子規・鴎外・漱石-風呂の話

子規は晩年、病のために入浴することができなくなったが、風呂に入るのはもともと好きではなかったことが『墨汁一滴』の記述に見える。

自分は子供の時から湯に入る事が大嫌いだ。熱き湯に入ると体がくたびれてその日は仕事が出来ぬ。一日汗を流して労働した者が労働がすんでから湯に入るのは如何にも愉快さうで草臥(くたびれ)が直るであらうと思はれるがその他の者で毎日のやうに湯に行くのは男にもせよ女にもせよ必ずなまけ者にきまって居る。殊に楊枝をくはへて朝湯に出かけるなどといふのは堕落の極である。東京の銭湯は余り熱いから少しぬるくしたら善からうとも思ふたがいっそ銭湯などは罷めてしまふて皆々冷水摩擦をやったら日本人も少し活溌になるであらう。熱い湯に酔ふて熟柿のやうになって、ああ善い心地だ、などといふて居る内に日本銀行の金貨はどんどんと皆外国へ出て往てしまふ。(『墨汁一滴』明治34年3月6日条)


風呂嫌いであることの宣言から始まって、風呂好きの人を批判、ついには日本経済のことにまで結びつけている。いかにも子規らしい筆はこびであるが、よほどの風呂嫌いでなければここまでは書かないであろう。

風呂嫌いといえばいいのか、とにかく風呂に全く入らなかったのが森鴎外である。鴎外の二女、小堀杏奴の証言―、

父は決して風呂に入らない。これはどういう理由からか私は知らないが、一体がそう入浴好きでなかったのと、戦地での習慣がそうさせたものらしい。(小堀杏奴『晩年の父』)


衛生学が専門であった鴎外が入浴しないというのは不思議であるが、昼間、官僚としての仕事があった鴎外にとって、入浴に費やす時間というのがそもそも惜しかったのであろう。体は拭けば十分と考えていたらしいことが、小説『鶏』に描かれた次のような自画像から窺える。

石田は先づ楊枝を使ふ。漱(うがひ)をする。湯で顔を洗ふ。石鹸は七十銭位の舶来品を使ってゐる。何故そんな贅沢をするかと人が問ふと、石鹸は石鹸でなくてはいけない。贋物を使ふ位なら使はないと云ってゐる。五分刈頭を洗ふ。それから裸になって体ぢゅうを丁寧に揩(ふ)く。同じ金盥で下湯を使ふ。足を洗ふ。人が穢(きたな)いと云ふと、己の体は清潔だと云ってゐる。湯をバケツに棄てる。水をその跡に取って手拭を絞って金盥を揩く。又手拭を絞って掛ける。一日に二度づゝこれ丈(だけ)の事をする。湯屋へは行かない。その代り戦地でも舎営をしてゐる間は、これ丈の事を廃せないのである。(森鴎外『鶏』)



子規や鴎外とちがって、漱石は風呂好き、正確には温泉好きであった。松山在住時代の漱石は、「毎日半里の温泉まで通った(二番町の漱石の下宿から道後温泉までは半里(約2Km)」と、教え子の真鍋嘉一郎は証言している(「夏目先生の追憶」岩波書店『漱石全集』別巻所収)。漱石が温泉好きであったことは、小説『草枕』の次のような記述からも窺える。

寒い。手拭を下げて、湯壺へ下る。(中略)
鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んで居るのだらうが、色が純透明だから、入り心地がよい。折々は口にさへふくんで見るが別段の味も臭もない。病気にも利くさうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。固(もと)より別段の持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだ事がない。只這入る度に考へ出すのは、白楽天の温泉水滑洗凝脂(おんせんみづなめらかにしてぎょうしをあらふ)と云ふ句丈(だけ)である。温泉と云ふ名を聞けば必ず此句にあらはれた様な愉快な気持になる。又此気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。此理想以外に温泉に就ての注文は丸でない。(中略)
余は湯槽(ゆぶね)のふちに仰向の頭を支へて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来る丈抵抗力なきあたりへ漂はして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげの様に浮いて居る。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張をはづす。どうともせよと、湯泉(ゆ)のなかで、湯泉と同化して仕舞ふ。(夏目漱石『草枕』七)


『草枕』のこの温泉は小天温泉(熊本県玉名市)がモデルらしいが、松山在住時代の漱石は道後温泉でも湯と「同化」、身心適悦の至境に浸っていたのであろう。

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正岡子規(左)・森鴎外(中央)・夏目漱石(右)

【典拠文献】
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
『鴎外選集』第1巻 岩波書店 1978年11月
小堀杏奴『晩年の父』岩波文庫 1981年9月
『漱石全集』第3巻 岩波書店 1994年2月
『漱石全集』別巻 岩波書店 1996年2月

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伊予の節分

正岡子規は幼少時の伊予の節分の思い出を『墨汁一滴』の中で語っている。それによると、昔の伊予の節分は、鬼やお多福に扮した門付の芸人たちが家々をめぐりあるく、結構にぎやかなものだったようである。

(門付芸人の)女はお多福の面を被り、男は顔手足総て真赤に塗り額に縄の角を結び手には竹のささらを持ちて鬼にいでたちたり。お多福先づ屋敷の門の内に入り、手に持てる升の豆を撒くまねしながら、御繁昌様には福内鬼は外、といふ。この時鬼は門外にありてささらにて地を打ち、鬼にもくれねば這入らうか、と叫ぶ。そのいでたちの異様なるにその声さへ荒々しければ子供心にひたすら恐ろしく、もし門の内に這入り来なばいかがはせんと思ひ惑へりし事今も記憶に残れり。鬼外にありてかくおびやかす時、お多福内より、福が一しょにもろてやろ、といふ。かくして彼らは餅、米、銭など貰ひ歩行(ある)くなり。やがてその日も夕になれば主人は肩衣を掛け豆の入りたる升を持ち、先づ恵方に向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向ひ豆を撒き福は内を呼ぶ。これと同時に厨にては田楽を焼き初む。味噌の臭に鬼は逃ぐとぞいふなる。撒きたる豆はそを蒲団の下に敷きて寝れば腫物出づとて必ず拾ふ事なり。豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払にやるはいづこも同じ事ならん。たらの木に鰯の頭さしたるを戸口々々に挿むが多けれど柊ばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。(『墨汁一滴』明治34年2月4日条)


門付遊芸の風習があったこともさることながら、他にも興味深い記述がこの文章にはある。「豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払にやる」―これは節分の豆に「厄」をうつして外に捨てたことを意味するものであろう。民俗学者の五来重によると、節分の豆というのは、もともと鬼を追い払うためのものではなく、「厄」をうつして外に捨てるものであったという。豆を年の数ほど白紙につつんで体をなで「厄」をうつしてから、それを「厄」や「穢れ」の捨て場である道の辻や特定の塚などに捨てた(のちにはただ戸外に捨てるようになった)。ところが、節分の夜の来訪者を邪悪な鬼とする観念ができたために、この豆が鬼を追い払うための豆と考えられるようになったというのが五来重の考えである。豆に「厄」をうつして捨てる。節分本来のものだったらしいこの習俗は、松山では終戦後のある時期まで残っていたことが報告されている[注]。

鰯の頭や柊を門口に立てる習俗があったことも、子規の記述からはうかがえる。これは一種の魔除けの呪術であるが(『土佐日記』に「小家〈こへ〉の門〈かど〉の注連縄〈しりくべなは〉の鯔〈なよし〉の頭〈かしら〉、柊〈ひゝらぎ〉ら」云々とあるのはこれと同種)、松山にはこうした風習はもう残っていないだろう。

[注]-越智二良「節分とおなぐさみ-子規の随筆から-」(1975年)に「厄落しの習俗はほとんど絶えたのであるまいか。終戦後にも松山の私の家の近くの辻に、古ふんどしであったか猿股であったか、豆まきの豆を紙にくるんだものとが捨てられてあるのを見たことがある」との記述がある。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
越智二良「節分とおなぐさみ-子規の随筆から-」(「伊予の民俗」6号 1975年4月)
五来重『宗教歳時記』角川選書 1982年4月
『新岩波古典文学大系24 土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』岩波書店 1989年11月

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「鬼は内~」

摂津三田(現・兵庫県三田市)の領主、九鬼家の節分儀式では、豆撒きの際に「鬼は内~」と唱えるということが松浦静山の『甲子夜話』に出ている。

先年のことなり。御城にて、予、九鬼和泉守隆国に問には、世に云ふ、貴家にては節分の夜、主人闇室に坐せば、鬼形の賓来りて対座す。小石を水に入れ、吸物に出すに、鑿々として音あり、人目には見えずと。このことありやと云しに、答に、拙家曾て件のことなし。節分の夜は、主人恵方に向ひ坐に就ば、歳男豆を持出、尋常の如くうつなり。但世と異なるは、其唱を「鬼は内、福は内、富は内」といふ。(松浦静山『甲子夜話』二)


節分の夜、九鬼家には鬼の姿をした客が来て、小石の入った吸い物を飲むという噂があった。好奇心のつよい平戸城主松浦静山はそのことを直接、九鬼家の当主隆国に尋ねたのだが、隆国はその噂を否定、ただ他家と異なっているのは、豆撒きの際に「鬼は内~」と唱えることだと答えた。

「鬼は内~」と唱えるのは、九鬼家代々の伝統であったようだが、民俗学者の五来重によると、豆撒きのときにそう唱える例は、少なくないという。

世の中には鬼の子孫という家筋はかなり多くあって、「鬼は内、福は内」という豆撒きをする家もすくなくない。鬼の子孫という伝承をのちのちまでもちつたえた家筋は、多く修験山伏の家筋であるが、祖霊を鬼として表象することは、実は一般的であった。それが仏教や陰陽道の影響で邪悪な鬼となり、地獄の牛頭馬頭や餓鬼となってからは「鬼は外」と追われる鬼になった。(五来重『宗教歳時記』)


九鬼隆国は鬼の姿をした客云々の噂を否定したが、九鬼家の豆撒きの唱えごとが「鬼は内~」であるということは、鬼の子孫であるとの伝承が同家にあるということをおのずから語るものであった。鬼の姿云々はそうした九鬼家の伝承から派生した噂であったのだろう。

【参考文献】
五来重『宗教歳時記』角川選書 1982年4月

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漱石・子規の思い出(久保より江)

夏目漱石は明治28年(1895)6月下旬から翌年4月上旬まで松山市二番町の上野義方邸の二階屋の離れ(愚陀仏庵)に住んでいた。28年8月27日、正岡子規がその離れに入居、子規は階下、漱石は二階を自室として、五十日余、同居生活をおくった。久保より江はその離れの家主上野義方の孫で、当時は11歳の小学生(当時の姓は宮本)、離れと廊下でつながる母屋に祖父母らと暮らしていた。漱石、子規はこのより江を妹のようにかわいがった。より江は後年、二人の思い出を次のように語っている(以下、①②③の引用、語られている内容は幾分重複する)。

①松山の先生のお部屋は狭いながら上二間、下二間で離れになってゐた。祖父が母家をあとゝりに譲って隠居する積りで建てた筈だのに、何故かあとゝりの伯父はいつまでも別居してゐて、離れは夏目先生のお部屋になった。(中略)
離れを先生にお貸しゝたのも伯母(上野義方の長女。より江は義方の次女の娘)がひまつぶしと、今一つは従姉に著物をきせる為のお小づかひが欲しさではなかったらうか。(中略)
先生が一年たらずの御滞在中、私の思出として残ってゐるのは何といっても照葉狂言とお伽草子とである。
照葉狂言の泉助三郎一座は鏡花の「照葉狂言」と一緒になって私の記憶をいつまでも鮮かなまゝでおく。助三郎の妻の淋しいおもざし、小房、薫、松山で生れた松江などとりどりになつかしい。そして一度はあの遠い古町の小屋まで連れて行っていたゞいたのに、折あしく休場で空しく堀端を引返した。その時先生の右手には私が縋ってゐたが、左には中学校の校長だった横地地理学士の上のお嬢さんが手をひかれていらっしった。私より一つ二つ年下であったらう、かはいゝかたであった。
松山時代の先生を偲べば従って正岡先生も思ひ出さずにはゐられない。夏休みを父母の許で送って九月のはじめに又二番町の家へ帰った私は離れに別の客を見た。御病人だといふ事でいつも床が敷かれて緋の長い枕が置いてあった。学校の先生や大勢のかたが毎日見えた。学校の帰りなど教員室の窓から校長さんが首を出してよりさんと呼ばれるので、何か叱られるのかとおづおづ引きかへすと「けふはせはしうて行けぬ(今日は忙しくて句会に行くことができない)と正岡さんにいうておくれ」などとおことづけを承ったりした。句座のすみにちいさく畏って短冊に覚束ない筆を動かした夜もあった。お従弟にあたる大原の坊ちゃんが薬瓶を一日おき位に届けに見えた。その秋学校で展覧会があるといふので、正式の学芸品以外に何か出品しなければならないはめになった私はありったけの智慧をしぼり出して、正岡先生の俳句を刺繍する事にきめた。刺繍を習った事もないくせに随分大胆な企をしたものだと今思ふと恥しいやうである。何かの表紙をしきうつしにした紅葉と流れの上に快く
 行く秋のながめなりけりたつた川 子規
と書いて下さったのを俄かじたての枠にはったあたり前の絹糸をわいて縫ひはじめた。さうゆふ事のすきな伯母が大抵手伝ってくれた。
その刺繍の出来上らないうちに正岡先生は急に御上京になった。学校から帰った私に伯母は(正岡先生が)御出立の前もわざわざこちらの座敷まで見にいらっしって「わりあひによく出来た。出来上りを見ないで立つのが残念だとよりさんにいってくれ」とおっしゃったときかせてくれた。
私は虚子先生にもその時分御めにかゝったことがあるやうに思ふ。「高浜さんはまだお若いやうな」と伯母が祖母に話してゐるのを聞いた事がある。(『嫁ぬすみ』「夏目先生のおもひで」)

②あの離れは祖父が母家を買ひ入れ、港町(湊町)から引移って後に新築したもので、材木の切れはしを大工にもらって積木をしたり、襖のカマチのクヒチガヒの切れはしを小人形の椅子にして嬉しがったりした。そんな記憶があるところから推すと、明治二十一年か二年頃出来たのであらう。祖父はこゝに隠居するつもりで建てたのだが、跡継の出来がわるくて隠居ができず、先生がたにお貸しした為、却っていつまでも保存されることになった。(中略)
先生がたのいらっしゃった明治二十八年といへば私は十一歳、(中略)その当時両親は東予の鉱山に行ってゐたが、私は学校を替るのがいやで祖父の家に預けられてゐた。子規先生が離れにお見えになった頃は夏休みで父母の手許へ遊びに行ってをり、九月はじめに帰松してはじめて病人のお客様がふえたことを知った。私の帰って来た日、暑気あたりだといって祖母は一番風通しのいゝ中の間(ま)に寝てゐた。物珍しい鉱山の様子を私が話して聞かすと祖母は嬉しさうに起き直って、あとを促した。何もない山の中、せめておみやげにといって母がことづけたのは山の裾を流れるカモ河の焼鮎であった。たぶん両先生のお膳にもその晩あたり載ったであらう。
伯母のうしろにひきそうて、はじめて子規先生のお部屋へ行った時、一番目についたのは支那からでもお持ちになったのであらう、真紅な長い枕であった。
まだ子供だった私、先生がたに就てのことはあまり思ひ出せない。しかし短時日ではあったけれど、ずゐぶんかはいがっていたゞいたものだと、有難く思ふ。照葉狂言がすきだといふのでいつも連れて行って下すった。句会の末座にかしこまった夜もあった。離れにえらい先生がいらっしゃるといふので、学校でも肩身が広かった。校長先生はじめ沢山の先生が句会に来られた。学校の帰りなど教員室の窓から手紙を托されたり、「けふは用事があって行かれんというておくれ」などゝことづけられたりするのが内心得意だった。
今でもめに残ってゐるのは子規先生の外出姿、ヘルメットにネルの著流し、稍々よごれた白縮緬のヘコ帯を痩せて段のない腰に落ちさうに巻いてゐられた。(「二番町の家」)

③あの一番町から上って行くお家(愛松亭のこと)に夏目先生がいらっしゃった事は私にとってはつ耳です。私は上野のはなれにいつから御移りになったのか何にも覚えておりません。ただ文学士というえらい肩書の中学校の先生が離れにいらっしゃるという事を子供心に自慢に思っていただけです。先生はたしか一年近くあの離れに御住居なすったのに、どういう訳か私のあたまには夏から秋まで同居なすった正岡先生の方がはっきりうつっています。―松山のかただという親しみもしらずしらずあったのでしょうが―夏目先生の事はただかわいがっていただいたようだ位しきゃ思い出せません。照葉狂言にも度々おともしましたが、それもやっぱり正岡先生の方はおめし物から帽子まで覚えていますのに(うす色のネルに白縮緬のへこ帯、ヘルメット帽)夏目先生の方ははっきりしないんです。ただ一度伯母が袷と羽織を見たててさし上げたのは覚えています。それと一度夜二階へお邪魔していて、眠くなって母家へ帰ろうとしますと、廊下におばけが出るよとおどかされた事です。それからも一つはお嫁さん探しを覚えています。先生はたぶん戯談(じょうだん)でおっしゃったのでしょうが祖母や伯母は一生懸命になって探していたようです。そのうち東京でおきまりになったのが今の奥様なんでしょう。私は伯母がそっと見せてくれた高島田にお振袖のお見合のお写真をはじめて千駄木のお邸で奥様におめにかかった時思い出しました。
実は千駄木へはじめて御伺いした時は玄関払いを覚悟していたのです。十年も前に松山で、というような口上でおめにかかれるかどうかとおずおずしていたのですが、すぐあって下すって大きくなったねといって下すった時は嬉しくてたまりませんでした。そして私の姓が変った事をおききになって、まあよかった、美術家でなくっても文学趣味のあるお医者さんだからとおっしゃったのにはびっくりいたしました。先生は私が子供の時学校で志望をきかれた時の返事を伯母が笑い話にでもしたのをちゃんと覚えていらっしゃったものと見えます。松山を御出立の前夜湊町の向井へおともして買っていただいた呉春と応挙と常信の画譜は今でも持っておりますが、あの離れではじめて知った雑誌の名が帝国文学で、貸していただいて読んだ本が保元平治物語とお伽草子です。(高浜虚子宛の書簡 引用は虚子著『漱石氏と余』所引によった)


明治29年4月11日、松山を離れ新任地熊本に向かう漱石をより江は三津浜港で見送った。のちに漱石が書く小説『吾輩は猫である』に登場する「雪江さん」はより江がモデルであるともいう。より江は高等女学校卒業後、医学博士久保猪之吉(九州大学医学部教授)に嫁した(子規門下の長塚節はこの久保猪之吉の治療をうけているが、長塚を久保に紹介して診察を依頼したのは漱石であった)。若いころより文芸に親しんでいたより江はホトトギス派の俳人となり、福岡在住時は社交界の華やかな存在であったという。夫が他界した後は長く病牀生活がつづき、昭和16年5月11日に東京で死去、享年五十七。

【典拠文献】
久保より江『嫁ぬすみ』政教社 1925年8月
長谷川泉監修『近代作家研究叢書133 子規言行録』日本図書センター 1993年1月
和田茂樹編『子規と周辺の人物』(増補版)愛媛文化双書刊行会 1993年9月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

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虚子の小説『俳諧師』-「ハンケチ」の表記

高浜虚子の小説『俳諧師』の冒頭部分に、三津浜港での見送り風景を描いた一節がある。

瀬戸内海の波は静かだ。夢のやうに寄せて音も無く白砂の上を走る。只時々囁く如く聞ゆるのは渚に捨てゝある碇にあたって砕くる波の響きであらう。堅田の浦の汀の石に立って近江の湖を見た時と、三津の浜の捨舟の端に腰打ち掛けて瀬戸内海を眺めた時といづれを湖いづれを海と見定めがつかう。その三津の浜に門司を出た汽船が著く。一日に一度著くこともある。二度著くこともある。艀(はしけ)は旅客と行李を積んで汽船に運ぶ。汽船は其静かな鏡の面に渦を巻いて大阪に向ふ。(中略)
三津の浜の波打際に立ってゐるのは、沖遠き雲の峰に打映えて赤、紫、浅黄の三本の蝙蝠傘、少し離れて大小いろいろの麦藁帽。(中略)勝って帰り給へと帽子を振る。紫、浅黄、赤の三本の蝙蝠傘からも真白き手に各々ハンケチを振る。勝ってお帰りよとハンケチを振る。


帽子やハンカチを振りながらの見送りの風景。ハンカチは上引の文章では「ハンケチ」とある。いま「ハンケチ」などという人はいないと思うが、森鴎外の『青年』や夏目漱石の『坊つちやん』でもハンカチは「ハンケチ」と表記されている。

女学生の中の年上で、痩せた顔の表情のひどく活溌なのが、汽車の大分遠ざかるまで、ハンケチを振って見送ってゐる。 森鴎外『青年』

おれは、ぢれったく成ったから、一番大に弁じてやらうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云ひ出したから、やめにした。見るとパイプを仕舞って、縞のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か云って居る。あの手巾(はんけち)は屹度マドンナから巻き上げたに相違ない。男は白い麻を使ふもんだ。 夏目漱石『坊つちやん』


昔は「ハンケチ」というのが一般的だったようで、『日本国語大辞典』の「ハンカチ」の項には、

明治24年(1891)刊の「言海」には「ハンケチ」のみが収録されており、同45年刊の「日用舶来語便覧」では、「ハンカチーフ」の項に、「通常ハンケチと云ふ」とあるなど、明治大正期には、「ハンケチ」の形の方が多かった。


と記載されている。「今でもわたしはハンケチで、ハンカチとは言ったことがない」と、そのエッセーで述べる池田彌三郎(国文学者 1914-1982)の世代が「ハンケチ」の語の最終使用者であろう。

【典拠文献・参考文献】
高浜虚子『俳諧師・続俳諧師』岩波文庫 1952年8月
『鴎外選集』第2巻 岩波書店 1978年12月
『漱石全集』第2巻 岩波書店 1994年1月
池田彌三郎『私の食物誌』岩波書店 1995年6月(初刊 河出書房新社 1965年7月)
『日本国語大辞典 第二版』第11巻(「ハンカチ」の項) 小学館 2001年11月
柴田宵曲『明治風物誌』ちくま学芸文庫 2007年8月

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