FC2ブログ

子規、京都柊家旅館での紅葉打ち

明治25年(1892)11月14日、当時、京都で学生生活をおくっていた高浜虚子は、当地来訪中の正岡子規の宿泊先「柊家旅館」を訪ねた。虚子の『子規居士と余』にこのときのことが次のように書かれている。

その翌々日余は居士(子規)を柊屋(柊家)に訪ねた。女中に案内されて廊下を通っていると一人の貴公子は庭石の上にハンケチを置いてその上をまた小さい石で叩いていた。美しい一人の女中は柱に手を掛けてそれを見ながら何とか言っていた。その貴公子らしく見えたのは子規居士であった。
「何をしておいでるのぞ。」と余は立ちどまって聞くと、「昨日高尾へ行って取って帰った紅葉をハンケチに映しているのよ。」と言って居士はまだコツコツと叩いた。柱に凭れている女中は婉転たる京都弁で何とか言っては笑った。居士も笑った。余はぼんやりとその光景を見ていた。たしかこの日であったと思う。二人が連立って嵐山の紅葉を見に行ったのは。  (高浜虚子『子規居士と余』四)


柊家旅館で紅葉打ちをする子規。その光景は虚子にとってよほど印象深いものだったらしく、小説『俳諧師』でも藤野古白がモデルの「篠田水月」のことに置き換えられて、次のように描きだされている。

翌朝水月は柊屋に移った。(中略)六日目の日曜日の朝行って見ると、水月は自分の部屋の下の庭に蹲んで何事をかして居る。見ると白い新らしいハンケチを平べったい庭石の上に置いて其上を小さい石ころで叩いてゐるのである。「水月君何をして居るのです」と三蔵が聞くと、水月は眼鏡越しに三蔵を見上げて「昨日思ひ立って高尾へ出掛けたです。もう大方枯葉に近くなってゐた中に一二本遅く紅葉してゐたのがあって其葉を取って帰って今日ハンケチに叩いてゐるところです。一寸失礼します」といって又コツコツと叩く。三蔵は暫くボンヤリと廊下に立ってそれを見下ろしてゐる。 (高浜虚子『俳諧師』三十七)


柊家での紅葉打ちのことは子規自身も随筆の中でふれている。

槙尾栂尾も見て旅籠屋に帰り庭前に下り立ち砧と槌を借りて高尾の楓の葉を自らハンケチに打ちこみなどす。中にも濃き葉を選(え)りたれどいと善うは写らぬを、ふと思ひつきて半ば青き葉を取りて試るに青き色もあざやかに写りて殊にめでたく見ゆるに手の労(つか)るるをも知らで幾枚となく打ち敲きつ余念なきほど、廊下よりわれを驚かす者あり。槌を止めて見あぐれば虚子なり。(中略)
手拭に紅葉打ち出す砧(きぬた)かな    (正岡子規『松蘿玉液』)


子規が紅葉を叩きうつしたハンカチはのちのちまで妹律が持っていた(「翌夕方京都へ往って柊屋(柊家)に泊りました。しばらく兄の姿が見えない、と思うてゐましたら、紅葉をハンケチに叩きつけたのを持って来ました。其一つは今に残ってゐます」正岡律「家庭より観たる子規」)。紅葉打ちをする子規の姿は、ドラマ《坂の上の雲》第4回放送でも、根岸の子規庵庭先でのこととして描き出されていた。

【典拠文献・参考文献】
高浜虚子『俳諧師・続俳諧師』岩波文庫 1952年8月
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
『子規全集』別巻3(回想の子規2 附補遺)講談社 1978年3月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村


テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

子規の父「松山藩御馬廻加番タリ」

正岡子規の父親、隼太常尚(1833-1872)は、安政二年(1855)七月から翌年二月まで三津御陣屋道具預(正岡家資料)。「幕末松山藩御役録」(安政六年)には「大小姓」、禄高「十四石」としてその名が出る。また「松山藩勤仕録」には文久三年(1863)常詰として三津浜居住を命じられたと記す。ところが、子規が撰文した自身の墓碑銘には「父隼太松山藩御馬廻加番タリ」と記されている。講談社版『子規全集』の「年譜」では、「父の役目、御馬廻加番はより後年の役職か」と解いているが、いかがであろうか。

隼太の禄高「十四石」は藩士身分としては、切米取と呼ばれる下士(二十五石より六石まで)に相当するという。「御馬廻」は知行取と呼ばれる上士(家禄百石以上)にあてがわれる役職。その職務は主君の護衛、咎人の護送、火事等の際の巡警、御判物(将軍の花押のある文書)の保管責任などであるという。「御馬廻加番」はその「御馬廻」に準ずる職で、中士・下士が本役のほかにもつ兼役としてこれに任ぜられた。子規が墓碑銘に父の役職を記すに際し、本役としての職名を選ばず、あえて兼役としての職名「御馬廻加番」を選んだのは、それが「御馬廻」という上士の職に準ずるもので、それだけ父のイメージアップとなり、下士身分の父に栄誉を与えることができたからだという(谷光隆『考証 子規と松山』)。妥当な見解といえるのではなかろうか。なお、子規の妹、律は父の禄高を「五十俵」と記憶していたが、これは隼太が「御馬廻加番」に任ぜられていた期間に加増された給与のことと解釈することができそうである。

【参考文献】
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月
谷光隆『考証 子規と松山』シード書房 2005年6月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村





テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

夏目金之助、「漱石」と号す

明治22年(1889)5月1日、創作文集『七草集』を書き上げた正岡子規(当時学生)は、その自筆原本を師友たちの回覧に供して、末尾の白紙部分に批評を書き入れるよう求めた。同本には「千舟居士」の名で河東静渓、「江田島守」の名で秋山真之など20名近くが批評を書き入れているが、そのなかには「漱石」と署名した夏目金之助の批評(日付は5月25日)もある。夏目金之助が「漱石」を名のったのは、どうもこのときが最初であったらしい。漱石は漢文での批評に漢詩を添え、この雅号で署名して『七草集』を子規に返却したのだが、その後で「漱石」の「漱」の字を間違って書いたのではないかと不安に思い、同月27日付の子規宛の手紙でそのことにふれる。

七草集にはさすがの某も実名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて当座の間に合せに漱石となんしたり顔に認(したた)め侍り 後にて考ふれば漱石とは書かで〓石と書きしやうに覚へ候 この段御含みの上御正し被下(くだされ)たく先(まず)はそのため口上左様 米山大愚先生傍(かたわら)より自己の名さへ書けぬに人の文を評するとはテモ恐シイ頓馬ダナーチョン々々々々々(〓は「漱」の字の「欠」の部分が「攵」)


『七草集』の原本は現存する。夏目漱石の署名の部分を見ると、ちゃんと「漱石」となっているそうである。「〓石」と書いたと思ったのは彼の杞憂であった。ところが、おかしなことに正岡子規のほうがのちに「〓石」と書いたりしている(子規自筆稿「発句経譬喩品」に「〓石君」とあるなど)。「〓」は「漱」の異体字だから、間違いとまではいえないのだが、誤字を書いてしまうことは人間だれしも免れない。漱石も『坊っちゃん』の自筆原稿では、「畜生」を「蓄生」、「専門」を「専問」、「娯楽」を「誤楽」などと書き誤っている。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第9巻(初期文集)講談社 1977年9月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
奥本大三郎「漱石という雅号」(岩波書店刊『漱石全集』第13巻「月報」13 1995年2月)
和田茂樹編『漱石・子規往復書簡集』岩波文庫 2002年10月
『直筆で読む「坊っちゃん」』集英社新書ヴィジュアル版 2007年10月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村



テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

平凸凹

「平凸凹」=「たいらのでこぼこ」と読む。夏目漱石が一時期つかっていた戯号。漱石は幼時に病んだ疱瘡の跡が顔に残っていたので、戯れてこのように自称した。正岡子規に宛てた手紙の署名で、この戯号がつかわれている(明治24年9月12日付の子規宛の手紙には「小生などは心の不平のみならず顔も一面に不平なれば」云々とある。「顔も一面に不平」は顔が平らならずでこぼこであったことをいうものであろう。この手紙の署名も「平凸凹」で、同年および翌25年の子規宛の手紙の多くがこの署名となっている)

漱石は子規宛の手紙ではふざけた自称をつかうことが多く、「平凸凹」以外にも「菊井の里 野辺の花」「菊井町のなまけ者」「埋塵道人」「露地白牛」「愚陀仏」などと称したりしている。「菊井~」は生家のある喜久井町に由来するもの。「埋塵道人」は都会の塵に埋もれている隠者。「露地白牛」は火宅の外にある大白牛車、仏教語でこの上ないさとりの境地の意。「愚陀仏」は「グダグダ」と「お陀仏」をかけ合わせたものであろうか。

【参考文献】
和田茂樹編『漱石・子規往復書簡集』岩波文庫 2002年10月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村





テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

服部嵐雪「梅一輪」の句

梅一輪一りんほどのあたゝかさ


服部嵐雪(1654-1707)の句。この句は「梅の花が一輪また一輪と咲くにつれて春の暖かさが増してくる」と一般に解されているが、原意はそうした春のおもむきを詠んだものではないらしい。句の前書きには「寒梅」とあるので、これは冬の句(「梅」は春の季語だが、「寒梅」は冬の季語。冬のうちから咲き出す梅が「寒梅」)。したがって、句意は「梅が一輪だけ咲いている。まだ一輪だけだけれども、もうその一輪だけの暖かさは感じさせてくれる」ということになるらしい。春の到来を予感させる晩冬のおもむき、それを詠んだのが掲句ということになる。句の作者、服部嵐雪は松尾芭蕉の弟子。宝井其角と並ぶ蕉門の双璧である。

【参考文献】
大岡信『百人百句』講談社 2001年1月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村


テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード