子規と菓子パン

パン売の太鼓も鳴らず日の永き


子規、明治34年(1901)春の句。前書には「筋の痛を怺えて臥し居れば昼静かなる根岸の日の永き」とある。当時は「パン売」なる行商が太鼓を叩きながら、パンを売って歩いていたことが句から窺える。根岸を行商するパン売りから買っていたのであろうか、晩年の子規はよく菓子パンを食べていた。『仰臥漫録』(子規最晩年の身辺日録)の食事記録からひろいあげてみると、「二時過牛乳一合コヽア交テ煎餅菓子パン十個許(ばかり)」(明治34年9月2日)、「朝 雑炊三椀 佃煮 梅干 牛乳一合コヽア入 菓子パン二個」(同4日)、「間食 梨一ツ 紅茶一杯 菓子パン数個」(同5日)、「間食 菓子パン十個許 塩センベイ三枚 茶一杯」(同7日)、「間食 牛乳五勺ココア入 菓子パン数個」(同8日)等とあって、連日のようにかなりの量の菓子パンを食べている。9月8日の記事では、彩色で四個のパンが描かれており、「黒キハ紫蘇」「乾イテモロシ」「アン入」「柔カ也」と解説、「菓子パン数個トアルトキハ多ク此数種ノパンヲ一ツ宛クフ也」と書き添えられている。同12日の朝には「ネジパン形菓子パン一ツ(一ツ一銭)」というよくわからない名の菓子パンを食べている。18日にもこの名のパンを食べているが、どうもうまくなかったようで、「ネジパン形菓子パン半分程食フ 堅クテウマカラズ 因(よっ)テヤケ糞ニナッテ羊羹菓子パン塩煎餅ナドクヒ渋茶ヲ呑ム アト苦シ」と記している。うまくなかったので、やけくそになってあれこれ食べる。あとで苦しくなることは、子規自身よくわかっているはずなのにそれでも食べる。食に対する子規の執着はかくも凄まじい。


[松山には、いろは屋謹製「子規の愛した菓子パン」というのがある。天野祐吉ブログ(http://amano.blog.so-net.ne.jp/2009-11-16)にこのパンについての言及がある。]

【典拠文献】
『子規全集』第3巻(俳句3)講談社 1977年11月
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月

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子規、ひな祭りの思い出

子規3歳のとき、湊町4丁目の自宅が失火のために全焼したが、ひな祭りの人形は焼け残ったという。子どものころの子規はひな祭りが好きだった。ひな祭りと七夕は「一年のうちにてもっとも楽しく嬉しき遊び」(正岡子規「吾幼時の美感」)であったと言っている。正岡家のひな祭りは、「内裏雛一対、紙雛一対、見にくゝ大きなる婢子様(ほうこさま)一つを赤き毛氈の上に飾りて三日を祝ふ」(同)程度だったから、至って質素なものであったが、幼年の子規にとっては心躍るものであったのだろう。「昔より女らしき遊びを好みたるなり」(同)とは幼時をふりかえっての子規の述懐である。

松山地方のひな祭りはひと月遅れの4月3日におこなわれる。翌4日は重詰弁当を持って郊外に赴き、一日飲食して楽しむのが当地方の昔からの慣習であった(この行楽は「おなぐさみ」と呼ばれていた)。

雛あらば娘あらばと思ひけり  子規(明治30年)



【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第3巻(俳句3)講談社 1977年11月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月

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「三月節供」

『愛媛県史 民俗下』は本県の「三月節供(節句)」について、次のように記述している。

三月三日、四日はヒナゼックという。桃の花の季節なので桃の節供といったりするがヒナマツリともいう。(中略)四日をヒナアラシと称し、雛に供えた供物やご馳走の重詰弁当を持って山野や海浜に出向き、一日飲食して楽しむ風がある。これをハナミとかナグサミという。「山遊び」「磯遊び」ともいう。(中略)四日をとくにナグサミとかオナグサミという所がある。松山地方や周桑郡などである。また花見という所もある。この日は別に花があってもなくても花見というのである。ナグサミは「慰む」が体言化した語である。
本県の三月節供には雛節供というかつて形代に穢れを移して流した祓いの行事と、山遊びや磯遊びという野外飲食の習俗が習合している点が注目されるのである。昔から「ノラ(怠け者)の節供働き」といわれているように、この日は家にいて仕事をしてはならぬ日、つまり、神祭りの日であったのである。春の農事開始を控えての祭りであったと考えられるが、その古俗を本県の三月節供の民俗は暗示している。


愛媛の三月節供には山磯遊びの習俗がともなうという。五来重(民俗学)『宗教歳時記』によると、徳島の日和佐、対馬・五島地域、九州の西海岸、周防大島、長野の下伊那、岩手の上閉伊などでも、三月節供に山遊び、磯遊びの風があるらしい。子規が『墨汁一滴』などでふれている「おなぐさみ」[注]というのは、もともとこの三月節供にともなう山磯遊びのことであったようである。

[注]-子規は『墨汁一滴』(明治三十四年四月十日条)、『寒山落木』巻五などで、松山地方の「おなぐさみ」について言及している。

余の郷里にては時候が暖かになると「おなぐさみ」といふ事をする。これは郊外に出て遊ぶ事で一家一族近所合壁などの心安き者が互にさそひ合せて少きは三四人多きは二三十人もつれ立ちて行くのである。(以下略) 『墨汁一滴』明治三十四年四月十日条

郷里の風俗におなぐさみといふことあり。春暖のころにもなればささえ重箱など携へて親族友だちさそひ合せ石手川の堤吉敷の土手其他思ひ思ひの処に遊び(以下略) 『寒山落木』巻五・明治二十九年「なぐさみや花はなけれど松葉関」の句の前書



【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年6月
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
五来重『宗教歳時記』角川選書 1982年4月
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 民俗下』 1984年3月

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「おなぐさみ」

昨日のブログ記事でふれたように、「おなぐさみ」はもともと「三月節供」にともなう山磯遊びのことであった。松山地方の人々にとってこのうえない楽しみだった「おなぐさみ」。正岡子規、水野広徳はこの「おなぐさみ」の思い出をそれぞれ次のように述べている。

郷里の風俗におなぐさみといふことあり。春暖のころにもなればささえ重箱など携へて親族友だちさそひ合せ石手川の堤吉敷の土手其他思ひ思ひの処に遊び女子供は鬼事摘草に興を尽し老いたるは酒のみながら鬼事にかけまはる女子供をみてうちゑむめり。
  なぐさみや花はなけれど松葉関  正岡子規『寒山落木』巻五(明治二十九年)

余の郷里にては時候が暖かになると「おなぐさみ」といふ事をする。これは郊外に出て遊ぶ事で一家一族近所合壁などの心安き者が互にさそひ合せて少きは三四人多きは二三十人もつれ立ちて行くのである。それには先づ各自各家に弁当か又は其他の食物を用意し午刻頃より定めの場所に行きて陣取る。其場所は多く川辺の芝生にする。(中略)こゝを本陣として置いて食時ならば皆こゝに集って食ふ、それには皆弁当を開いてどれでも食ふので固より彼我の別はない。(中略)食事がすめばサア鬼ごとゝいふので子供などは頬ぺたの飯粒も取りあへず一度に立って行く。女子供は普通に鬼事か摘草かをする。それで夕刻迄遊んで帰るのである。余の親類がこぞって行く時はいつでも三十人以上で、子供が其半を占めて居るからにぎやかな事は非常だ。(中略)半日運動して、しかも清らかな空気を吸ふのであるから、年中家に籠って居る女にはどれだけ愉快であるか分らぬ。(中略)歌舞伎座などへ往て悪い空気を吸ふて喜んで居る都の人は夢にも知らぬ事であらう。 正岡子規『墨汁一滴』明治三十四年四月十日条

その頃の松山では「おなぐさみ」ということがよく行われた。西洋のピクニックの様なもので、一家揃って郊外に行って食事をするのである。松山にはまだ公園というものがなかったので、「おなぐさみ」は大概石手川の堤防や川原へ行くのであった。笹井でもお婆さんの達者であった頃には、春や秋のよい季節になると、筍が出たと言っては、蚕豆が出たと言っては、松茸が出たと言っては、伯母の得意の松山ずしなどを作って、随分よく川原へ出掛けたものである。(中略)「おなぐさみ」の場所は大概木小屋口の付近で、天保山か又は橋下の川原であった。(中略)まず適当の場所に席を定め、川原の石で応急の竈を造り、川水を汲んで沸かし、重箱を開くのである。時にはその場で湯豆腐などの簡単な料理を作ることもあった。
いつ行っても四組や五組の「おなぐさみ」連中を見ないことがなく、少し遅く行くとよい場所は先客に占められて了うのが常であった。天保山の対岸の芝原が閑静で最も良い席とされて居たのである。
三月三日の節句は子供の「おなぐさみ」であった。十歳ぐらいまでの子供は、男女を問わず、お節句の御馳走を小さい重箱に詰めて貰い、互いに友達の家に往来して御馳走を交換しながら「おなぐさみ」をするのであった。そして翌四日は大人の「おなぐさみ」日で、川原も、土手も、満員の大賑い。歌う者、踊る者、三味線をひく者。太鼓を叩く者、恰も東京の花見風景であった。(中略)「おなぐさみ」で最も面白かったことは、御馳走を食べることよりも川原での砂遊びや川で泳ぐことであった。四、五月頃から寒さにふるえながら泳いだのである。「今日はおなぐさみに行くのじゃ」と聞いた時の嬉しさは何に譬えるものもなかった。 水野広徳「自伝」


上引に出る「なぐさみや花はなけれど松葉関」の句の「松葉関」は、石手川沿いのどこかに当たるのだろうが、正確な場所は不明。水野広徳の自伝に出る「木小屋口」は現在の中村橋に通ずるところ、「天保山」は木小屋口の橋(中村橋)の下流右岸に石で築いた突堤だそうである。子規、水野広徳の記述によれば、松山地方では、「三月節供」に限らず、弁当を持って郊外に出ることはすべて「おなぐさみ」と称されていたようである。

[おなぐさみについては、2010年3月21日のブログ記事でも述べた。→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-240.html]

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年6月
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
『水野広徳著作集』第8巻 雄山閣出版 1995年7月

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「愛媛のまじめな~」

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ポンジュースの三津工場というのが昔、中須賀(伊予鉄三津駅の北)にあった。このよく知られた名の飲みものが最初につくられたのはその工場であったらしく、「ポンジュース発祥の地」という石碑(平成6年5月建立)が中須賀3丁目の小公園に建っている。ポンジュースといえば、「愛媛のまじめなジュースです」という市川準演出のCMが昭和の時代に長く放送されていた。コラムニストの天野祐吉(松山市立子規記念博物館名誉館長でもある)は、十年以上も前のことになるが、あるインタビューの中で、そのポンジュースのCMに言及し、次のようなことを述べている。

「愛媛の真面目なジュース」のCMは、演出が市川準さんですよね。(中略)彼は初めはCMをつくってたんです。金鳥とか、プチダノンとか、面白いのをたくさん作っているけれど、「愛媛の真面目なジュース」も面白かったなあ。
市川準さんが、どういうつもりで撮ったかは、わからないけど、僕の勝手な意見で言えば、愛媛の人がそんなに真面目なんてことはありえないんで、これは「よもだ」なんですよ。真面目でもないのに真面目ぶる。そういうふうに解釈すると、松山の人の感じをよく表してますよね(笑)。松山の人はあんな真面目じゃないもの(笑)。それなのに、みんなで「真面目です」っていうジョークの精神ね。そこを、市川さんは狙ったんだと僕は思う。
いつだったか、以前松山で早坂暁さんたちとトークしたことがあって、早坂さんも愛媛出身だから、一緒になって松山の良さっていうのは、よもだの精神にあるっていう話をしたんです。よもだって、言ってみれば、変に肩肘張らない、常識にとらわれないしなやかさというか、こう、ささっと真面目くさったものをかわしていく精神でしょ。
それは正岡子規なんかが松山でやった俳諧の精神にも通じるものですよね。俳諧の諧っていう字は、冗談っていう意味ですから、俳句というのは、もともと冗談、軽口っていうふうなもので、そんな真面目くさったものじゃないんです。そういう俳諧が、松山で明治以降盛んになっていったというのは、松山によもだの精神があったからだと思うんです。だから、よもだの精神こそが松山の素晴らしいところなのに、今の松山の人はよもだを悪い意味に取ってしまっている。よもだの精神を真っ直ぐに立て直していくのが今の松山の課題なのに(笑)、松山の人はよもだであることをきらって、変に真面目くさっている。困ったもんだと、早坂さんと僕とで話したんです。北条の少年時代、早坂さんはよもだの何とかちゃんで、かなり有名だったらしいですよ(笑)。


「よもだ」の精神を復興しようという提言。「よもだ」を肯定的な精神として、正面からとりあげた例は、他にあまり見ないところなので、ここに引用した次第である。

【典拠文献】
天野祐吉ロングインタビュー「広告史五千年の、奥の細道をゆく」(「Atlas(アトラス)」第6号 1998年1月)

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