しや。」
非風「題を出すって、いつもの競り吟じゃろうな、それならアシが出す、田舎者の髪の匂い、どうぞな、いかんかな、女の素肌、こりゃアちょっとよかろがな、いかんな、そうかな、人三化七針金眼(ひとさんばけしちはりがねまなこ)に団子鼻はどうぞなハッハッ。」
一同「アハハハハハハ。」
子規「エエ加減にしようや。へーさんお前何かお出しや。」
碧梧「出してもエエかな、じゃ蓮の花。」
子規「蓮の花、そうそう来る道に咲いとったな。アシらが小さい時分、お壕の蓮が一杯じゃったがな、南堀端の何とか庄兵衛と言ったお爺さんが、蓮のさかり時分はポンポン花のさく音がして、床の中でひとりでに目がぱちりと明き、ポンと来るとまた頭があがり、またポンと来ると半身が起きて、ひとりでに床の中から起きられる、と言いよいでたそうな。」
(中略)
子規「ハハハハ、けれどな、蓮の花のさく音で眼が覚めるような静かな気分はわるくないな、オイ一つ出来たかイ。」
蓮の花と題を書いた一枚の紙へ
 咲立つて小池のせまき蓮哉
草書ですらすらと書いた。黙って考えていた虚子がすぐ筆をとって、そのあとへ
 ふいと来た胡蝶にさくや蓮の花
と書いた。碧梧桐は十分まとまらなかったが、大急ぎにまとまりをつけて
 蝶々の散るにはもろき蓮かな
とつづけた。  (河東碧梧桐『子規を語る』「十四 三津のイケス」)


参会者はいずれも松山の出身者であったから、同日の句会はこのように松山弁まる出しでおこなわれたのであろう。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第15巻(俳句会稿)講談社 1977年7月
河東碧梧桐『子規を語る』岩波文庫 2002年6月

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