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耒井「すずなすずしろなつかしきものみなむかし」

すずなすずしろなつかしきものみなむかし


林原耒井(らいせい 1887-1975)の句。「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ 春の七草」。「すずな」は蕪、「すずしろ」は大根、ともに野草としての昔の呼称であるという。林原耒井は福井県の生まれ、本名耕三。夏目漱石の最後の弟子。大正時代に5年間、旧制松山高校の教授をつとめた松山ゆかりの俳人である。

【参考文献】
山本健吉『鑑賞俳句歳時記 冬・新年』文藝春秋 1997年5月

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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

「ぱしふぃっくびいなす」松山寄港

本日(1月7日)、「ぱしふぃっく びいなす」松山寄港(三津の外港第1埠頭 12:00~21:00)。
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テーマ : 日記
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北条・西の下(にしのげ)

俳人・高浜虚子(1874-1959)は北条の「西の下(にしのげ)」というところで幼少期を過ごした。以下はその「西の下」についての虚子の記述。

私は四国の一隅にある松山といふ小都会に生れました。(中略)私はその南の方の市街のほゞ中央のところ(注-虚子の生家は湊町4丁目の子規生い立ちの家の北隣り)で生れたのでありますが、生れた年に一家をあげて松山から三里あまり隔ってをる風早の西の下といふところに移住しました。それは父が百姓になるつもりで、家族を連れて移住したのでありました。(中略)
幼い私の目に初めて映った天地は、その西の下の風光でありました。東の方には河野氏の城阯であるといふ高縄山がそびえてをりまして、それからずっと北に渡ってゐる山脈の流れに恵良、腰折といふ風折烏帽子のやうな二つの山がありまして、それから海の中には、鹿島といふ鹿のをる島がありまして、それから西の方の海の中には、千切、小鹿島、他に二つの岩が並んでをりました。夕方になると、日がこの千切、小鹿島の後の方に落ちまして、白帆が静かにその前に浮んでをりました。夜になると狐火が高縄山の麓の方にチラチラ灯ることがありました。私の家は畑の中に四軒並んでゐるその一番北のはづれの家でありました。この四軒は皆同じやうな考へのもとに帰農した人々でありまして、交際するのもこの四軒の人々だけでありました。(中略)
すぐ近くに、あまり大きな川ではありませんが、それでも大川とよんでをる川がありまして、それに土橋がかゝってをりましたが、その橋のたもとの堤の上に、大師堂がありました。その大師堂のほとりに石が立ってをりまして、その石に「阿波のへんろの墓」と古風な字を刻んでありました。これは沢山来る遍路の中に、この道端で亡くなった一人の遍路の墓であらうと思はれました。生国は何処かと訊いた時分にその遍路は阿波と答へたものでありませう。何か哀れな物語がありさうに思へるのでありました。



↓ 上引に言及のある西の下大師堂
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↓ 大師堂の傍らにある「阿波の遍路の墓」
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↓ 同じ場所には虚子の胸像と句碑(「この松の下にたゝずめば露のわれ」「道のべの阿波の遍路の墓あはれ」)がある。
「この松の~」は虚子、大正6年(1917)10月15日の句。詞書には「帰省中風早柳原西の下に遊ぶ。風早西の下は、余が一歳より八歳迄郷居せし地なり。家空しく大川の堤の大師堂のみ存す。其堂の傍に老松あり」とある。「道のべの~」は虚子、昭和10年(1935)4月25日の句である。
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「西の下」は虚子にとって心の原風景ともいえるところであった。晩年、虚子は伊予に帰省するたびに、「西の下」に立ち寄り、「阿波の遍路の墓」を拝したという。この墓が何者かによって取り去られたとき、虚子は深く悲しみ、自費で新たに「阿波の遍路の墓」を建てた。「この松の下にたゝずめば露のわれ」の句碑は昭和3年(1928)の建立。のちにこの句碑に「道のべの阿波の遍路の墓あはれ」を併刻した。

【典拠文献】
『定本高浜虚子全集』第13巻(自伝回想集)毎日新聞社 1973年12月
和田茂樹編『子規と周辺の人々』(増補版)愛媛文化双書刊行会 1993年9月
『虚子五句集(上)』岩波文庫 1996年9月

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テーマ : 歴史
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幼時の子規、「そこお動きなよ」と言われて……

正岡子規は数え年六歳のころより伯父佐伯政房(半弥)のもとに通い、御家流の書を学んだ(『筆まかせ』第二編「手習の時代」に「余も六歳頃より佐伯伯父のもとへ行きお家流を習ひ」とある)。佐伯政房は子規の父常尚の兄、旧藩時代は大小姓で祐筆をつとめ、御家流の書に巧みであった。子規、六歳のころのその佐伯政房の家でのエピソード、次のようなことがあったと妹律が語っている。

或時、伯父が不在で、しばらく待ってゐる中(うち)居合した従兄――政直を兄さん兄さんと呼んでゐました――が、俺が教へてやらうと言った。お帰りまで待ってゐます、と言ってきかず、そんなら、そこお動きなよ、と言はれて、かなりな時間、ぢっと坐ったきりでゐました。やっと伯父が帰って、サア教へてあげようと兄の様子を見ると変だし、又た部屋中が妙に臭い。升さんどうかおしたか、と言っても急に返事もしない筈、べっとりと大便をしてゐたさうで、あとで、どうしてあんなことをしたのか、と詰問すると、それでも、そこお動きなよ、と言はれたからだ、と言ったさうです。


「そこお動きなよ」と従兄の政直に言われた子規は、その言葉どおり坐りつづけて伯父の帰りを待ち、粗相をしてしまったのであった。武士の子としてしつけられた子規は、言われたことには従わなければいけないと頑なに信じていたようである。

「日下伯巌先生や武知五友先生の字は幼稚で俗気がある。いわゆる書家の字は野卑の極み、却って素人にうまいのがある。僧侶の字は案外垢抜けしたものが多く、松山では蔵山和尚、明月和尚の字が群を抜いている」(取意)――明治32年(1899)8月23日付の手紙で、子規は書についての持論をこう開陳している。この忌憚のない論が記された手紙の宛先は佐伯政直、幼い子規が粗相をしたときのあの政直兄さんであった。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』第19巻(書簡2)講談社 1978年1月
『子規全集』別巻3(回想の子規2)講談社 1978年3月

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虚子「松過ぎの又も光陰矢の如く」

松過ぎの又も光陰矢の如く


高浜虚子、昭和15年(1940)1月10日作の句。正月の門松を立てておく期間(一般には7日まで)が「松の内」、それ以後のしばらくの期間が「松過ぎ」である。正月も松を過ぎるとまたあわただしい日々、またたく間に時が経過する。「光陰矢の如し」。月日がたつのは飛ぶ矢のように早い。

【典拠文献・参考文献】
高浜虚子『虚子五句集(上)』岩波文庫 1996年9月

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