腰折山

↓ 北条の腰折山(標高214m)と恵良山(標高302m)。
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↓ その名の通りの形をした腰折山。
子規に師事した北条の俳人、仙波花叟は「腰折といふ名もをかし春の山」と詠んでいる。
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腰折山はエヒメアヤメ(方言名コカキツバタ)の自生地でもある。

  花叟が腰折山の小杜若(こかきつばた)を贈りたるに
小包に小杜若のしほれたる


子規、明治31年(1898)春の句。仙波花叟が腰折山の小杜若を小包便で送って来たときの句である。

当地の方言でコカキツバタとも呼ばれるエヒメアヤメは、中国東北部・朝鮮半島に産する大陸系の多年草。日本列島では西南部のごく限られた地域に自生する。腰折山の自生地は国指定天然記念物「エヒメアヤメ自生南限地帯」。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第3巻(俳句3)講談社 1977年11月
『愛媛県百科大事典』上巻(浮穴政成執筆「エヒメアヤメ」の項・豊田達雄執筆「腰折山」の項)愛媛新聞社 1985年6月

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子規自撰の墓誌

松山市駅前にある「城山の浮み上るや青嵐」の子規句碑。
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碑表の左には子規自筆の墓誌(実物大)が刻まれている。
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正岡子規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升
又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人
又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東
京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養
ハル日本新聞社員タリ明治三十口年
口月口日没ス享年三十口月給四十圓


この墓誌は、明治31年7月13日付、河東銓(碧梧桐の兄)宛の子規書簡に別紙として添えられたものである。同書簡には「アシャ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ石碑立テヽモ字ナンカ彫ラン主義」であるが、「万一已ムヲ得ムコツデ字ヲ彫ルナラ別紙ノ如キ者デ尽シトル」、「コレヨリ上一字増シテモ余計ヂャ」などと記されている。

全文百余字の短い墓誌であるが、姓名、文筆上の活動を示す雅号、生地、居住地、両親、奉職先、没年月日、享年、俸給というように子規の生涯が簡潔明瞭に収め尽くされている。「正岡常規」は本名。「處之助(ところのすけ)」は幼名。この幼名は父常尚が懇意にしていた藩の鉄砲師範役竹内一兵衛によってつけられたものであったが、4、5歳の頃、祖父大原観山によって、「升(のぼる)」と改められた。子規は新聞「日本」の評論などには「越智處之助」の名を用いている。「升」は近親者に「のぼさん」と使われた呼び名、子規自身も「升」「のぼる」の署名を種々のものに用いた。「子規」は啼いて血をはくというホトトギスの漢語、喀血したことに因んでつけた自身愛用の俳号である。「獺祭(だっさい)」は獺(かわうそ)が捕った魚を食う前に並べることから、詩文を作るために多くの書物をひろげ散らすという意。俳論・俳話などには「獺祭書屋珠主人」の号が用いられた。「竹ノ里人」は子規が住んだ東京根岸が呉竹の根岸の里などと称されたことによるもの。和歌・歌論・新体詩などにはこの号が用いられた。子規生涯の文筆上の活動範囲は、これら「又ノ名」によって示されているのである。

「父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル」――父の隼太は子規が数え年6歳のときに死去。子規は母八重(大原観山の娘)に育てられた。墓誌にこの父の役職が「御馬廻加番」と記されていることについては、本年2月8日のブログ記事を参照していただきたい。→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-479.html

「明治三十口年口月口日没ス享年三十口」という没年月日、享年の表示。この墓誌をしたためたとき、子規は自身の余命が十年に満たないことを自覚していた。

「月給四十圓」――日本新聞の社員としての子規の月給は、この墓誌を書いた明治31年のはじめにようやく40円となった。随筆『仰臥漫録』(明治34年9月30日条)に子規は、「明治廿五年十二月入社月給十五円 廿六年一月ヨリ二十円 廿七年初新聞小日本ヲ起シコレニ関スルコトトナリ此ヨリ三十円 同年七月小日本廃刊「日本」ノ方ヘ帰ル 同様三十一年初四十円ニ増ス(中略)余書生タリシトキハ大学ヲ卒業シテ少クトモ五十円ノ月給ヲ取ラント思ヘリ(中略)書生ノトキニ空想セシ如ク金ハ容易ニ得ラルヽ者ニ非ズ 五十円ハオロカ一円二円サヘ之ヲ得ル事容易ナラズ(中略)三十円ニナリテ後ヤウヽヽ一家ノ生計ヲ立テ得ルニ至レリ 今ハ新聞社ノ四十円トホトヽギスノ十円トヲ合セテ一ケ月五十円ノ収入アリ 昔ノ妄想ハ意外ニモ事実トナリテ現レタリ 以テ満足スベキ也」と書いている。

子規の墓(東京田端・大龍寺)にこの自撰の墓誌は刻まれなかったが、昭和9年の三十三回忌にこの墓誌を刻んだ石板碑が子規の墓の側に建てられた(平成19年1月、同石板碑建替)。

子規の河東銓宛書簡(明治31年7月13日付)とその添付の墓誌は、松山市立子規記念博物館に所蔵されており、常設展で展示されている。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
『子規全集』第19巻(書簡2)講談社 1978年1月
和田茂樹『人間正岡子規』関奉仕財団 1998年6月

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釣島(1)

釣島(つるしま)
面積0.36k㎡・人口83人・世帯数28(人口・世帯数は平成23年6月現在)
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釣島は正徳3年(1713)には松山藩の馬を飼育する放牧場となっていて、馬の番人が往来したが、幕末に至るまで定住者はいなかった。

元治元年(1864)、興居島・由良の小林年松を組頭とする七人組(興居島・由良から4名、同・泊から3名)が移住、脱落した2名を除く5名が定住して、この島の礎を築いた。

藩政時代は馬の放牧場であったことから馬島と呼ばれたが、その後、鶴が棲みついたことから鶴島(釣島)と呼ばれるようになったという。

【参考文献】
「釣島の概要」松山市 1996年7月

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釣島(2)

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島に平坦地は少なく、海岸からすぐ傾斜地となっている。島の最高標高151m。谷や河川などはなく、水源に乏しいが、果樹園としての耕地には恵まれている。

島の主要産業は伊予柑などの柑橘類栽培と漁業。昭和58年(1983)3月には、温泉青果釣島支部柑橘生産部がその業績により愛媛県朝日農業賞を受賞した。漁業の専従者はなく、農閑期にタコツボ漁が主としておこなわれている。

【参考文献】
「釣島の概要」松山市 1996年7月

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釣島(3)

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島には明治6年(1873)に完成した釣島灯台がある。同灯台はイギリス人技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計。瀬戸内海で6番目に早く造られた歴史的価値を有する灯台である。

灯台建設の予備調査で、設計者のブラントンらが島を訪れた際、初めての外国人に島民らは驚き、女性と子供は山に逃げたという。

灯台の建設には島外から300人もの人が来島して従事、3か年を経て完成した。初代灯台長はハレスという外国人であった。昭和38年(1963)3月までは灯台に看守員が常置されていたが、同年4月以降は灯火看視無電設備の設置により無人となった。

【参考文献】
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 1984年3月

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