河東碧梧桐、子規に野球の指導を受ける

河東碧梧桐(秉五郎)が正岡子規の姿をはじめて見たのは7、8歳のころだった。河東家の玄関先で薪の積み込みを手伝い、碧梧桐の父(静渓)と何やら薪の貯蔵法について話をしている子規の姿、それが碧梧桐の目に映った最初の子規だった。父の静渓が子規のことを「若いのにできる男だ」とよく話していたので、碧梧桐はその後も子規の姿を見るたびに自然に頭の下がるような思いがしていたという。

碧梧桐と子規は年齢が6歳も離れていたから、言葉を交わしてつきあうようになったのは最初の出会いから数年後。親しくなるきっかけは詩や俳諧などではなく、ベースボールだった。

当時まだ第一高等学校の生徒位にしか知られていなかったベースボールを、私が習った先生というのが子規であったのだ。私の十六になった明治二十一年の夏であったと記憶する。当時東京に出ていた兄から、ベースボールという面白い遊びを、帰省した正岡にきけ、球とバットを依托したから、と言って来た。子規と私とを親しく結びつけたものは、偶然にも詩でも文学でもない野球であったのだ。それで松山のような田舎にいて、早く野球を輸入した、松山の野球開山、と言った妙な誇りをも持っているのだ。
球が高く来た時にはこうする、低く来た時にはこうする、と物理学見たような野球初歩の第一リーズンの説明をされたのが、恐らく子規と私とが、話らしい応対をした最初であったであろう。兄とは違った、何処か粋な口のききようから、暖かなやさしみを持った態度の前に、私は始終はにかみながら、もじもじしていた。団扇の柄を両手で揉むようにして煽いでいた仕種までが妙に慕しかった。(中略)
子規の家を始めて尋ねたのも、野球の一般法則を聴く約束があったからだ。当時はまだ今日のように適当な訳語もなかった。そうして聴く私には、英語の力が薄弱だった。メンバーのそれぞれの役目から、勝敗に関する複雑なコンディションを一通りわからせようとした、先生の労を多とせなければならない。(中略)何でも子規はグラウンドの詳しい図面と、メンバーの名前と、球の性質に関する表のようなものを書いてくれたので、後生大事に貰って来たことを覚えている。(河東碧梧桐『子規を語る』四「野球」)


碧梧桐はこれを明治21年(1888)のこととしているが、22年が正しい。野球を通してはじまった子規との交流。23年春にはそれが俳句を通した交流となり、碧梧桐は句作に熱意を傾けるようになる。「子規を夢に見るほどの憧れを持っていた」(同上)-碧梧桐は当時の自分をそう振り返っている。

【典拠文献・参考文献】
河東碧梧桐『子規を語る』岩波文庫 2002年6月

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高浜清(虚子)、城北練兵場での子規との出会い

今の愛媛大学(城北キャンパス)、松山赤十字病院がある辺りは敗戦まで「城北練兵場」と呼ばれる広大な野原であった。明治23年(1890)の夏、当時中学生だった高浜清(虚子)は、この練兵場でバッティングの練習中、東京帰りの学生の一団に遭遇、その中心人物で心をひきつけるような声の人が正岡子規であることをのちに知る。

松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処(そこ)へ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣(や)っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣って来た。余らも裾を短くし腰に手拭をはさんで一ぱし書生さんの積りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルであることがまず人目を欹(そばだ)たしめるのであった。
「おいちょっとお借しの。」とそのうちで殊に脹脛(ふくらはぎ)の露出したのが我らにバットとボールの借用を申込んだ。我らは本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速それを手渡しすると我らからそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。その人の風采は他の諸君と違って着物などあまりツンツルテンでなく、兵児帯(へこおび)を緩く巻帯にし、この暑い夏であるにかかわらずなお手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板(まないた)のような下駄を穿き、他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此の一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終には単衣(ひとえ)の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。そのうち一度ボールはその人の手許を外れて丁度余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬。」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく人の心を牽きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。
このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。(高浜虚子『子規居士と余』)


その翌年の24年5月23日、高浜清は友人河東秉五郎(碧梧桐)の紹介で、子規にはじめて手紙を書いた。この手紙で清は城北練兵場での出会いにふれ、文学に志があることを明かして、子規の指導を求めている。

小生大兄ノ高名を承る事久しく河東兄ノ家ニ游ブ毎に常ニ大兄の手習ニ接シ恋々の情止む能ハず。昨年夏城北練兵場ニ於テ始メテ君ニ相会フ事ヲ得ルト雖ドモ小生ノ小膽なる進で大兄ニ向テ語ヲ発スルノ機会を得ざりしハ家に帰りて已に遺憾に堪へず、今ニ於テ赧顔の至りなり。蓋シ余ノ兄ニ向テ斯く恋情忍ぶ能ハざる所以のものハ全く君と嗜好を等ふするによるものにして君が一言一句ハ以て余の肝膽に徹す可く以テ余が勇気ヲ奮フ可シ。嗚呼大兄若し鈍児を以て小生を退けず可憐児を以て憐情を垂れ区々タル小膽の希望を容れバ小生の幸福夫レ幾何ぞ。伏シテ請フ、正岡雅兄爾後時に訖正を垂れ教導訓誡の労を惜マルヽ無クンバ君ハ一ノ救世主ナリ。否救人主トコソ称す可けれ。情ノ禁ずる能ハざる所溢れて漫りに無礼の言を為す、若し高筆をわずらハす可くんバ幸甚。恐惶謹言
明治二十四年五月廿三日       城南の一漁史 高浜清
洛陽ノ鴻学
正岡雅兄                                     (句読点は引用者の付加)


この手紙を受け取った子規は同月28日、「真成之文学者また多少の必要なきにあらず、僕性来疎慵世事に堪へず妄りに戯文家を以て我任となす。(中略)賢兄僕を千里の外に友とせんといふ、僕豈好友を得るを喜バざらんや」と返信して高浜清を激励した。子規数え年25歳、高浜清18歳、のちに日本の俳句文学を革新することになる二人の交わりがこのときからはじまる。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
『子規全集』別巻1(子規あての書簡)講談社 1977年3月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

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「虚子」という号

高浜清は明治24年(1891)9月7日付、同22日付の子規宛ての手紙で、俳号を付けてもらいたいと子規に懇願している。

小生是迄南海漁史など号し居り候処、思へバ無粋極まる話しにして何かなと苦心仕り候へども格別の名号も発見せず、甚だ困り居り候処。賢兄若し何か小生に適当の名号あれバ御教示被下度是亦願入候也。
但し淋しき雅客然たるを好み候。(24年9月7日付)


兼て申上候小生俳名(すこしおっこうなれど)の儀何卒御ひまに御命名被下度重て願上候也。(同22日付)


この申し出を受けた子規だが、なかなかよい号が思い浮かばず、高浜清に自分でも考えてみるようにという。

御雅号之事度々被仰候へども小生もこれといふ思ひつき無之候得共何か大兄の御住所に付てつけらるゝか、又ハ大兄ノ尤好まるゝもの又ハ事にちなんでつけられてハ如何。猶心あたりも有之候ハヾ可申上候。(9月26日付・高浜清宛て子規書簡)


高浜清は「放子」という号を考え、子規に報告。子規はそれもよしとした上で、思いついた号があるという。清(きよし)の名にちなんだ「虚子」がそれであった。

放子の御雅名面白し面白し。実ハ小生先日一寸考へつきて
 虚子
といふのにてハ如何ぞやと御尋可申存居候処也。これハ君の名「清」の字にちなミたるものにて「虚子 きよし」といふ滑稽に御坐候。又意味より申し候とも清と虚とハ殆どシノニムとも云ふべきものかと存候。(10月20日付・同上)


高浜清はこの「虚子」を終生の俳号とする。

天の川のもとに天智天皇と虚子と 大正6年
初空や大悪人虚子の頭上に 同7年
虚子一人銀河と共に西へ行く 昭和24年
悴(かじか)みて高(こう)虚子先生八十一 同28年


その俳号を詠み込んだ虚子の句である。

【参考文献】
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
『子規全集』別巻1(子規あての書簡)講談社 1977年3月
大岡信『子規・虚子』花神社 1989年9月
高浜虚子『虚子五句集(上)』岩波文庫 1996年9月
高浜虚子『虚子五句集(下)』岩波文庫 1996年10月

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正岡子規、演説に熱中する

正岡子規は松山中学時代、政治に興味を覚え、弁論部に籍を置いて盛んに政談演説をしていた。

余は在郷の頃、明治十五、十六の二年は何も学問せず、只政談演説の如きものをなして愉快となしたることあり。(『筆まかせ』第一編「演説の効能」)

小生は近頃演説好に相成、第一北予青年演説会に居り(中学校講堂を借受け毎日曜日の夜開会す)、第二中学校談心会に居り(毎土曜日晝間中学校講堂に於てなす)、第三明報会にも入れり(是は貴君も御入社被成候ひし興禅寺の会なり)。実に愉快に奉存候。(明治16年4月30日付・三並良宛書簡)


その演説の内容は例えば次のようなものであった。

一層大ナル圧制アリ。何ゾヤ、曰ク中央干渉ナリ。抑現今政府ノ政略如何ゾヤ、只一地方ノ小事ト雖モ直ニ不案内至極ノ諸省ニ伺ハザルヲ得ザルナリ。(中略)其一地方一地方ニ於其地方ノ事ニ熟練スルノ人ヲ捨テ其地方ヨリ千里ヲ隔ツル中央政府ニ伺フハ実ニ政府ノ干渉至レリト云フベシ。(「自由何クニカアル」明治15年12月青年会演説草稿)


中央集権的な政府を批判する内容。子規の演説は声も弱々しくて下手であったが、話の内容は斬新でおもしろかったと当時を知る勝田主計はいう。

談心会といふ会が組織されて居って、青年が寄って色々弁論の稽古をしたものであった。(中略)子規の演説は極く下手であったが、其の演説の趣向組立といふものがまるで短篇小説を読むやうな風で、余程斬新で面白く出来て居った。即ち其の時分から文学といふことに就て子規は嶄然頭角を現はして居るやうに思った。(勝田主計『ところてん』)

或時私は子規の演説を聞いたことがある。それは他の学生等と趣を異にした、弱々しい低い声で、その云ふことも文学的、感傷的のものであった。一般学生の演説を伯鶴の活溌な講談に譬へるならば、子規のは貞山の人情話を聴くやうな趣があった。(勝田主計「子規を憶ふ」)


この頃の子規は政治家を志していた。

此時余の目的は何なりしかといへば政治家とならんとの目的也。叔(注-叔父加藤拓川)ハ戯れに余に向て「汝ハ朝に在ては太政大臣となり野に在りては国会議長となるや」と笑はれしに、余ハ半ば微笑しながら半ばまじめに「然り」と笑へたり。(『筆まかせ』第一編「哲学の発足」)


詩歌を愛好する気持ちを失ったわけではなかったが、文学のような虚業は男子一生の仕事ではないと子規は当時、考えていたのである。

【典拠文献・参考文献】
勝田主計『ところてん』1970年9月
『子規全集』第9巻(初期文集)講談社 1977年9月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
『子規全集』別巻3(回想の子規2 附補遺)講談社 1978年3月

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松山城・紫竹門

▼ 紫竹門(重要文化財)
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本丸の大手と搦手を仕切る高麗門。門の北側の小天守石垣下に紫竹が植えられていたのでその名がある。天明4年(1784)の雷火で、天守・小天守などとともに焼失したが、嘉永期(1848-1854)に再建された。

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