子規「柿くへば」の句(1)

  法隆寺の茶店に憩ひて
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺


子規、明治28年(1895)秋の句。同年10月下旬、子規は松山から帰京の途次、奈良に立ち寄り、掲句の句想を得た。このときの奈良旅行では、奈良に柿を配合した「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」「渋柿やあら壁つゞく奈良の町」「渋柿や古寺多き奈良の町」などの句想も得ている。「柿くへば」……茶店で柿を食っていると、法隆寺の鐘が鳴るのが聞こえた。これは事実このとおりのことがあったのかもしれないが、子規の随筆「くだもの」には、同年の奈良旅行で、柿を食べながら東大寺の鐘を聞いたということが書かれている。

明治廿八年神戸の病院を出て須磨や故郷とぶらついた末に、東京へ帰らうとして大坂迄来たのは十月の末であったと思ふ。其時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ばうと思ふて、病を推して出掛けて行た。三日程奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。此時は柿が盛になってをる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいへない趣であった。柿などゝいふものは従来詩人にも歌よみにも見離されてをるもので、殊に奈良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかった事である。余は此新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食へまいかといふと、もうありますといふ。余は国を出てから十年程の間御所柿を食った事がないので非常に嬉しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありさうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛て来た。(中略)柿も旨い、場所もいゝ。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜(注-夜のはじめ頃)が鳴るといふて尚柿をむきつゞけてゐる。余には此初夜といふのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。東大寺が此頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですといふ。余が不思議さうにしてゐたので、女は室の外の板間に出て、其処の中障子を明けて見せた。成程東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。(「くだもの」明治34年)


柿を食べていると、聞こえてきた鐘の音。それは東大寺の鐘であったのだが、大仏を連想させる東大寺の俗なイメージを避けるために、子規は寺を法隆寺に置き換えて「柿くへば」の句を作ったのかもしれない。

次回の記事参照→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-718.html

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年6月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月

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子規「柿くへば」の句(2)

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺


正岡子規の余りにも有名な句。この句ははじめ明治28年(1895)11月8日の「海南新聞」(愛媛の地方紙)に掲載されたが、これに先立つ同年9月6日の「海南新聞」には、夏目漱石の

鐘つけば銀杏ちるなり建長寺


という句が子規の選を経て掲載されている。見てわかるように両句の表現法は酷似。子規の「柿くへば~」は漱石の「鐘つけば~」を換骨奪胎したものであるかのようにも見える。だが、それにしても、両句の文学としての価値の違い、子規の句からは鐘の音があざやかに聞こえてくるが、漱石の句はそうした印象をもたらさない。「漱石君、僕の句のほうがいいと思わないか」……子規は「柿くへば」の句で漱石にそう言いたかったのかもしれない。

【参考文献】
坪内稔典『柿喰ふ子規の俳句作法』岩波書店 2005年9月

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秋山好古「簡単明瞭を尚(とうと)ぶ」

『坂の上の雲』「騎兵」の章に次のような記述がある。

好古は、
「男子は生涯一事をなせば足る」
と、平素自分にいいきかせていた。好古の立場でいえば、自分自身を世界一の騎兵将校に仕立てあげることと、日本の騎兵の水準を、生涯かかってせめて世界の第三位ぐらいにこぎつけさせることであった。
この目標のためにかれの生活があるといってよく、自然、その生活は単純明快であった。弟の真之に対しても、
「身辺は単純明快でいい」
とおしえた。


この「身辺は単純明快でいい」というのは、秋山好古の公式の伝記の「簡単明瞭を尚(とうと)ぶ」という記述にもとづくものであろう。

  簡単明瞭を尚ぶ
森岡大将(守成)は、秋山将軍の居常を評して斯う言った。
「秋山将軍は、極度に簡単明瞭を尚ばれた方であった。その軍隊指揮の上に於ても、又その日常生活の上に於ても、凡(す)べてが頗(すこぶ)る簡明であった。その真意のある所は、百事簡単にして且つ精練なるもの能く成功する、といふ戦闘の大原則に出発すべきを示されたものであらう」
実に将軍は、平戦両時を問はず、隊将として陣頭に立って部隊を指揮した時は、部隊の大小、単複の如何に拘らず、常に簡単なる命令調或は号令調を用ひ、決してクドクドしい言葉を使はなかった。そしてそれだけで部隊を意の如くに運用したのであって、それが今日尚(な)ほ騎兵部隊の指揮法の上に、多大の教訓を与へてゐる。
日常生活亦それと同様で、戦時中の簡単主義は本篇の随所に述べた通り、又平時に於ける生活も、実に簡単に徹し、俗界を離れた老僧の如きものがあった。(秋山好古大将伝記刊行会『秋山好古』第十章)


「男子は生涯一事をなせば足る」と自分にいいきかせていたというのは、司馬遼太郎による創作と思われる。簡単明瞭、単純明快であることを信条とした秋山好古。司馬遼太郎はその秋山好古が特に好きであったという。「人間の風韻」というものがあると評価していたらしい(「松山百点」vol.188「追悼司馬遼太郎氏と『坂の上の雲』」記事中の石浜典夫談による)。

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【典拠文献・参考文献】
「松山百点」vol.188(1996年新緑号)
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文春文庫(新装版) 1999年1月
秋山好古大将伝記刊行会(代表者桜井真清)『秋山好古』(復刻版)マツノ書店 2009年4月(原本1936年11月)

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「正岡子規誕生邸址」(松山市花園町)

正岡子規の生家跡(松山市花園町)に建つ記念碑(「正岡子規誕生邸址」碑)。
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子規は慶応3年(1867)9月17日(新暦10月14日)、温泉郡藤原新町(のち松山市新玉町。現在の松山市花園町)の正岡家で生まれた。母八重によると、「赤ン坊の時はそりゃ丸い顔てゝ、丸い顔てゝよっぽど見苦しい顔でございました。鼻が低い低い妙な顔で」あったという。子規2歳の時、正岡家は湊町新町(湊町4丁目)に転居。藤原新町の生家についてはあまり情報がなく、柳原極堂の『友人子規』にも下記のように書かれているのみである。

其生家は松山の何処であったか、今の松山市新玉町一丁目であることは早くより聞いてゐたが、其位置が近ごろまで判然しなかった。
ところが子規の近処で生れた一色則之と云ふ人が現に松山市新玉町に住ってゐて、其人の話で漸く其の位置が判然するに至ったのは欣幸である。
伊予電鉄株式会社の松山市駅前から北へ松山兵営南門前に通ずる道路が花園町で、其大分北へ寄ったところに西へ折れる町が新玉町である。其曲り角から家数の五六軒も西へ歩んだところで、丁字形に北方から小さい道路が突き当たって来てゐる。其処をモウ十歩か十五歩西へ歩いた南側が子規の誕生地であるさうだ。一色氏の語るところによると表はオロ垣(竹の枯枝の方言)を結ひ垣の内には珊瑚樹の木が並んでゐたさうである。
一色氏は又曰ふ、曾祖母に当るお婆さんが「処(トコロ)さん」を抱いてその垣の外に立ってゐるのをよく見うけたものであると。当時子規は処さんと呼ばれてゐたさうだ。


【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』別巻2(回想の子規1)講談社 1975年9月

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「正岡子規邸址」(松山市湊町)

おい車屋、長町(ながまち)の新町(しんちょう)迄行くのだ。ナニ長町の新町といってはもう通じないやうになったのか。それならば港町(湊町)四丁目だ。相変らず狭い町で低い家だナア。


子規、晩年のエッセー「初夢」の一節。夢の中での松山帰郷を語った一節である。松山の「長町新町=湊町四丁目」には子規が数え年二歳から十七歳の上京時まで暮らした生い立ちの家があった。

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子規、生い立ちの家跡に建つ記念碑(「正岡子規邸址」碑・中の川筋緑地帯)。この碑の傍らには「くれなゐの梅散るなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ」の子規歌碑もある。

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柳原極堂『友人子規』はこの生い立ちの家について次のように記述している。

正岡の屋敷は一番地である。其北隣といふのが二番地であり、其西が三番地、四番地、五番地となる。其三番地は池内家で高浜虚子の父兄は当時こゝに住んでゐた。四番地は村上、五番地は歌原、歌原家は子規の再従兄の三並良の生家である。ズット後には正岡の屋敷地の西南隅へ大原家が建築して住はれたことがある。これは中の川の方へ橋を架けて出入口にされた。斯ういふ風に西北の方は大原、歌原、村上、池内などの諸家の裏と境を接し、南は中の川の流にかぎられ、東は道路で表門があったといふのが子規の屋敷の周囲である。坪数は約百八十坪であった。表門を入りて十数歩すれば家の入口に達し、少々土間があって正面が玄関四畳、其のすぐ奥が八畳の客間、床と床脇が東を向いて設けられてある。其客間の北側六畳が居間で、其東側、玄関からは北側に当るところに、板敷で凡そ四畳か四畳半と思はるゝ台所即ち食事場があり、其の東に土間で炊事場が附いてゐた。井は家の東庭で門に近きところ、塀の内がはになってゐる。又玄関からも客間の南縁からも往来の出来るやうに本家から南へ葺きおろした三畳の小部屋がある。これが後年子規堂として正宗寺内に移された子規の書斎である。其書斎からも、客間の南縁からもすぐ目の前に見られて生垣ぎはに老木の桜樹がある。花時には実に見事に咲き盛りて中の川の流れを紅く染めてゐた。


上引に言及があるように、子規生い立ちの家の北隣には、高浜虚子の生家池内家があった。子規、虚子の家が隣接していたことについては、虚子がその自伝の中でふれているので引用しておこう。

私は明治七年に松山の、旧名では長町の新丁といふ所に生れました。今は湊町の四丁目となってゐます。その生れた家は、子規の家と背中合せの家でありました。私は何もさういふ事は知らなかったのであります。私が子規に文通し始めた時分に、兄達は、あの正岡の子供かといふ事をいってをりました。兄も、正岡子規がどういふ人であるといふ事は、詳しく知らなかったらしいが、たゞ正岡の家に男の子があるといふことだけは知ってをりました。それが大きくなって、今大学に入ってゐるのであるといふ事を聞いて、さうであったかといふやうな調子で話をしてをった事を聞いてをりました。後に正岡の妹さんで、昨年亡くなりました律子といふ人が居られましたが、それは七十二で亡くなられました。それが私の小さい時分に私を抱いてをって、小便をかけられた事があるといふやうな話をした事がありました。兎に角もとは背中合せの家に住んでゐたのだが、八年許り離ればなれになってゐたので、お互に大きくなってゐることを知らずにゐたのであります。子規も私の事を詳しく知らなかったやうでした。生れた年に私は松山の城下を離れて、風早の西の下といふ所に移住しましたから、子規の記憶にあるわけはないのでありました。三人の兄達の事はよく知ってをりました。


【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『高浜虚子全集13 自伝・回想集』毎日新聞社 1973年12月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月

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