戦国時代の日本-ザビエルの記述(1)

日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル(1506?-1552)は、各地に送った手紙の中で、日本の風習や日本人の特質などに言及しており、戦国の世であった当時のことを知る貴重な史料となっている。以下、公刊されている岩波文庫本『フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』の中から、日本について記述した箇所を少しく抜き出し、若干の検討を加えてみることにしよう。

①私達が今までの接触に依って識ることのできた限りに於ては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者は無いと考えられる。日本人は、総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交って頗る感じがよい。彼等の名誉心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。

②日本人同士の交際を見ていると、頗る沢山の礼式をする。武器を尊重し、武術に信頼している。武士も平民も、皆、小刀と大刀とを帯びている。年齢が十四歳に達すると、大刀と小刀とを帯びることになっている。

③日本人の生活には、節度がある。ただ飲むことに於て、いくらか過ぐる国民である。彼等は米から取った酒を飲む。葡萄は、ここにはないからである。

④賭博は大いなる不名誉と考えているから、一切しない。何故かと言えば、賭博は自分の物でないものを望み、次には盗人になる危険があるからである。

⑤住民の大部分は、読むことも書くこともできる。

⑥日本人は妻を一人しか持っていない。窃盗は極めて稀である。

⑦日本人は自分等が飼う家畜を屠殺することもせず、又、食べもしない。彼等は時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。但し彼等が食べる草(野菜)は豊富にあり、又僅かではあるが、いろいろな果物もある。それでいて、この土地の人々は、不思議な程の達者な身体をもって居り、稀な高齢に達する者も、多数居る。

⑧都は、日本の一番主要な都市で、皇居があり、日本の最も有力な人々も、そこにいた。(中略)この都については、驚くようなことが耳にはいって来る。戸数が九万以上だという。一つの大きな大学があって、その中に五つの学院が附属しているという。

⑨都の大学の外に、尚、有名な大学が五つあって、その中の四つは都からほど近い所にあるという。それは、高野、根来寺、比叡山、近江である。どの学校も、凡そ三千五百人以上の学生を擁しているという。しかし日本に於て、最も有名で、最も大きいのは、坂東であって、都を去ること、最も遠く、学生の数も遥かに多いという。(中略)これらの有名な諸大学の外に、小さな学校は、全国に無数にあるそうである。

⑩この堺の港は、日本中で、最も殷賑を極めて富裕な町であって、全国の金銀の大部分が集まる所です。


①~⑨は1549年11月5日付・ゴアの全会友宛書簡(発信地・鹿児島)、⑩は同年同日付・マラッカのペドロ・ダ・シルバ宛書簡(発信地・同)である。

⑥に窃盗がまれであるという記述。時代ははるか後のことになるが、明治10年代に来日したアメリカの動物学者E・S・モース(1838-1929)も同様のことを述べている(当ブログ2010年6月2日記事参照)。

⑨では高野山、根来寺、比叡山、近江三井寺などの諸大寺が「大学」として捉えられている。ザビエルの後に来日したルイス・フロイス(1532-1597)も比叡山のことを「日本の最高の大学」(『日本史』1556年)と記述。当時、これらの諸大寺は仏教だけでなく、「俗学」と呼ばれる武術・医学・土木・農業などについても学ぶことのできる場であったから(伊藤正敏『日本の中世寺院』)、「大学」というべき性格をまさしく備えたものであった。⑨で最大の大学とされている「坂東」というのは、下野の足利学校のことである。当時の足利学校は多数の蔵書を擁し、「西国・北国よりも学徒悉く集まる」(『鎌倉大草紙』)といわれていた。(次回につづく)

【典拠文献・参考文献】
アルーべ神父・井上郁二訳『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』下巻 岩波文庫 1949年7月
伊藤正敏『中世の寺社勢力と境内都市』吉川弘文館 1999年5月
伊藤正敏『日本の中世寺院 忘れられた自由都市』吉川弘文館 2000年2月
五味文彦『全集 日本の歴史五 躍動する中世』小学館 2008年4月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

戦国時代の日本-ザビエルの記述(2)

(前回のつづき)

⑪彼等は、武器を大切にする。非常に大切にするので、よい武器を持って居ることが、何よりの誇りである。それには銀と金とが極めて綺麗にちりばめてある。大刀と小刀とは、家にあっても、外出していても、彼等の絶えず帯びている所のものであり寝ている時ですら、いつも枕辺に置いている。私はこれほどにまで武器を尊重する国民に、未だ嘗て出会った例がない。日本人は、実に弓術に優れている。国には馬が居るけれども、彼等は大抵徒歩で戦う。

⑫都は曾て大きな都会であったけれども、今日では、打ち続いた戦乱の結果、その大部分が破壊されている。昔はここに十八万戸の家が櫛比していたという。私は都を構成している全体の大きさから見て、如何にもありそうなことだと考えた。今でもなお私には、十万戸以上の家が並んでいるように思われるのに、それでいて、ひどく破壊せられ、且つ灰燼に帰しているのである。

⑬此の土地には、宗教家なる者が、男女ともに沢山いる。男は坊さんといい、いろいろの種類がある。或る者は、鼠色の衣を纏い、或る者は黒の衣を着ている。互いに余り親しくない。黒色は、ねずみ色を見ると、奴等は無知で悪い生活をしている、といって嫌がる。尼さんの中の或る者は、鼠色で、他の者は黒色であり、鼠色の尼さんは、同じ色の坊さんに従い、黒色の尼さんは、黒色の坊さんに服従する。日本に坊さんや尼さんの多いことは、実際に見た者でなければ、信じられない位だ。

⑭互に異る教義を持った宗派が九つある。男も女も、自分等の最も要求する宗派を、その好みに応じて選んでいる。他の宗旨へ走ったからと言って、これに圧迫を加えるような日本人は一人もいない。従って一家族の中、主人は此の宗旨に属し、主婦はあの宗旨を奉じ、子供までがそれぞれにまた他の宗派に帰依しているような家族がある。日本人にとっては、これは極めて当然のことで、各人は、自分の好む宗教団体を選ぶことが、全く自由だからである。

⑮灰色の衣を来た坊さんや尼さんは、阿弥陀を礼拝する。日本人の大部分は、阿弥陀を礼拝している。黒い衣を着た坊さんや尼さんも、阿弥陀を礼拝するが、しかし彼等の多数は、特に釈迦を礼拝し、なお種々様々の神々を礼拝する。

⑯日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼等の悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或は施与、或は祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたずねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。この悲嘆は頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽せにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの処へ堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については、別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、何故いつまでも地獄にいなかればならないのか、というような質問がでるので、私はそれに彼等の満足の行くまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことを已めない。


⑪~⑯いずれも1552年1月29日付・欧州の会友宛書簡(発信地・コチン)である。

⑪に日本に馬はいるが、大抵は徒歩で戦うとの記述。ザビエルの後に来日したルイス・フロイスも「われわれの間では馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならない時には、馬から降りる」と同様の記述をのこしている。日本古来の馬は今日の分類ではポニーとされる程度の大きさしかなく、重装備の武士が騎乗したままで戦うことは困難であったといわれている(当ブログ2009年8月14日記事参照)

⑯キリスト教における地獄の問題。永遠の懲罰の場としての地獄。その余りにも峻厳なイメージは日本人には受けいれがたいものであった。近年刊行された『新カトリック大事典』では、地獄について「愛を永久に拒否する人の、神から離れた不幸な状態」、「神が人間を地獄に投げ込むのではなく、愛を拒否し続ける人が自分にとって「地獄になる」というべきである」などと記述。懲罰の場としてではない形での地獄の定義づけがなされている。

【典拠文献・参考文献】
アルーべ神父・井上郁二訳『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』下巻 岩波文庫 1949年7月
ルイス・フロイス 岡田章雄訳注『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫 1991年6月
「新カトリック大事典」編纂委員会(代表高柳俊一)『新カトリック大事典』第2巻(鐸木道剛執筆「地獄」の項目)研究社 1998年1月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

連歌


湯築城跡(松山市道後公園)の武家屋敷(復元)内に再現されている連歌の催し。上座には指導者の宗匠、手前右には句を書きとめる執筆(しゅひつ)役の武士が坐っている。

連歌は複数の人が会して、五七五の上の句と七七の下の句を交互に詠み続け、百韻(百句)を完成させるというのが一般的な形式。

雪ながら山もと霞むゆふべかな    宗祇
  行く水遠く梅にほふ里        肖柏
河風にひと叢(むら)柳春見えて    宗長
 舟棹(さ)す音も著(しる)き暁けがた 祇
月やなご霧りわたる夜に残るらむ   柏
 霜おく野原秋は暮れけり        長
(以下略)


というように詠み続けていくのが連歌である。俳諧(俳諧連歌)も同様の形式で、

白虎か竹の林のまだら雪  友仙
 霰の玉をなぐる雲龍(うんりゅう) 正章
ちょぼちょぼと穴ある淵の薄氷(うすらひ)に 長頭丸
 蓮の根をとる人の危き 政信
足もとの菱のとがりを踏みたてな 季吟
 月なき頃に寄する城攻め 安静
(以下略)


というように詠み続けていくものであるが、「連歌と俳諧との差異は、俗語および漢語を含むか含まないか、表現が刺激的であるかないかによって区別される」(小西甚一)という。俗語・漢語を排し、刺激的な表現を避けて、「雅」の世界に徹するのが連歌。この枠組みを踏み出して、「俗」の世界もとり入れることができるのが俳諧ということになるであろうか。

【参考文献】
小西甚一『俳句の世界』講談社学術文庫 1995年1月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

草田男忌

8月5日は俳人中村草田男の忌日。
CIMG1995_convert_20110717092818.jpg
「夕櫻城の石崖(いしがけ)裾濃(すそご)なる」
東雲公園(松山市東雲町)にある中村草田男の句碑。草田男の生前に建てられた句碑で、除幕式が昭和58年(1983)8月6日に予定されていたが、草田男はその前日に急逝した。句の「裾濃」の原義は、染色で上の方を薄く、裾の方を濃く染め出すこと。

【参考文献】
松山市教育委員会編『俳句の里 松山』松山市役所 1994年4月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

松山城・黒門跡

DSCF3767_convert_20110710140959.jpg
黒門は三之丸(堀之内)から二之丸、本丸に至る入口に位置する門。門の屋根には「矢切(やぎり)」と呼ばれる「忍びかえし」が設けられ、左右の石垣上には「石落(いしおとし)」や「狭間(さま)」のある渡塀(わたりべい)が続いていたという。この二之丸、本丸への入口部分には、黒門・栂門・槻門の三つの門が100mほどの間に設けられており、寄せ手が侵入してくることを防ぐ万全の構えとなっていた。

【参考文献】
「松山城」編集委員会編『松山城 増補四版』松山市役所 1984年3月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード