子規・真之、学生時代のエピソード

明治19年(1886)4~6月頃、正岡子規と秋山真之(当時ともに学生)は下宿先を同じくしていたことがある。子規の親友であった柳原極堂はその頃のエピソードとして次のようなことを伝えている。

不図子規の机の据ゑられし側の壁を見ると、机によったまゝ眠り倒れてゐるらしい人の影を鉛筆で輪郭を取ったと思はるゝものが描かれてゐるので、あれは何かねと訊くと秋山が「正岡の寝像だ、僕が昨夜輪郭を取って置いたのだ、正岡が如何に強情で斯うして置けばグウの音も出ないだらうと思って遣って置いたのだ」と言ふ。それは又如何なる訳かと問へば、昨晩寄席から帰ると今夜は徹夜で勉強しようと二人が相談し、若し落伍して先きに眠った者は翌日其罰として何か奢ることを約束せしに、正岡は終に机上に眠り伏してしまったから、約束履行を迫る時の証拠に影の輪郭を取って置いたのだと秋山は説明して呵々大笑した。秋山は当時宵の内は友人等と盛んに遊び、他の寝静まる頃から夜を徹して勉強する習慣あり、其の旺盛なる精力は実に驚くべく、負けじ魂の子規は之に対抗せんと種々努めしが、到底追随を許さなかったと云ふことである。(柳原極堂『友人子規』)


子規、真之らが盛んに寄席通いをしていたのは明治19年のちょうどこの頃である[注]。上の一件の後日、柳原極堂が子規の下宿を訪ねると、真之の姿はそこになかった。

其の後予は子規を訪ひしに其の時秋山は已に去ってゐなかった。毎年大学予備門に入る者が斯う多数では終に学士の氾濫を見るに至るであらうと言って秋山は海軍兵学校に転じたのだと子規は言ってゐたが、或者は之を否定し、秋山は学資がつゞかずして官費の兵学校に転じたのだと言ってゐた。秋山が子規と同宿せしは僅に二三ケ月に過ぎなかったであらう。(同上)


秋山真之は海軍兵学校への入学を決意し、子規のもとを去った。入学に先立ち一旦帰省することになった真之に、子規が贈った歌というのが「海神(わたつみ)も恐るる君が船路には灘の波風しづかなるらん」「いくさをもいとはぬ君が船路には風ふかばふけ波たゝばたて」の二首である。


[注]-柳原極堂は子規、真之らの寄席通いについて次のように伝えている。

当時清水(注-清水則遠)も秋山も我々も子規の宿に落ち合って、其日銭のある者が会計の賄方となって能く寄席に遊んだものだ。白梅亭、立花亭の外に小川亭といふがあり、時には本郷の若竹亭まで少々遠くはあるが出かけて行くこともあった。演芸は落語、物まねなどの可笑しきもの講談、女義太夫などの真面目なものを初めとして音曲、娘手踊などの賑やかなものもあったが、芸名を都(みやこ)といふ十七八の娘の手踊は殊に学生等の人気を呼んでゐた。木戸銭は四銭であったか、五銭であったか、イラッシャイの声で景気よく迎へられ、下足札を取って見物席に進めば少女が座蒲団を持って案内をすると云ふ光景は、今は已にすたれて無きことなるべし。秋山等は随分思ひきって騒いでゐた。気に喰はぬ芸人が高座に出ると、ダメダメ引き込め引き込めなどと大きな声で呼び立てるのみか、下足札をカチカチ叩いて妨害是れつとめ、子規等も其の尻馬に乗って加勢するものだから、大抵の芸人は苦もなく叩き卸されてしまってゐた。(『友人子規』)



【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月

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道後「鮒屋旅館」

道後の老舗「鮒屋旅館」(現在の「ふなや」)を訪れた著名人たちのエピソード。

①『坂の上の雲』(「真之」の章)には、「自由民権運動家のことを、松山では「志士」といっていた。高名な植木枝盛が松山にきて鮒屋旅館にとまったときも、中学四年生の子規はなかまと一緒に旅館へおしかけ、意見をきいたこともある」との記述がある。中学生だった子規らが鮒屋滞在中の「志士」を訪ねたのは事実であるが、その「志士」が植木枝盛であったかどうかは不明である。このとき子規と行動をともにした西原武雄は後年、次のように証言している。

鮒屋旅館に土佐の志士訪問の件は事実に御座候。当時自由党全盛時代にして土佐の立志社より政党盛んに入松、演説会等に依りて党勢拡張に努め申候。植木枝盛、富永太一郎(?)の連中に御座候。年月はしかと記憶せざれど我等中学生数輩(正岡、太田、小野中為、愚兄義任及び小生等)は一日道後鮒屋旅館に土佐より来松中の一政客を往訪致候。其の政客の氏名は今日に於ては不明。鮒屋は勿論旧館にて温泉場のすぐ南側に沿うたるものに候。同旅館の東の大広間の西隣の六畳か八畳かの一室にて面会し、我等は南面、政客は北面に坐し何か談話致し候へども、其の要領は最早記憶致さず候。(柳原極堂『友人子規』記載の西原武雄証言。下線は引用者)


講談社版『子規全集』の「年譜」(明治15年の欄)にも、「高知の「立志社」徳島の「自助社」等から、自由党員が愛媛に来て政談演説をしたが、子規、太田らはその一人を道後の鮒屋旅館に訪ねたこともあった」とあるのみで、植木枝盛との特定はしていない。

②夏目漱石が中学の教師として松山に在住していたころ、鮒屋では当地でまだ珍しい西洋料理の献立を始めた。漱石は高浜虚子らとともに鮒屋でこの始めたばかりの西洋料理を賞味している。以下、虚子の証言。

その頃道後の鮒屋で初めて西洋料理を食わすようになったというので、漱石氏はその頃学校の同僚で漱石氏の下にあって英語を教えている何とかという一人の人と私とを伴って鮒屋へ行った。白い皿の上に載せられて出て来た西洋料理は黒い堅い肉であった。私はまずいと思って漸く一きれか二きれかを食ったが、漱石氏は忠実にそれを噛みこなして大概嚥下してしまった。今一人の英語の先生は関羽のような長い髯を蓄えていたが、それもその髯を動かしながら大方食ってしまった。(中略)この鮒屋の西洋料理を食った時に、三人はやはり道後の温泉にも這入った。着物を脱ぐ時に「赤シャツ」という言葉が漱石氏の口から漏れて両君は笑った。それはこの先生が赤いシャツを着て居ったからであったかどうであったか、はっきり記憶に残って居らん。ただ私が裸になった時に私の猿股にも赤い筋が這入っていたので漱石氏は驚いたような興味のあるような眼をして、「君のも赤いのか。」と言ったことだけは、はっきりと覚えている。後年『坊っちゃん』の中に赤シャツという言葉の出て来た時にこの時のことを思い合わせた。(高浜虚子『漱石氏と私』)



③秋山好古(画像=外部サイト)が晩年、北予中学の校長をつとめていたころの鮒屋でのエピソード。好古の公式の伝記は「頭の禿げた原因」の見出しで、次のような挿話を載せている。

将軍の中学校長時代、将軍と植岡陸軍少将(寛雄)と井上吉利氏との三人で、道後の鮒屋で鼎座して語ったことがある。植岡氏は親しい仲とて無遠慮に、
「閣下はよく禿げましたな、どうしてそんなに禿げたのです!」
「うむ、之か。俺が今日の地位を得るまでの艱難辛苦は、一通りや二通りぢゃないのぢゃ。その間俺は何千回何万回となく頭を下げたので、到頭このやうに禿げて了ったのぢゃ。お前達若い者も、少しぐらゐ見識があったとて、威張りくさって、上に対して頭を下げることを知らなかったら、出世は出来ないのぢゃぞ」
冗談とも本当ともつかず、平然と二人に語った。(秋山好古大将伝記刊行会『秋山好古』)


好古の公式の伝記は、戦前の刊行でありながら、軍国臭がなく、軍人の伝記として異色のものであるといわれる。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文春文庫(新装版) 1999年1月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月
秋山好古大将伝記刊行会(代表者桜井真清)『秋山好古』(復刻版)マツノ書店 2009年4月(原本1936年11月)

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明治42年3月14日、伊藤博文来県

明治42年(1909)3月14日、伊藤博文(1841-1909)が来県。「海南新聞」は当日の模様を次のように記している。

伊藤統監の来着 統監安着 予て報道したるが如く、韓国統監公爵伊藤博文氏には愈々十四日午後一時三十分通報艦淀号にて糸崎港を出発せられ、海上無事仝日午後五時十分三津浜沖に安着せられたれば、三津浜埠頭へ出迎へたる安藤知事以下左記の人々は、第一愛媛丸に乗り込みて軍艦迄出迎へたり。安藤知事、西久保事務官、竹井事務官、聯隊長代理山中中佐、宮川工師長、大道寺温泉郡長、倉根伊予郡長、中本松山郵便局長、柿本原典獄、吉川赤十字社幹事、古川兵事主任、逸見三津浜町長、塩崎予備少尉、岡村三津警察署長、高須賀三津局長、林衛生課警部、古谷綱紀氏(久綱氏親父)、塩崎海南主事等。
当日は晴天なりしかども、折柄の強風にて愛媛丸は波涛の中を辛ふじて淀の舷門に接するや統監には村田少将、古谷秘書官、小山技師、以下属僚及び尾ノ道迄出迎へたる脇田事務官等を従へて悠然愛媛丸に移乗あり。軍艦よりは十九発の礼砲を以て之を送り、統監は挙手して之に答へつゝ愛媛丸は徐々防波堤内に入り魚市場前の仮桟橋に着したり。

埠頭の出迎 伊藤公を乗せたる第一愛媛丸の仮桟橋へ着するや岡村三津警察署長、先駆となり、続いて安藤知事の案内に依って統監にはいと機嫌克く上陸され仝所へ迎へたる安藤知事夫人、黒田警視、森税務署長、粒良松山病院長、西原裁判所判事、大政県参事会員、其他県会議員、温泉郡参事会員、郡会議員、三津町会議員、並に三津浜町官民有志消防夫等数千名の歓迎を受けられ、直ちに県庁より差廻し有りし貴賓車三人挽に乗じ栄町より藤井町、住吉町を経て三津駅に向ひたり。

三津の歓迎 三津浜に於ては統監の来港を歓迎せんが為め埠頭場の堤上には各船繋杭に国旗を立て波止の頭端には三津音楽隊の奏楽あり。仝町魚市会社を歓迎員の休憩に充て全町各戸は国旗を立てゝ敬意を表し、公の通行筋なる栄町より住吉町へ至る間の左側は三津浜高等尋常小学校、仝尋常小学校、古三津、新浜の各小学校生徒を以て充たされ、右側は一般歓迎者の為めに通行も自由ならざるの光景なりし。三津停車場に於ては一、三等待合室を打通して幔幕を張り、椅子茶菓を用意等、公の休憩場に充てらるも公は直様待ち構へたる特別列車に乗り込み、午後五時三十分、三津駅を発車せり。

三津駅の出迎 仝所に於ては長井松山市長、三神仝助役、市参事会員、市会議員一同、並に篠原道後町長、清水仝助役、仝町会議員四名、井上伊予鉄社長、仝社各課長、古三津村役場吏員等歓迎ありたり。

古町駅の歓迎 古町駅の出迎者は師範学校生徒及び当市各学校長教員等にして特別列車は機関車続替の為め五分間停車の上、午後五時五十分、道後線へ発車せり。

道後の光景 斯くて列車は古町駅より道後に向ひ仝六時五分、着駅し、それより統監には腕車にて一行及び安藤知事、西久保、竹井、脇田の三事務官、山内中佐及び其他歓迎員数十名を従へて鮒屋旅館に入りたり。而して仝町に於ける歓迎は予定の如く、小学校生徒は停車場前より湯ノ町両側に整列し、在郷軍人並に地方有志者は仝駅プラットホームに出迎へをなしたり。殊に仝町にては統監歓迎の意を表せんが為め停車場前即ち湯ノ町入口には高さ三間の大緑門を造り黒大豆の中に白大豆にて抜き出し、其周囲を蜜柑にて囲ひたる『伊藤公歓迎門』の扁額を掲げ、又仝停車場にはプラットホームの北側に幔幕を張り、伊予鉄の紋章を染出したる旗を吊るす等、総て歓迎の準備至らざるなかりき。

温泉入浴 公には鮒屋旅館に少憩の後、晩餐を喫せず、又た随行者をも伴はず、単独にて七時頃、温泉霊の湯に入浴したり。尚ほ村田少将、古谷秘書官等も続いて入浴したり。(明治42年3月16日付「海南新聞」句読点は引用者の付加)


伊藤博文は海路、三津浜港に到着。三津駅から伊予鉄の特別列車で古町経由、道後に向かった。道後での宿泊先は「鮒屋旅館」(現在の「ふなや」)。3月28日まで本県に滞在した(25日には三津浜訪問。当ブログ本年11月28日記事参照)。

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子規、うどん屋に叱られる

自他ともに認める大食漢であった子規。その大食にまつわるエピソードとして、学生時代に鍋焼きうどん屋に叱られるということがあったと子規が自身の筆で伝えている。

正岡升、井林博政(大洲人)と同居す。共に大食を以て聞ゆ。一日食慾甚だ盛なり。而して共に一銭の儲(たくはへ)なし。相携へて進徳館に行く。松木茂俊(桑村人)一人あり。両人茂俊に迫って鍋焼饂飩を買はしむ。蓋し茂俊等長く鍋焼屋の華客たり。故に負債を許すなり。茂俊已むを得ず、麺賈(注-うどん屋)を呼ぶ。一鍋又一鍋、三人各七鍋を傾く。麺賈、稍(やや)(あや)しむ者の如し。潜かに窓間を覗ふに、室内僅に三人のみ。而して升等猶一鍋を乞ふに至りて、麺賈怒って曰く、「公等何ぞ暴食の甚だしきや。七鍋の饂飩猶腹を飽かしむるに足らず、更に何鍋を喫せんとするや。不養生も亦極まれりと謂ふべし。我最早誓って一鍋をも売らざるべし」と。升等大に窮し、慇懃辞を尽し、更に各一鍋を乞ひ得て之を喫す。終て麺賈に向って曰く、「請ふ、更に一鍋づゝを与へよ」と。賈憤然として曰く、「更に無し」と。倉皇荷を坦ふて去る。行く事十数間、呼んで曰く、「鍋焼きうどーん」。


子規ら三人は各々鍋焼きうどん七杯を食べて、うどん屋から「暴食」「不養生」と言われるも怯まず、さらに各一杯を注文、これを食して、「もう一杯ずつくれ」と言ったところで、うどん屋は憤然、屋台を引いて逃げ去った。上引の記述は子規、青年時代の随筆『筆まかせ』第四篇「常盤豪傑譚」の中の一条。子規はこの一条を「正岡升鍋焼屋の訓誨を受く」と題している。

【典拠文献】
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月

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子規の絶筆三句

正岡子規が死去したのは、明治35年(1902)9月19日午前1時頃。その前日の午前11時、妹律と碧梧桐の介添えで、画板に貼った唐紙に「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」の三句をしたためたのが絶筆であった。この絶筆の三句はすべて糸瓜(へちま)の句。子規が辞世に糸瓜の句を詠んだことについて、碧梧桐は次のように述べている。

子規子は兼々「自分が五六月頃に死んだらば方々から追悼句などゝ言ふて、時鳥(ほととぎす)の句を沢山よこすであらうが、それはいやでたまらない。それがいやだから成るべく夏の間に死にたくはない」などゝ話して居ったが、何故子規の名にちなんだ時鳥の句を嫌ふかといふと、時鳥の句といふのは、古来より発句中でも沢山句のある題で、已に仕方のない程陳腐な題である。其陳腐な題では到底よい句は今日得られないといふてもよい位であるに、まして追悼といふやうな更に作句のむつかしい条件をつけては、更によい句の出来やうがない。その悪句が沢山出来るといふ事が子規子のいやで堪らないと言ふた所以であったのである。所が幸にして子規子は亦厭ふて居った夏も過ぎ、丁度名月の前後になって今度は愈々といふ覚悟をきめ、自らも亦た其死期を知ったやうであった(後に思へば)が、さらばと言ふて、こゝで月の辞世でも作らうものなら、是亦た矢張時鳥に劣らぬ陳腐な題であるから、其追悼句も亦た悪句が出来るものと見てもよい。そこで人の思ひもよらぬ、又た形の雅な「糸瓜」を揃へて其辞世を作ったのである。糸瓜の辞世といふ事が単に突飛なといふやうな事ばかりでなく、又た其前庭に糸瓜の棚があったといふ為めでもなく(それらも一原因であらうが)、実は種々錯綜した意味から糸瓜を選んだのである。将に息を引取らんとする数時前に於ても、尚この用意の存して居ったのは、真に驚くべく事と言はねばならぬ。(といふのは其平生に徴して予の推想する所である)。 [河東碧梧桐「俳話断片 廿四」京華週報 明治35年10月19日]


子規が辞世に糸瓜の句を詠んだ所以―上引に述べられているのは、碧梧桐が後から「推想する所」であるが、その「推想」はまとはずれの臆断ではないように思われる。

【典拠文献】
『子規全集』別巻2(回想の子規1)講談社 1975年9月

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