漱石、子規を援助する

正岡子規が夏目漱石の松山二番町の下宿、愚陀仏庵(上野義方邸の離れ)に身を寄せていたころ(明治28年8月27日から50日余り)、同庵で次のようなことを目にしたと柳原極堂が述べている。

或日の午後、余は子規をたづねて二人で話してゐるところへ漱石が学校から帰って来て、ポケットから何か掴み出して其処にあった火鉢の下へそれを敷き込むやうにして二階へ上った。其品の何であるかは其の端を幾分外へ現はしてゐる十円紙幣によって、ハハア金を置いて行ったのだな、とすぐ覚り得たのであった。其日が月給日か何かで漱石は金を貢いだのであらう。(柳原極堂『友人子規』)


十円紙幣を子規のもとにそっと置く漱石。松山中学で八十円という破格の月給で遇されていた漱石(校長住田昇は六十円)は、子規に金銭の援助をしたのであった。子規は当時、日本新聞社員で月給三十円、病気療養のために松山に帰省し、漱石の下宿に住まわせてもらっていた。金銭的に余裕のある漱石は子規を助け、子規も漱石の好意には大いに甘えた。東京に帰る段になって、子規はつけの支払いを漱石に依頼、おまけに借金の申し込みまでしている。その当時のことを漱石は次のように振り返っている。

大将は昼になると蒲焼を取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。それから東京へ帰る時分に、君払って呉れ玉えといって澄まして帰って行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せという。何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄って其処から手紙をよこして、恩借の金子は当地に於て正に遣い果し候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。併し其前(注-東京での学生時代)は始終僕の方が御馳走になったものだ。(夏目漱石「談話」ホトトギス11巻12号)


子規は漱石から借りた金を使って、奈良地方に寄り道をしながら帰京。よく知られていることだが、このときの奈良旅行では、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句想を得ている。漱石からの借金でなされた奈良旅行、漱石の援助がなければこの名句も生まれることがなかったかもしれない。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『漱石全集』第22巻 岩波書店 1996年3月

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漱石、虚子を援助する

昨日のブログ記事では、漱石が子規に金銭の援助していた(愚陀仏庵同居当時)ことについて述べた。この件については、高浜虚子の『漱石氏と私』の中にも下記のようなかたちで言及がある。

漱石氏がよくまた話して居ったことにこういう話がある。
「子規という奴は乱暴な奴だ。僕ところに居る間毎日何を食うかというと鰻を食おうという。それで殆ど毎日のように鰻を食ったのであるが、帰る時になって、万事頼むよ、とか何とか言った切りで発ってしまった。その鰻代も僕に払わせて知らん顔をしていた。」こういう話であった。極堂君の話に、漱石氏は月給を貰って来た日など、小遣をやろうかと言って居士(注-子規)の布団の下に若干の紙幣を敷き込んだことなどもあったそうだ。もっとも東京の新聞社で僅かに三、四十円の給料を貰っていた居士に比べたら、田舎の中学校に居て百円近い給料を貰っていた漱石氏はよほど懐ろ都合の潤沢なものであったろう。(高浜虚子『漱石氏と私』)


虚子は子規・漱石の月給についておおまかに書いているが、子規の月給は『仰臥漫録』に、「明治二十五年十二月入社月給十五円。二十六年一月ヨリ二十円 二十七年初新聞小日本ヲ起シコレニ関スルコトトナリ此ヨリ三十円 同年七月小日本廃刊「日本」ノ方ヘ帰ル 同様三十一年初四十円ニ増ス 此時ハ物価騰貴ノタメ社員総テ増シタル也」とある通り。上引の虚子の言及内容の時点での子規の月給は三十円である。漱石の月給は松山中学在職時代八十円、熊本の第五高等学校に赴任してからは百円であった。

子規を援助していた漱石は、虚子に対しても金銭の援助をしている。以下は虚子によるそのうちあけ話。

それから熊本の高等学校に赴任する時分に、漱石がすゝめるまゝに厳島まで一緒の船に乗って行ったことがありました。その時分に漱石は私に、自分は少し月給を沢山貰ふやうになったから、若干の金を君にやるから少し勉強をしろといふやうな事をいった事がありました。その時分の私は、乏しい学資でやうやく下宿料が払へるくらゐのものでありまして、余分の書物を買ふといふやうな金はなかったのでありましたから、喜んで好意を受けて、月々五円であったか十円であったかの金を送って貰ふことになったのでありました。さういふ点でも、漱石に負ふところは多いのでありました。その時も宮島の紅葉をみて、お互ひに俳句を作ったりして袂を分ったのでありました。それから後になっては、続けて一年ばかり金を送ってくれてをったやうに思ひますが、漱石が細君を貰ふやうになったのを境にしてか、それを辞退しました。(高浜虚子『俳句の五十年』)


「月給が増えたから金をやるので少し勉強しろ」-子規を介しての知り合いに過ぎない虚子に対してもこの厚情。人に対する思いやり、私心の無さ、それは漱石という人の人柄であったのだろうか、それとも時代がそういう時代であったのだろうか。


【典拠文献・参考文献】
『定本 高浜虚子全集』毎日新聞社 1973年12月
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

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「漱石拙を守るべく」

木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙(せつ)を守るべく


夏目漱石、明治30年(1897)の句。木瓜は中国原産のバラ科の落葉低木、四月ごろ葉に先だって開花する。「拙を守る」という語は、陶淵明(365-427)の五言詩「帰園田居(園田の居に帰る)」に「守拙帰園田(拙を守って園田に帰る)」と出る。「愚直な生き方、不器用な生き方を守りとおそうと故郷の田園に帰って来た」が「守拙帰園田」の意。「木瓜咲くや」の句については、小説『草枕』にそれを解説するような文章がある。

木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直(まっすぐ)かと云ふと、決して真直でもない。只真直な短い枝に、ある角度で衝突して、斜に構へつゝ全体が出来上って居る。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さへちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであらう。世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると屹度木瓜になる。余も木瓜になりたい。(夏目漱石『草枕』十二)


漱石は「拙を守る」という言葉を好んで使った。松山在住時代に作った漢詩(「無題」)にもこの語が出る。

辜負東風出故関 東風に辜負して故関を出(い)づ
鳥啼花謝幾時還 鳥啼き花謝して幾時か還る
離愁似夢迢迢淡 離愁 夢に似て迢迢として淡く
幽思与雲澹澹間 幽思 雲と与(とも)に澹澹と間(のど)かなり
才子群中只守拙 才子の群れの中にただ拙を守り
小人囲裏独持頑 小人(しょうじん)の囲みの裏(うち)に独り頑を持(じ)す
寸心空託一杯酒 寸心 空しく託す一杯の酒
剣気如霜照酔顔 剣気 霜の如く酔顔を照らす


才子の群れの中でただ拙を守り、小人の集まりの中でひとり頑を持す。拙を守り頑を持するのは、器用に世に処して行く才子や、高い志を持たない小人とは違う生き方をすることであった。漱石と親交のあった高浜虚子は次のようなことを述べている。

漱石が松山に居る時分に、私に話した事がありました。自分の目的は、完全な人間になるのにある、といふ事を申しました。完全な人間といふのは、どういふ事かと反問しましたら、漱石は、道徳的に完全な人間になる事をいふのである、と申しました。どういふ意味だかといふ事が私にはまだ詳しく合点がいかなかったのでありますが、とにかく漱石といふ人は紳士でありまして、世のいわゆる道学先生といったやうなものとは質を異にしてをりましたが、曲った事、曖昧な事、うそが嫌ひで、心の底から透明なやうな感じのする人でありました。後年の作品などと照し合してみまして、さういふ事をいった事が頷かれる節もあるのであります。(高浜虚子『俳句の五十年』)


漱石には「自分の目的」としていたことがあったという。漱石の「拙を守る」はこの「自分の目的」と深く結びついたものであったように思われる。

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【典拠文献・参考文献】
『定本 高浜虚子全集』第13巻(自伝回想集)毎日新聞社 1973年12月
坪内稔典編『漱石俳句集』岩波文庫 1990年4月
『漱石全集』第3巻 岩波書店 1994年2月
吉川幸次郎『漱石詩注』岩波文庫 2002年9月
釜谷武志『陶淵明』角川ソフィア文庫 2004年12月

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明治17年8月の高潮被害

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三津厳島神社参道脇の地蔵尊の裏にある「豫州溺死者招魂碑」-明治17年(1884)8月25日の高潮で犠牲となった人々を悼んで建てられたものである。同日の高潮は県内の海沿いの地域に多大の被害をもたらした。『愛媛県史』はこのときの被害について次のように記している。

温泉郡山西村字大可賀新田では、午後十一時ごろ、高潮のため北西の堤塘が一時に決壊、一帯は潮が充満し、戸数約七十戸のうち溺死者五十三人、家屋の流失四十九戸、田畑流失約五十三haの被害を一瞬のうちにこうむり、集落壊滅の大惨状となった。このほか、各地の海岸部は軒並み浸潮されたようで、三津浜港の堤防崩壊、伊予郡内では浜村字新田で四十haが荒廃、尾崎村で家屋流失約二十戸、串村・大久保村で家屋流失・破壊七十戸、西垣生村今出で死者九名。西宇和郡内では死者三十一人、家屋の倒・破壊数十戸、田畑流出百三十九ha。東宇和郡田之浜浦で溺死者五人、同高山浦で家屋流出七十八戸などの惨状を呈した。


県内では大可賀一帯の被害が最も甚大であったようである。このときの高潮については、三津の古老たちによる次のような証言がある。「国鉄三津駅の手前まで帆かけ船が流れて来た。その後死人を魚市から大可賀附近にかけてならべていた」、「船ケ谷まで水が行った。久万の台まで人々は逃げた。大可賀の所の家が流れた。魚市から大可賀にかけて死人がならべてあった」。いずれも1958年発行の『古老にきく-三津浜思い出話-』に記載されている証言。1960年発行の『三津浜誌稿』にも、「当時海水は古三津の山根あたり、松ノ木、船ケ谷にも及び、小舟が流れ着いたとも云われている」との記述が見出される。

[高潮は、台風や発達した低気圧の接近により、海面が異常に高くなる現象。]

【参考文献】
三津浜中学校社会科クラブ編『古老にきく-三津浜思い出話-』1958年3月
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 社会経済六 社会』1987年3月

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南海地震の古記録

『日本書紀』巻第二十九、天武天皇十三年(684)十月十四日条に南海地震についての記録がある。

壬辰(みづのえたつのひ)に、人定(ゐのとき)に逮(いた)りて、大きに地震(なゐふ)る。国挙(こぞ)りて男女叫び唱(よば)ひて、不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊(やぶ)れし類、勝(あ)げて数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多(さは)に死傷(そこな)はる。時に伊予湯泉、没(うも)れて出(い)でず。土佐国の田苑五十万頃(いそよろづしろあまり)、没れて海と為(な)る。(中略)庚戌(かのえいぬのひ)に、土佐国司言(まう)さく、大潮高く騰(あが)りて、海水飄蕩(ただよ)ふ。是に由りて、調(みつき)運ぶ船、多に放れ失せぬとまうす。


地震発生は同日の人定(ゐのとき)=午後10時頃。建物の損壊は数知れず、多数の死傷者がでた。道後温泉の湧出も止まり、土佐国では田畠五十万頃(しろ)=1200ヘクタールが海中に沈んだ。大津波も襲来して、貢納物を運ぶ船が多数流失したという。周期的に起こる南海地震、上引は記録にのこるその最古の例である。

『日本三代実録』巻五十、仁和三年(887)七月三十日条には次のような記録がある。

三十日辛丑。申時、地大いに震動す。数剋を経歴して震うことなお止まず。(中略)圧殺の者衆(おお)し。或いは失神頓死する者有り。亥時また震うこと三度。五畿内七道諸国、同日大いに震う。官舎多く損す。海潮陸に漲り、溺死する者、勝(あ)げて計(かぞ)うべからず。その中、摂津国尤も甚だし。


同日の地震も南海地震であったようである。同年八月十八日、朝廷は紫宸殿と大極殿で「大般若経」を転読させ、攘災を祈った。この時代の為政者にできるのは祈ることぐらいでしかなかった。

安政元年(1854)十一月五日、のちに「安政南海地震」と呼ばれる大地震が発生した。松山久米の日尾八幡神社神官三輪田米山(1821-1908)は、翌日の日記にこの地震の模様を次のように記している。

十一月六日 朝一天無雲、日光明 昼夜地震、郡中など大破損、人死など夥(おびただし)、又今津など大地さけ、尾たれの有家すくなきなど、城下も人家破損多、道後の湯などとまるはなしなど種々有之(これあり)、又城下にも人死なども有之話も有之。


十一月七日条には「昼一度大地震、夜両度甚、其外昼夜小震数度」、八日条には「小震数度」とあるなど、同日記には余震の記録がつづいている。湧出の止まっていた道後温泉については、安政二年二月廿日条に「道後湯出始める」、四月六日条に「道後之湯、去十一月五日大地震ニて湯とゞまり候処、二月廿日より出初め、漸々相まし、当日遂ニ入初と相成」の記述が見出される。

【典拠文献・参考文献】
松山市史料集編集委員会編『松山市史料集』第8巻(近世編7) 1984年4月
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本書紀(五)』岩波文庫 1995年3月
黒板勝美編『新訂増補 国史大系 第四巻 日本三代実録』(新装版) 吉川弘文館 2000年12月
伊藤和明『地震と噴火の日本史』岩波新書 2002年8月
川尻秋生『日本の歴史 第四巻 揺れ動く貴族社会』小学館 2008年3月

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