松山の秋祭り

松山地方の秋祭り、その特色を『松山市史』は次のように記している。

神幸の際に御霊代(みたましろ)を納める輿を神輿といい、一般的には「みこし」と呼ぶ。松山地方では「おみこっさん」と俗称している。(中略)
神輿をかく舁夫(かきふ)を輿丁、駕輿丁人などというが、松山地方では神輿守(みこしもり)といい、江戸時代の記録にも見える。神輿守の服装は浴衣姿が中予の特徴になっており、えどそを肩に掛ける。えどそには力紙が結んである。それから神輿守はみそぎをし、身を清めて参加しており、現在も潮垢離取りをしている所がある。三津、勝岡などは今もその伝統を続けており、そうでない地区でも風呂に入るなどして清浄を期する風はなお行われている。
松山祭りといえば、喧嘩神輿、鉢合わせが有名であるが、たしかに一つの特色になっている。東予地方では壇尻や太鼓台が、南予では四つ太鼓と牛鬼が競り合うなどが見どころだが、神輿同士の鉢合わせはない。つまり東予・南予には祭りを盛り上げる出し物(風流)が別にあるのに対し、それがない松山祭りの演出では、神輿をいかにかかくか、かき方に重点が置かれる。それが、神輿振りというねりなのである。それから神輿を各個人の家に据える風習も特色の一つで、これも他の地域には見ない民俗である。
松山祭りでは、神輿渡御の日を「練りの日」といっている。神輿の練り方には、①かく、②さす、③まわす、④ほうる、⑤はしる などの演出がある。これら演技の変化は掛け声で進行し、神輿の上げ降ろしも掛け声で行う。


喧嘩神輿とも鉢合わせとも呼ばれる神輿同士のぶつけ合い。『愛媛の不思議事典』によると、旧和気郡地域(三津厳島神社)と市内中心部・道後地域とでは、鉢合わせ方法に違いがあるという。かき棒同士を絡め合わせて勝負をするのが前者の地域、神輿の胴や屋根をぶつけ合うのが後者の地域。神輿の破損を防ぐための補強方法も、前者の地域では垂木とかき棒をロープで強く結んで縛るが、後者の地域では神輿の胴周りを何重にも縛るのだという。松山出身の俳人中村草田男によると、昔はこの鉢合わせのことを「ケチ合い」とも称していたらしい。道後地域の鉢合わせも今は駅前の広場でおこなわれているが、昔は道後公園内でおこなっていたようで、草田男のエッセーには、「秋は-松山市内のいくつかの神輿が、祭の日を等しくして、早暁道後へ寄り集ってくる。そして道後公園の広さを利用して、そこで壮烈なケチ合い(方言。解り易く言えば、神輿同士の白兵戦である)を展開する」(「松山の道後」初出誌不明 1938年頃)との記述が見える。

【典拠文献・参考文献】
松山市史編集委員会編『松山市史』第4巻 1995年5月
中村草田男『子規、虚子、松山』みすず書房 2002年9月
内田九州男・武智利博・寺内浩『愛媛の不思議事典』新人物往来社 2009年3月

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東雲神社の石段

  東雲神社
社壇百級秋の空へと上る人


正岡子規、明治28年(1895)の句。「社壇」は社殿に同じ。「百級」は東雲神社(松山市丸之内)の石段を指して言ったものであろう。同神社の石段はおよそ200段、天保年間(1830-1844)に造られたもので、「今だったらとてもできない」(池田洋三『わすれかけの街』)という。

建築家の芦原義信はその著『街並みの美学』の中で、「神社の石段が急で段数も多く、領域的に区分して何事がおわしますのか下から判断できないようにして神社の森厳さを演出していることは、われわれの日常の経験するところである」と言っている。神社の高い石段は、日常的生活空間と宗教的神聖空間とを領域的に区分するもの、あるいは両空間を結びつけるものといえるであろうか。

【典拠文献・参考文献】
芦原義信『街並みの美学』岩波書店 1979年2月
高浜虚子選『子規句集』岩波文庫 1993年4月
池田洋三『わすれかけの街 松山戦前・戦後』愛媛新聞社 2002年6月

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子規「稲刈りて」の句

稲刈りてにぶくなりたる螽(いなご)かな


子規、明治29年(1896)秋の句。子規の高弟、高浜虚子は掲句について、「子規はよく稲の中道を散歩して螽を研究したことがあった。そうして稲を刈ってしまう頃になると、螽は大変弱ってしまって以前のように活溌に跳ね飛ばず、人の来るのにもようやく飛び逃げるという風に、大変にぶくなる事を発見して、この句を作ったのである。この句の如きは長い日数の研究を経て出来た写生句である」(『俳句はかく解しかく味う』)と述べている。

稲刈の時期は9月から10月の半ばにかけてであろうか。稲の収穫期=秋だが、山本健吉によると、「古代の考え方では、稲の刈り上げの前夜までが秋で、刈上げの夜は冬である」という。

【典拠文献・参考文献】
高浜虚子『俳句はかく解しかく味う』岩波文庫 1989年10月
高浜虚子選『子規句集』岩波文庫 1993年4月
山本健吉『鑑賞俳句歳時記』文藝春秋 1997年4月

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子規、松山中学の運動会で三津に行く

年月日は確定できないが、明治15年(1882)頃の某日、松山中学の運動会が三津で開かれ、同校の生徒であった子規もこれに参加した。子規の青年時代の随筆『筆まかせ』には、「余郷里の松山中学に在る時(明治十五年頃ならん)同校生の運動会を三津に開く」と記されている。このときの運動会が三津のどこで開かれたのかは明らかでない。昔、三津浜グラウンドというのが大可賀付近にあったが、それができたのは大正の末年である。明治15年当時の三津浜で運動会の開催が可能であった場所といえば、旧お台場の砂浜ぐらいしかなかったのではなかろうか。

三津浜でのこの運動会からの帰途、子規は同地の厳島神社の前で車夫が不在の一台の人力車を発見。ふざけて友人二人に「これに乗れ」といい、子規が梶棒を引こうとしたが、乗せた二人の重みで人力車は後ろに傾く。梶棒を下げようと子規は懸命にふんばったが力及ばず、人力車はついに転倒した。幸い子規らに怪我はなく、車にも破損はなかった。子規がこの一件を文章にしたためて、「車を無難に顛覆せしむる法」(『筆まかせ』)と題しているのは、彼一流のユーモアである。

【典拠文献・参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』 1960年12月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月

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光源氏と伊予国

『源氏物語』に登場する地方官には「伊予介」「紀伊守」「豊後介」「大夫監」「常陸介」などがある。このうち「伊予介」は伊予の国司の次官、空蝉の夫がこの官に任ぜられていて、物語中では彼はこの官職名で呼ばれる(一度だけ「伊予守朝臣」と呼ばれる)。「夕顔」巻には、この「伊予介」が任地伊予から京都にもどり、光源氏の邸に挨拶に行く場面がある。物語には書かれていないが、研究者によると、光源氏は遙任の伊予守(伊予の国司の長官。遙任は任国に赴任せず国司としての収入のみを受け取る)を兼官しており、空蝉の夫である伊予介が光源氏の邸に挨拶をしに行くのも公務であるという。こういう事情は物語中でふれられていなくても、当時の読者なら容易に察することができたはずだと研究者は指摘している。「夕顔」巻の時点での光源氏の役職は近衛中将、本文に言及はないが、彼はこれに遙任の伊予守を兼ねていた。そうしてみると、同巻の時点では、光源氏の収入のうちの何分の一かは伊予国からの税収でまかなわれていた(物語の設定上)ということになる。

【参考文献】
石田穣二 清水好子校注『源氏物語 一』新潮日本古典集成 2002年2月
白方勝『源氏物語の人と心』風間書房 2005年5月

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