戦国時代の日本-ザビエルの記述(1)
①私達が今までの接触に依って識ることのできた限りに於ては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者は無いと考えられる。日本人は、総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交って頗る感じがよい。彼等の名誉心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。
②日本人同士の交際を見ていると、頗る沢山の礼式をする。武器を尊重し、武術に信頼している。武士も平民も、皆、小刀と大刀とを帯びている。年齢が十四歳に達すると、大刀と小刀とを帯びることになっている。
③日本人の生活には、節度がある。ただ飲むことに於て、いくらか過ぐる国民である。彼等は米から取った酒を飲む。葡萄は、ここにはないからである。
④賭博は大いなる不名誉と考えているから、一切しない。何故かと言えば、賭博は自分の物でないものを望み、次には盗人になる危険があるからである。
⑤住民の大部分は、読むことも書くこともできる。
⑥日本人は妻を一人しか持っていない。窃盗は極めて稀である。
⑦日本人は自分等が飼う家畜を屠殺することもせず、又、食べもしない。彼等は時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。但し彼等が食べる草(野菜)は豊富にあり、又僅かではあるが、いろいろな果物もある。それでいて、この土地の人々は、不思議な程の達者な身体をもって居り、稀な高齢に達する者も、多数居る。
⑧都は、日本の一番主要な都市で、皇居があり、日本の最も有力な人々も、そこにいた。(中略)この都については、驚くようなことが耳にはいって来る。戸数が九万以上だという。一つの大きな大学があって、その中に五つの学院が附属しているという。
⑨都の大学の外に、尚、有名な大学が五つあって、その中の四つは都からほど近い所にあるという。それは、高野、根来寺、比叡山、近江である。どの学校も、凡そ三千五百人以上の学生を擁しているという。しかし日本に於て、最も有名で、最も大きいのは、坂東であって、都を去ること、最も遠く、学生の数も遥かに多いという。(中略)これらの有名な諸大学の外に、小さな学校は、全国に無数にあるそうである。
⑩この堺の港は、日本中で、最も殷賑を極めて富裕な町であって、全国の金銀の大部分が集まる所です。
①~⑨は1549年11月5日付・ゴアの全会友宛書簡(発信地・鹿児島)、⑩は同年同日付・マラッカのペドロ・ダ・シルバ宛書簡(発信地・同)である。
⑥に窃盗がまれであるという記述。時代ははるか後のことになるが、明治10年代に来日したアメリカの動物学者E・S・モース(1838-1929)も同様のことを述べている(当ブログ2010年6月2日記事参照)。
⑨では高野山、根来寺、比叡山、近江三井寺などの諸大寺が「大学」として捉えられている。ザビエルの後に来日したルイス・フロイス(1532-1597)も比叡山のことを「日本の最高の大学」(『日本史』1556年)と記述。当時、これらの諸大寺は仏教だけでなく、「俗学」と呼ばれる武術・医学・土木・農業などについても学ぶことのできる場であったから(伊藤正敏『日本の中世寺院』)、「大学」というべき性格をまさしく備えたものであった。⑨で最大の大学とされている「坂東」というのは、下野の足利学校のことである。当時の足利学校は多数の蔵書を擁し、「西国・北国よりも学徒悉く集まる」(『鎌倉大草紙』)といわれていた。(次回につづく)
【典拠文献・参考文献】
アルーべ神父・井上郁二訳『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』下巻 岩波文庫 1949年7月
伊藤正敏『中世の寺社勢力と境内都市』吉川弘文館 1999年5月
伊藤正敏『日本の中世寺院 忘れられた自由都市』吉川弘文館 2000年2月
五味文彦『全集 日本の歴史五 躍動する中世』小学館 2008年4月

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