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『吾輩は猫である』に見える日露戦争(2)

前回のつづき

⑦先達中(せんだってちゅう)から日本は露西亜と大戦争をして居るさうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓である。出来得べくんば混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻いてやりたいと思ふ位である。(第五回・明治38年7月)

⑧是から作戦計画だ。どこで鼠と戦争するかと云へば無論鼠の出る所でなければならぬ。如何に此方に便宜な地形だからと云って一人で待ち構へて居てはてんで戦争にならん。是に於てか鼠の出口を研究する必要が生ずる。どの方面から来るかなと台所の真中に立って四方を見回はす。何だか東郷大将の様な心持がする。(中略)わが決心と云ひ、わが意気と云ひ、台所の光景と云ひ、四辺の寂寞と云ひ、全体の感じが悉く悲壮である。そうしても猫中の東郷大将としか思はれない。(中略)東郷大将はバルチック艦隊が対馬海峡を通るか、津軽海峡へ出るか、或いは遠く宗谷海峡を回るかに就て大に心配されたさうだが、今吾輩が吾輩自身の境遇から想像して見て、御困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況に於て東郷閣下に似て居るのみならず、此格段なる地位に於ても亦東郷閣下とよく苦心を同じうする者である。(中略)鼠は旅順椀の中で盛に舞踏会を催ふして居る。(中略)残念ではあるがかゝる小人を敵にしては如何なる東郷大将も施こすべき策がない。(同上)

⑨主人は何と思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半紙を持って出てくる。「東風君の御作も拝見したから、今度は僕が短文を読んで諸君の御批評を願はう」と聊か本気の沙汰である。「天然居士の墓碑銘ならもう二三遍拝聴したよ」「まあ、だまって居なさい。東風さん、是は決して得意のものではありませんが、ほんの座興ですから聴いて下さい」「是非伺ひませう」「寒月君も序(ついで)に聞き給へ」「序でゞなくても聴きますよ。長い物ぢゃないでせう」「僅々六十余字さ」と苦沙弥先生愈手製の名文を読み始める。
「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした」
「起し得て突兀ですね」と寒月君がほめる。
「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする」
「成程こりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有(も)って居る。肴屋の銀さんも大和魂を有って居る。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有って居る」
「先生そこへ寒月も有って居るとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云ふ声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君は中々文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る」
「先生大分面白う御座いますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」(第六回・明治38年10月)


ロシアのバルチック艦隊が対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡のどこを回航して来るのか、決戦をひかえて、日本ではそれが大問題となっていた。⑧はそのことの反映である(もっとも⑧の第五回掲載時点では同艦隊との決戦=日本海海戦は終結している)。連合艦隊司令長官・東郷平八郎はバルチック艦隊が対馬海峡を通って来るということを確信していたといわれ、司馬遼太郎も『坂の上の雲』ではそのように描いているが(文春文庫新装版7巻322頁)、事実は異なり、東郷はぎりぎりまでバルチック艦隊が津軽海峡に向かうと考えていたらしい。⑧に「旅順椀」とあるのは旅順湾のもじりである。⑨の「大和魂」云々は当時の社会風潮を痛烈に批判したものであろう。

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【典拠文献】
『漱石全集』第1巻 岩波書店 1993年12月
司馬遼太郎『坂の上の雲(七)』文春文庫(新装版) 1999年2月
中村政則『「坂の上の雲」と司馬史観』岩波書店 2009年11月

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『吾輩は猫である』に見える日露戦争(3)

前回のつづき

⑩此脂(やに)たる頗(すこぶ)る執着心の強い者で、もし一たび、毛の先へくっ付け様ものなら、雷が鳴ってもバルチック艦隊が全滅しても決して離れない。(第七回・明治39年1月)

⑪旅順の戦争にも海軍から間接射撃を行って偉大な功を奏したと云ふ話であれば、空地へころがり落つるボールと雖ども相当の功果を収め得ぬ事はない。(第八回・明治39年1月)

⑫普通の人は戦争とさへ云へば沙河とか奉天とか又旅順とか其外に戦争はないものゝ如くに考へて居る。(中略)然し太平の今日、大日本国帝都の中心に於て斯の如き野蛮的行動はあり得べからざる奇蹟に属して居る。如何に騒動が持ち上っても交番の焼打以上に出る気遣はない。(同上)

⑬第一信は活版ずりで何だかいかめしい文字が並べてある。読んで見ると
拝啓愈(いよいよ)御多祥(ごたしょう)奉賀(がしたてまつり)候回顧すれば日露の戦役は連戦連勝の勢に乗じて平和克復を告げ吾忠勇義烈なる将士は今や過半万歳声裡に凱歌を奏し国民の歓喜何ものか之(これ)に若(し)かん曩(さき)に宣戦の大詔煥発せらるゝや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の異境に在りて克(よ)く寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従事し命を国家に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべからざる所なり而して軍隊の凱旋は本月を以て殆んど終了を告げんとす依って本会は来る二十五日を期し本区内一千有余の出征将校下士卒に対し本区民一般を代表し以て一大凱旋祝賀会を開催し兼て軍人遺族を慰藉せんが為め熱誠之を迎え聊(いささか)感謝の微衷を表し度(たく)就ては各位の御協賛を仰ぎ此盛典を挙行するの幸を得ば本会の面目不過之(これにすぎず)と存候間何卒御賛成奮って義捐(ぎえん)あらんことを只管(ひたすら)希望の至に堪えず候 敬具
とあって差し出し人は華族様である。主人は黙読一過の後直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をして居る。義捐などは恐らくしさうにない。(第九回・明治39年3月)


⑫の「交番の焼打」云々は明治38年9月の日比谷焼打ち事件(ロシアとの講和反対・戦争継続を叫ぶ民衆が政府高官邸・警察署・交番などを襲撃・放火した事件)を皮肉ったものであろう。⑬は苦沙弥先生のもとに某華族から凱旋祝賀会の義捐金依頼の手紙が来たことを記したもの。「義捐」は近年では「義援」と書かれることが多いが、元来は⑬にあるように「義捐」と書かれていた。

日露戦争の勝利は一等国になったとの認識を国民の間に生じさせたが、漱石はそうした思いを共有しなかったようである。『猫』の三年後に書かれた『三四郎』の一節、

三四郎は別段の答も出ないので只はあと受けて笑って居た。すると髯の男は、
「御互(おたがひ)は憐れだなあ」と云ひ出した。「こんな顔をして、こんなに弱ってゐては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。(中略)あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢゃない」と云って又にやにや笑ってゐる。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢ふとは思ひも寄らなかった。どうも日本人ぢゃない様な気がする。
「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡(ほろ)びるね」と云った。―熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる。(夏目漱石『三四郎』第一回)


「髯の男」=広田先生の発言を通して語られた漱石自身の思い。「亡びるね」というその言葉は、昭和の時代の無謀な戦争の結末を予見していたかのごとくである。

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【典拠文献】
『漱石全集』第1巻 岩波書店 1993年12月
『漱石全集』第5巻 岩波書店 1994年4月

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「妖怪」と「幽霊」

妖怪(おばけ・化け物)と幽霊の違い。柳田国男(民俗学者)はその著『妖怪談義』の中で両者の間に次のような違いがあると述べている。

誰にも気のつく様なかなり明瞭な差別が、オバケと幽霊との間には有ったのである。第一に前者は、出現する場処が大抵は定まって居た。避けてそのあたりを通らぬことにすれば一生出くはさずに済ますことも出来たのである。これに反して幽霊の方は、足が無いといふ説があるに拘はらず、てくてくと向ふから遣って来た。彼に狙はれたら、百里も遠くへ逃げて居ても追掛けられる。そんな事は先づ化け物には絶対に無いと言ってよろしい。第二には化け物は相手を択ばず、寧ろ平々凡々の多数に向って、交渉を開かうとして居たかに見えるに反して、一方はたゞこれぞと思ふ者だけに思ひ知らせようとする。(中略)最後にもう一つ、これも肝要な区別は時刻であるが、幽霊は丑みつの鐘が陰にこもって響く頃などに、そろそろ戸を敲いたり屏風を掻きのけたりするといふに反して、一方は他にも色々の折りがある。器量のある化け物なら、白昼でも四辺を暗くして出て来るが、先づ都合のよささうなのは宵と暁の薄明りであった。


柳田国男は『一目小僧その他』の中では、神の零落したものが妖怪であるとも述べている。

何れの民族を問はず、古い信仰が新しい信仰に圧迫せられて敗退する節には、其神は皆零落して妖怪となるものである。妖怪は言はゞ公認せられざる神である。


柳田国男の上引のような見方をまとめると次のようになる。

①妖怪は出現する場所が決まっているが、幽霊はどこにでも現れる。
②妖怪は誰にでも現れるが、幽霊は決まった相手のもとに現れる。
③妖怪の現れる時刻は宵と暁が主だが、幽霊は丑三つ時といわれる夜中に現れる。
④妖怪は神の零落したものだが、幽霊は人間の死霊である。

古くからの妖怪譚、幽霊譚にはこれに当てはまらないケースもあるだろうが、おおよそのところはこの4点が妖怪と幽霊の顕著な違いといえそうである。

【参考文献】
『柳田国男全集』第7巻 筑摩書房 1998年11月
『柳田国男全集』第20巻 筑摩書房 1999年5月

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三津厳島神社「戦利兵器奉納の碑」

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三津厳島神社の境内にある戦利兵器奉納の碑。日露戦争の戦利兵器が同神社に下付されたことを記念して建てられた碑である。碑文は下記のとおり。

戦利兵器奉納ノ記
是レ明治三十七八年役戦利品ノ一ニシ
テ我カ勇武ナル軍人ノ熱血ヲ濺キ
大捷ヲ得タル記念物ナリ 茲ニ謹テ
之ヲ献シ以テ報賽ノ微衷ヲ表シ

皇運ノ隆昌ト国勢ノ発揚トヲ
祈ル
明治四十年三月
  陸軍大臣寺内正毅(花押)


「尚」の字の後で改行し「皇運…」が行頭となっているのは、平出の書式。特定の語(ここでは「皇」の字)に対する敬意をあらわすものである。

当時おこなわれた戦利品の配布については、原田敬一『日清・日露戦争』に次のような記述がある。

日清戦争以後戦利品を国内各地に配り、戦争を記憶し、国家と軍隊への敬意を養成する装置として機能させることが始まり、日露戦争でも続けられた。宮中にも、振天府・慶安府という戦利品記念館が建設され、天皇に拝謁した軍人らの見学が続いた。民間への戦利品配布は、学校や神社、寺院、役所に積極的に行われた。


当時の政府が積極的に戦利品の配布をおこなったというのは事実であろうが、民間の側からも積極的に戦利品の下付を願い出たという側面があったことも見逃せない。アジア歴史資料センターでは、「明治三十七八年役戦利品御下附願」といった名称の申請書が数多く公開されているが、それらは民間の側の下付要請がいかに盛んであったかを示すものである。「戦利品下附願」の一例を挙げておこう。

明治三十七八年役戦利品御下附願
  愛知県額田郡岡崎町大字明大寺
         村社 六所神社
御下附申請種目
一、砲弾 貳箇
右六所神社ハ人皇三十八代斉明天皇勅願ニ依テ奥州塩竃六所大明神勧請ノ神社ナリ(中略)幸ニ目出度戦勝ノ凱歌ヲ奏セラル国運ニ遭遇スル今日之レガ紀念ノ為メ右神社境内ニ紀念碑ヲ設立シ其傍ラ前顕戦利品ヲ装飾安置致シテ永ク国家尚武ノ気象精神ヲ養成奮起シ 一ハ以テ教育思想ノ発展奨励仕度 已ニ保存方法ヲ相講ジ基金ヲ蓄積仕候間 何卒特別御詮議ヲ以テ御下附相成度連署ヲ以テ此段奉願上候也
御下附品ニ対スル費用ハ一切負担仕候
明治四十一年一月二十九日 
            アジア歴史資料センターRef.C04014335800(第41画像~)


この「下附願」は六所神社の神職と氏子総代三名の連署で、陸軍大臣寺内正毅に提出された。「御下附品」にかかわる費用はすべて当方で負担すると述べているから、非常に積極的な下付申請であったことがわかる。三津厳島神社の場合もこうした手続きを経て戦利兵器下付の運びとなったものと推察される。

【参考文献】
原田敬一『日清・日露戦争』岩波新書 2007年2月

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テーマ : 歴史
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伊予源之丞

三津恵美須神社・夏祭り(7月10日)での「伊予源之丞」の公演。
演目は「傾城阿波鳴門」と「戎舞」。
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↑娘巡礼で有名な「傾城阿波鳴門」

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↑豊漁祈願の「戎舞」

明治初年、三津新町で荒物商を営んでいた宝来屋(烏谷)新造が「宝来座」という一座を組織して、三穂神社(現在の恵美須神社)で人形芝居を始めたのが「伊予源之丞」の起源である。最盛期には、県内はもとより、九州、朝鮮半島、中国大陸まで巡業の足をのばしていた。

「伊予源之丞」は県指定の無形民俗文化財。保存会所有の人形頭、衣装道具一式は県指定有形民俗文化財。人形頭は明治末期の逸品ぞろいであるという。

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