興居島の船踊り

↓ 神輿の船渡御
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↓ 船踊り
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演目は「忠臣蔵」。船舞台の中央=「中踊り」、右端=「剣櫂(けんがい)」、左端=「梵天」。

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興居島の船踊りはこの島の中央にある船越和気比売神社の秋の祭礼で演じられる芸能(毎年10月第1土曜日13:00頃・同神社前)。愛媛県指定無形民俗文化財。太鼓と拍子木のリズムにあわせて所作をする無言劇風の踊りである。踊りは、船舞台の中央でなされる歌舞伎様式の「中踊り」、右端の「剣櫂」(伊予水軍の斬り込みをあらわす)、左端の「梵天」(伊予水軍の剣法をあらわす)からなり、明治末期頃に現在見られるような形になったという。

【参考文献】
『愛媛県百科大事典』下巻(中小路駿逸執筆「船踊り」の項目)愛媛新聞社 1985年6月
松山市教育委員会『松山の民俗』松山市役所 1998年3月

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テーマ : 日記
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「貧乏神ハ終身好古ノ附属」

好古モ馬ヲ一頭購求シ貧乏ノ上ニ馬ノ飼料トカ別当トカニテ彼レ是閉口セリ 貧乏神ハ終身好古ノ附属故 別ニ心配ヲナサズ 内心ハ苦シキモ人ニ対シテハ大威張リニ暮ラシ居候


秋山好古が留学先のフランスから松山の家族に宛てた手紙の一節。経済的には苦しいが、貧乏神は終生自身の付属と好古らしく達観している。その公式の伝記によると、フランス私費留学中は、陸軍から俸給の半額と旧藩主久松家から年額千円の手当を受けていたが、酒代や交際費がかさむため、いつも月末の一週間ほどは無一物で、わずかにパンのみを食べて下宿に籠っていたという。当時、フランスには同じ松山出身の親友加藤恒忠が外交官として駐在していたが、この気の合う飲み友達がいたということも酒代がかさむ一因であったらしい。加藤恒忠は号・拓川、正岡子規の叔父である。上京を念願していた子規を東京に呼び寄せたのは加藤であった。好古と加藤は松山ではともに藩校明教館の秀才といわれていた。武の秋山、文の加藤と並び称されていたと好古の伝記には記されている。

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【典拠文献・参考文献】
秋山好古大将伝記刊行会(代表者桜井真清)『秋山好古』(復刻版)マツノ書店 2009年4月(原本1936年11月)

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テーマ : 歴史
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「子規居士髪塔」

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「子規居士髪塔」(松山市末広町・正宗寺)
明治35年(1902)10月28日、子規の遺髪を納めた香呂がここに埋められ、三回忌の年の37年にこの髪塔が建てられた。
意匠・文字は子規と親交のあった下村為山による。
正宗寺内の子規堂とともに愛媛県指定の史跡。
この髪塔の左隣には「鳴雪先生髯塔」、手前には「子規居士と鳴雪翁の居たまへる伊予の御寺の秋の夕暮」の与謝野晶子歌碑、裏手には「名月や寺の二階の瓦頭口」の子規句碑および「正岡氏累代墓」(子規の父常尚と常尚の先妻の墓)がある。

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テーマ : 歴史
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「名月や寺の二階の瓦頭口」

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「名月や寺の二階の瓦頭口 規」
子規、明治28年(1895)秋の句。句碑は松山市末広町の正宗寺境内。
「寺の二階」は正宗寺の庫裡(くり)の二階。松風会の句会がそこでたびたび開かれた。「瓦頭口(かとうぐち)」は火灯形(火灯のように山形で裾開きの形)の出入り口=火灯口のことだが、ここでは火灯形の窓=火灯窓のことであろう。正宗寺の庫裡の二階には大小二つの部屋があり、火灯窓がその周囲に設けられていた(柳原極堂『友人子規』)。句碑は子規歿後百年を記念して、平成13年(2001)に松山子規会が建立したもの。句碑の左側には「子規居士髪塔」、右側には「正岡氏累代墓」がある。

【参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月

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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
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子規、ホトトギスの声を聞く

正岡子規が明治22年(1889)、数え年23歳のときに自らの号として選んだ「子規」とは、周知のようにホトトギスのことだが、子規自身はその時点では、ホトトギスの声というものを聞いたことがなかった。それとおぼしき声を聞いたのは27年、確かに聞いたといえるのは29年だったようである。

われ故郷にありし頃時鳥(ホトトギス)の声聞きたる事なし。東京へ来て後も十年絶えてそれとおぼしき声を聞かず、根岸に移りても聞かんとの年少かりしためにや猶(なお)時鳥を知らず。一昨年の頃やゝそれかとばかり聞き初(そ)めたり。おぼつかなければ
  それでなくとそれにして置け時鳥
など口ずさみて自ら笑ひしが今年は如何にしたりけん春の暮より夏にかけて頻りに鳴き立てたり。ある時昼過ぎなりけんキヨキヨといふ声聞えて二の声も三の声も同じ処に近く聞ゆるにさらば障子押し明けて其姿見まほしといらだちたりしかど足立たねばそのまゝやみぬ。(正岡子規『松蘿玉液』明治29年8月1日条)


子規は生きたホトトギスの姿をついに目にしていないが、下記『墨汁一滴』の記述によると、子規の居室には贈り物の剥製のホトトギスが置かれていたようである。

根岸に移りてこのかた、殊に病の牀にうち臥してこのかた、年々春の暮より夏にかけてほとゝぎすといふ者の声しばしば聞きたり。然るに今年はいかにしけん、夏も立ちけるにまだおとづれず。剥製のほとゝぎすに向ひて我思ふところを述ぶ。此剥製の鳥といふは何がしの君が自ら鷹狩に行きて鷹に取らせたるを我ために斯く製して贈られたる者ぞ。(『墨汁一滴』明治34年5月11日条)


この剥製の贈り主「何がしの君」というのは、旧藩主家の当主、久松定謨(さだこと)であろう。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月

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