神奈川砲台(台場)

幕末-安政4年(1857)4月28日、松山藩は幕府より神奈川付近(現在の横浜市神奈川区)の沿岸警備を命じられた。藩はこの任務を全うするため、神奈川沖に砲台(台場)を築造することを発案、幕府の許可を得て、同6年7月12日、神奈川村の新猟師町に砲台築造の工事を開始した。設計・技術指導をしたのは勝麟太郎(海舟)。藩には過分の巨額な費用を投じて、万延元年(1860)6月、沖に突き出た扇形の台場(約8000坪)が完成した。完成した台場は巨大な石垣の上に3m以上の土居をめぐらし、14門の大砲を設置。大砲は肥前藩が鋳造したものや、松山藩で独自に鋳造したものなどを置いたという。

旧松山藩士、内藤素行(鳴雪)の「神奈川砲台の始末」(講演記録)の一部、および『鳴雪自叙伝』中の関連箇所を下に引いておこう。

安政四年四月に神奈川宿一円を松山藩に警衛を命ぜられたのであります。(中略)其頃の藩主は松平隠岐守勝善と申して、それは鹿児島藩から養子に参った人で、此人はひどく海防の事に熱心で此警衛も内実は幕府に願出て之を引受けた様な事になって居ります。(中略)幕府の直轄として御殿山の土を取て砲台を築いて居りますが、聞く処によればあの砲台は砲台としての構造が未だ不十分であったらしい。そこで世間の批評にも上って居りますから、松山藩では折角拵へるなら今少し十分役に立つ砲台を設けたいといふので段々評議をしましたが、迚(とて)も藩内には是等の智識を持て居る者が無い。そこで、幕府の講武所の砲術師範役を勤めて居る勝麟太郎氏に托して、是は幕府の人でありますから一応伺の上幕府の許可を得まして、愈々此人に托して砲台を造ることに着手しました。(中略)此代金(注-総工費を指す)が六万七百二十七両一分と銀二匁一分二厘であります。此土工を起した人夫の中に彼の有名なる木戸準一郎(孝允)氏が窃に加って居たと云ふ事を私の藩で伝へて居ります。(中略)愈々幕府から見分がありましたのが万延元年九月八日でありました。当時の若年寄酒井右京亮外国奉行堀織部正外ニ役人が三十人も参りました。此見分に就ては上首尾で、非常に賞讃を受けて藩の役人一同面目を施した事であります。 内藤素行「神奈川砲台の始末」(明治44年10月14日講演記録)

この神奈川の砲台について少しお話をすると、これは万延元年に前年からの工事が落成したもので、かの有名な勝安房守が未だ麟太郎といっていた頃にそれへ頼んで設計してもらったものである。それでこの砲台は当時比較的新らしい形式に依ていて、幕府が築いた品川沖の台場よりもこの方が実用に適っているといって、わが藩の者は自慢していた。それだけになかなか費用がかかって、八万両も支出したのであった。当時の八万両は、十五万石の松山藩に取っては巨額のもので、遂にその影響が、士族の禄も『五分渡り』あるいは『人数扶持』ということにもなった。それと同時に『出米』といって百姓にも租税以外の米を出させるし、また町人は『出銀』といって金を出させた。 『鳴雪自叙伝』


平凡社刊『神奈川県の地名』によると、現在の横浜市神奈川区の海岸線を構成する町はほとんどが埋立地で、その最初のものが松山藩築造の神奈川台場、この台場跡は現在の同区神奈川1、2丁目に当たるという。

【典拠文献・参考文献】
鈴木棠三・鈴木良一監修『日本歴史地名大系14 神奈川県の地名』平凡社 1984年2月
松山市史編集委員会編『松山市史』第2巻 1993年4月
高須賀康生「史料紹介 内藤素行談〈松山藩の神奈川砲台築造始末〉」伊予史談301号 1996年4月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月
「神奈川台場」(「神奈川新聞」2007年6月7日)

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子規「秋の城山は赤松ばかり哉」の句

秋の城山は赤松ばかり哉


子規、明治28年(1895)9月21日の句(『散策集』)。この日、子規は中村愛松、柳原極堂、大島梅岸の三人に誘われて、御幸寺山の麓まで吟行した。句の「城」はいうまでもなく松山城。「山は赤松ばかり哉」、現在と違って、当時の城山は藩政時代以来のアカマツで覆われていた。現在の城山はシイ、クスノキ、ホルトノキなどの常緑広葉樹林(県指定天然記念物「松山城山樹叢」)。時代を松山城築城以前の中世にまでさかのぼると、当時の城山(勝山)は荒廃したはげ山であったという。

【典拠文献・参考文献】
『子規遺稿 散策集』(松山市民双書1増補版)松山市教育委員会 1977年11月
『ぶらり松山城 自然散策ガイド』愛媛新聞社 2008年8月

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子規―松山城の句

正岡子規、松山城の句。

①松山や秋より高き天主閣
②城山の浮み上るや青嵐
③其上に城見ゆるなり夏木立
④山城の廓残りて穂麦哉
⑤秋高し鳶舞ひ沈む城の上
⑥秋の城山は赤松ばかり哉
⑦松山の城を載せたり稲莚
⑧餅を搗く音やお城の山かつら
⑨永き日の山越えて伊豫の城見ゆる
⑩松山の城を見おろす寒さ哉


①は明治24年秋の句。②は明治25年夏の句。③④は明治27年夏の句。⑤⑥⑦は明治28年秋の句(⑤は9月20日、⑥⑦は9月21日の句)。⑧は明治29年冬の句。⑨は明治30年春の句。⑩は明治32年冬の句。④の「廓」は北ノ郭(現存しない)のことのようである。

【典拠文献】
『子規全集』第1巻(俳句1)講談社 1975年12月
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年6月
『子規全集』第3巻(俳句3)講談社 1977年11月
和田茂樹編『松山の文学散歩 子規とふるさと人の詩歌』松山市文化財協会 1976年3月

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子規「やゝ寒み~」の句

やゝ寒みちりけ打たする温泉(いでゆ)


子規、明治29年の句。「やや寒」は秋の季語、晩秋の次第につのってくる寒さをいう。「み」は原因・理由(「~ので」の意)を表すものであろう。「ちりけ」という言葉はこの句に接するまで、知らなかった。「灸点の名。項(うなじ)の下、両肩の中央にあたるところ」と辞書にはある。温泉の湯釜から注ぎ出る湯に、その灸点を打たせているということであろう。明治29年の2月頃から、子規は左腰の痛みがひどく、臥褥のままの状態となるから、この句などは頭の中のイメージの喚起だけで詠まれたものと思われる。

【典拠文献】
高浜虚子選『子規句集』岩波文庫 1993年4月

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「お城下」

秋風や侍町(さむらいまち)は塀(へい)ばかり


子規、明治28年(1895)年の句。松山の城北の下級武士が居住していたところの光景を詠んだもの。子規はこの句を維新後の「侍町」のもの寂しい光景(侍屋敷の家屋が取り壊されて、ただ「塀ばかり」が残っている)として詠んだが、碧梧桐はこれを維新前のただ「塀ばかり」が目立つ「侍町」特有の光景(家屋が塀に隠れて通りからは見えない)を詠んだものと解したという[注1]。維新後、維新前、そのどちらにしても侍の居住地だったところが「塀ばかり」であったことに変わりはない。城下町の過半を占める侍地というのは、通りから見れば塀ばかりがつづく至って単調な街並みであった。およそ繁華なところのない閑寂な街並み、それが城下町といわれるところの光景だったのである[注2]。維新後は侍屋敷の家屋が多く取り壊されて、一時期さらに寂しい光景となった。「お城下」という言葉には都会というイメージがあるかもしれないが、そこは決して繁華な都市空間ではなかったのである。

[注1]-『病牀六尺』八月二十九日条に「秋風や~」の句について次のようにある。

右の句につきての碧梧桐の攻撃は、この句を維新前の光景を詠みたるものとし従って「塀ばかり」といふを沢山あって目立って居る趣と解したために起ったのである。しかし余の趣向はさうではない。これは郷里に帰って城北の侍町を過ぎた時の所感を述べたもので無論維新後に頽廃した侍町のつもりである。塀ばかりは昔のままのが大方は頽(くず)れながらなほ残って居るが、その内を見ると家はなくて竹藪が物凄きまで生ひ茂って居る処もあり、あるいは畑になって茄子玉蜀黍などつくってある傍に柿の木が四、五本まだ青き実を結んで居る処もあるといふやうな光景を詠んだつもりであったが、これは前書をつけて置かなかったのが悪かった。


[注2]-子規、明治28年の随筆「故郷」には、松山の侍地であったところを指して「淋しかりし武家町の角に」といっている文があり、城下はさびしいというイメージで捉えられている。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
正岡子規『病牀六尺』岩波文庫(改版) 1984年7月
高浜虚子選『子規句集』岩波文庫 1993年4月

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