子規、明治32年の年賀状

正岡子規、明治32年(1899)の年賀状。

新年めでたく候
皆様めでたく候
私もめでたく候
 明治三十二年一月
   東京下谷区上根岸町八十二番地
              正岡常規

年こゝに新たなる梅の蕾かな
赤門の橙ちさきかざり哉
御所の門門松も無き尊さよ
門番に餅をたまふや松の内
裾を引く妻の立居や三ケ日
裏門の輪飾り人に取られけり
めでたさも一茶位や雑煮餅
病牀に蜜柑剥くなり屠蘇の酔


子規は上記文面を葉書に印刷して、同年の年賀状とし、佐々木信綱、高浜虚子、河東碧梧桐らに送っている。碧梧桐宛の年賀状には自筆で、「御病気イカヾ ワヅカノ事ト存ジ御見舞モ不申候処存外長ビキ候 イカヾヤ」と添えており、彼の病を気遣っている。

【典拠文献】
『子規全集』第19巻(書簡2)講談社 1978年1月

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子規、明治17年の正月

明治17年(1884)の正月は、上京後の子規(数え年18歳)が東京で迎えた初めての新年。東京の正月で子規が驚いたのは、男女がともに「おめでとう」という言葉をつかうことだった。郷里松山の士族階級のならいでは、男は「めでとう」、女は「おめでとう」というべきものと決まっていた。男が「おめでとう」という東京は「めめしいところだと感じた」と子規は述べている[注]。

同年正月に子規は「新年作」と題する漢詩をつくっている。その詩には「迎年早暁噪児童 独有先生在褥中(迎年の早暁 児童噪ぐ 独り先生 褥中に在る有り)」とあるから、「先生」=子規が東京で迎えた初めての新年は、下宿での寝正月だったのであろう。

[注]-子規、明治29年1月発表の随筆「新年二十九度」に次のようにある。

明治十七年は初めて東都に居候の正月を迎へぬ。(中略)東京の正月も貴顕参朝の外には竹飾りの少し風の変りたると「おめでたう」といふ言葉のみ珍しく覚えぬ。余幼かりし時阿嬢(注-母の意)教へたまひけるは「おめでたうとは女子の語なり男は只めでたうと許(ばか)りいふべし」と余も男なれば其教に従ひ来れるを東京にては男女ともおめでたうといふ。さては東京は物事めゝしき処よと感じぬ。



【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第8巻(漢詩 新体詩)講談社 1976年7月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月

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子規「初夢」

子規、明治34年(1901)1月発表の随筆「初夢」に、夢の中での新年の帰郷を語る次のような場面がある。

「おい車屋、長町の新町迄行くのだ。ナニ長町の新町といってはもう通じないやうになったのか。それならば港町四丁目だ。相変らず狭い町で低い家だナア。」
「アラ誰だと思ふたらのぼさんかな。サアお上り、お労(つか)れろ、もう病気はそのいにようおなりたのか。」(座敷へ通る。)
「アラおまいお戻りたか。」
「マア目出度(めでと)う。おばアさん相変らず御元気ぢャナア。」
「いゝエおばアはもうぼれてしもてなんの益にもたゝんのヨ。」
「おいさんはお留守かな。」
「おいさんは親類だけ廻るといふて出たのぢゃけれ、もうもんて来るぢゃあろ。」
「それぢゃアあたしも親類だけ廻って来やう。道後が奇麗になったさうなナア。」
(中略)
「ヤア目出度う。お前いつお帰りたか。」
「今帰った許(ばか)りサ。道後の三階といふのはこれかナ。あしやア此辺に隠居所を建てやうと思ふのぢゃが、何処(どこ)かえゝ処はあるまいか。」
「爰処(ここ)はどうかナ。」
「これではちっと地面が狭いヨ。あしゃア実は爰処で陶器をやる積りなんだが。」
「陶器とはなんぞな。」
「道後には名物がないから陶器を焼いて、道後の名物としやうといふのヨ。お前らも道後案内といふ本でも拵へて、ちと他国の客をひく工面をしては何(ど)うかな。道後の旅店なんかは三津の浜の艀(はしけ)の着く処へ金字の大広告をする位でなくちゃいかんヨ。も一歩進めて、宇品の埠頭に道後旅館の案内がある位でなくちゃだめだ。松山人は実に商売が下手でいかん。」


「長町新町(ながまちしんちょう)」は現在の松山市湊町4丁目、ここには子規が2歳から16歳の時まで過ごした実家があった。この「初夢」では同町にあった伯父(正岡恒徳)の家を訪ねるという設定。「もう病気はそのいにようおなりたのか」―夢の中では子規の病気は全快している。「そのいに」は方言で、「そんなに」。「マア目出度う」「ヤア目出度う」―「おめでとう」ではなく、「めでとう」という言い方、これについては昨日のブログ記事を参照していただきたい。「道後の三階」は明治27年(1894)に建造された三層楼の道後温泉本館。32年にはこの本館に「霊の湯」と「又新殿」が造られた。「宇品」は広島の港。「道後には名物がないから…松山人は実に商売が下手でいかん」―後進の地、松山をなんとかしたいという思いが子規にはあったようである。「道後案内といふ本でも拵へて」という子規の提言は、彼の没後に虚子がこれを実現させている(高浜虚子編『松山道後案内』明治37年俳書堂刊)。

「初夢」(発表は死の前年)で、故郷松山を登場させた子規、「世に故郷程こひしきはあらじ」(「故郷」明治28年10月)との思いは終生、その胸中から消え去ることはなかった。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
森元四郎『椿守り―森元四郎著作集』 2003年12月

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明治23年1月5日、子規、三津で新年会を開く

子規の青年時代の随筆『筆まかせ』に「明治二十三年初春の祝猿」と題する一段がある。同年(1890)1月5日に子規、太田正躬、柳原正之(如水・極堂)、藤野潔(古白)、秋山真之の同郷五人が会した新年会の模様について記したもので、「~祝猿」の表題は「四国猿」と呼ばれた四国出身者の祝宴であることを示したものであろう。以下、この一段の一部を示し、若干の解説を加えておくことにしよう。

明治二十三年一月余が郷里伊予松山に帰省して病を養ひゐたりし頃、丁度在坂の旧友、太田正躬氏も帰省しゐたりしかば、共に相談して五日の午後、三津の生巣(いけす)に飲まんとて、太田、柳原正之、藤野潔三氏と共に秋山氏をさそふ。同氏あらず、乃ち下婢に其旨をいひ残して同家を出づ。


明治23年正月、当時の子規はまだ学生、冬休みに帰省した子規は上記の親友たちと「三津のいけす」で新年会を開くことになった。参会者、太田正躬、柳原正之はこのときすでに社会人(以下の本文では「紳士」といっている)、藤野潔、秋山真之は学生の身分であった[注]。会場の「三津のいけす」は三津の船場町にあった高級料亭「溌々園」である。当日、五人は三津口停車場(現在の市内電車萱町六丁目電停付近にあった旧・古町駅のこと)から汽車に乗って三津に向かう。子規、太田、柳原、藤野は遅れて来る秋山を三津口停車場で待つ。

三津口停車場に至りて汽車を待つ間に秋山氏も来れりしかば、同車にて三津へと出で立ちぬ。けふは余等も紳士の仲間入りなれば、勿論中等の切符を買ひたるはいふまでもなし。秋山は後から来て、殊に気がきかぬ故、下等切符を買ふ。乗車の時に際し、余は秋山にめくばせし、君は気がきかぬよ、けふは我々も紳士だよ、下等切符とはお気がつかれたなァと口には得こそいえばえに、腹の中の苦しみを目まぜ顔つきのこなしにて、団洲よろしくといふ身ぶりしければ、秋山もさうかといった様な顔をして直様(すぐさま)切符を隠し、何が扨(さて)、ぬかりはせぬといふ顔にかへて、中等列車へと乗り組みぬ。


太田、柳原は「紳士」たる身分であったので、汽車の切符は中等を買う。子規、藤野も今日は「紳士の仲間入り」ということで同じく中等の切符、遅れて来た秋山は「気がきかぬ故」、下等の切符を買った。子規が秋山に目配せして知らせると、秋山はそうかといった顔をして、すぐさま下等の切符を隠し、ぬかりはせぬと中等列車に乗り込んだ。やがて三津に到着、会場に向かう。

都々一学者の筆をからば、
書生三人紳士は二人 三津によったり五人づれ
かくて酒は一めぐり二めぐりすると始まった始まった、悪口でかためた、素顔でさへ、思ふこといはでやみなば腹ふくるゝ抔(など)と前書つきでしゃべってゐた紳士偽紳士の口さきは益(ますます)、軽くなりにけり。(中略)終(つい)には秋山までが管を巻き出し「柳原、お前は才子だ」と公言すること五度に及べり。余傍から「松山才子の相場も大概きまったなァ」 秋山「太田に忠告することがある。妻をとるとも大阪の女は取ってくれるな。それよりは松山の女をとれェよ」 余等先刻よりよってたかって大阪紳士をいじめたり。


「書生三人紳士は二人 三津によったり五人づれ(三二三四五の数字の語呂あわせ)」の宴会がかくて始まる。だれかれの悪口で宴席は盛り上がる。秋山真之が酔って、大阪で教師をつとめる太田にからむ。「大阪の女を娶るな。松山の女を妻にしろ」と太田に要らぬ忠告をする秋山。愛郷心よりの発言であろうか。

こんどは余に向ひ、秋山「正岡にいふが、お前学校を卒業しても教師にはなるなよ。教師程つまらぬものはないぞい、併しこうやってお前がいきておるのは不思議だ」などゝ独り面白がりてしゃべりちらす。如水が三津の猫を呼ばふ抔(など)と、はや紳士然たる振舞に、おのれこしゃくなと余は頭から一も二もなく此建議に反対せしが、起立満場の姿にて、此議案は消滅し、八時半の最終汽車にて帰松したり。


秋山の攻撃(口撃)は今度は子規に向かう。「生きているのが不思議だ」などと言われては子規もかたなしである(子規は前年5月に喀血)。宴たけなわ、柳原は三津の芸妓を呼ぼうと提案するが、これはあえなく却下。ついにおひらきの時間となって、五人は最終列車で松山に帰った。子規はこの文章を次のように締めくくっている。

此日の会ハ近頃愉快を余に与へたる者なり。何となれば此五人が一堂に会して酒を飲みたることは、天地開闢已来始めて也。又此五人が一堂に会して酒を飲まんことは、今より後、地球滅亡の際迄恐らくは無き事なるべければ也。然らば之を千載一遇といはんよりは、寧ろ無窮の時間内に只一たび起りし空前絶後の会なりかし。


明治23年1月5日、三津「溌々園」での新年会、同郷の親友が会したこの宴席は、子規にとって青年時代の最も楽しい想い出となったのではなかろうか。


[注]-子規=第一高等中学校生(明治19年4月に東京大学予備門が第一高等中学校と改称)、太田=大阪商業学校教員、柳原=海南新聞記者、藤野=同人社少年塾生か、秋山=海軍兵学校生。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
和田茂樹『子規の素顔』愛媛県文化振興財団 1998年3月

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子規らが新年会を開いた「溌々園」のあったところ。三津内港改修工事によって「溌々園」の跡地の過半は海中に没した。

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春の七草

春の七草の「ななくさ」という語は、「七種」と書くのが語源的には正しいのだそうである。「ななくさ」は「七種菜(ななくさな)」を略した語であるらしい(「くさ」は種類の意)。

春の七草については、古くから次のような歌があって、覚えやすいようになっている。

せり なづな ごぎゃう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞななくさ


せり なづな ごぎゃう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ 春のななくさ


すずなは蕪、すずしろは大根であるらしい。小泉武夫(発酵学・醸造学)著『食と日本人の知恵』によると、この七種はすべて越冬性の強い植物で、冬枯れの季節にこれらを食べるのは青物の補給という意味で栄養学的にも理にかなっているという。なかでもせりは、その匂いの成分であるピネン系やフェノール系化合物が心身をともに溌剌とさせるはたらきを持っているという。

【参考文献】
池田彌三郎『私の食物誌』岩波書店 1995年6月
小泉武夫『食と日本人の知恵』岩波現代文庫 2002年1月

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