FC2ブログ

子規「春色秋光」

秋を悲しい季節とする心意は『万葉集』には稀薄で、『古今集』以後、顕著となってくるものであるが、このことを早くから指摘したのは正岡子規であった。子規、数え年27歳の時の論「春色秋光」にこのことを指摘して次のように言う。

春色を喜び秋光を悲むの感情は太古より一般に有し来りしものに非ずして後世に至りて次第々々に発達せり。支那にては唐以後に盛んに我邦にては古今集以後に盛んなるが如し。(中略)試みに唐以前の詩歌、古今以前の国詩を繙て見よ。春光の煕々たるを喜ぶ者は多かれど、秋色の凋落を悲む者は少し。秋色の凋落を悲まざるのみならず秋光を喜ぶこと春色に等しきもの亦少からず。唐以後古今以後は春色を愛するも其煕々雍々の処を愛するに非ずして穠艶華麗の処を愛するなり、秋光を悲むも一陰漸く現はれて穠艶褪し華麗休むを悲むに非ずして金気粛殺木摧け草消ゆるの極処を悲むなり。


これは当時としては達見で、わずか27歳の若者にこれだけの見識があったことには驚かざるを得ない。俳句、短歌、写生文等々、多方面にわたる子規の創作活動は、こうした学問的な見識に裏打ちされたものであったことを見落としてはならないと思う。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第14巻(評論 日記)講談社 1976年1月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村


テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

子規「草の花少しありけば道後なり」の句

草の花少しありけば道後なり


子規、明治28年(1895)9月20日の句(『散策集』)。「ありく」は「あるく」に同じで、ともに「あちこち動きまわる」が原意。類義語「あゆむ」が目標を定めて一歩一歩着実に前進することであるのに対し、「ありく」「あるく」は散漫で拡散的な移動を表す。「ありく」のほうは中古には盛んに用いられたが、中世になると文語化し、近世後期にはほとんど使われなくなった。子規が掲出句で「ありく」を使ったのは、それが「あるく」よりもやわらかな響きを持った語であるからだろうか。この句を詠んだ日、子規は柳原極堂をともなって、愚陀仏庵を出、玉川町から道後・石手寺方面を散策した。句の季語「草の花」は秋草の花を意味するもので、「一般に名の知られていない、可憐な野生花をさすことが多い」と歳時記には記されている。

【典拠文献・参考文献】
『子規遺稿 散策集』(松山市民双書1増補版)松山市教育委員会 1977年11月
高浜虚子選『子規句集』岩波文庫 1993年4月
『日本国語大辞典 第二版』第1巻(「ありく」「あるく」の項)小学館 2000年12月
「新版・俳句歳時記」編集委員会編『新版・俳句歳時記〈第二版〉』雄山閣 2003年4月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村




テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

明治28年10月12日の子規

明治28年(1895)10月12日、松山を発つことになった子規の送別会が二番町の料亭「花廼舎(花廼家)」で開かれた。同年8月24日に帰省して以来、約50日、病気療養を目的とする滞松であったが、子規にとってはこれが最後の故郷滞在となった。「花廼舎」での送別会には、近藤我観、中村愛松、天野箕山、御手洗不迷、野間叟柳、釈一宿(正宗寺住職)、夏目漱石(当時松山中学の英語教師)、大島梅屋、服部華山、国安半石、玉井馬風、白石南竹、伴狸伴、豊島天外、岡村三鼠、大道寺松露、柳原極堂が出席。子規はこの席で送別者ひとりひとりの雅号を詠み込んだ句を作っている(近藤我観に「念の月晴れにけり一人」など17句)。この席での漱石の送別の句-「疾く帰れ母一人ます菊の庵」「秋の雲ただむらむらと別れ哉」「見つつ行け旅に病むとも秋の富士」「この夕べ野分に向いてわかれけり」「お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花」。「お立ちやるか~」の句は松山地方の方言をつかっている。子規の留別の句-「送られて一人行くなり秋の風」。子規は後日、「漱石に別る」の前書きで「行く我にとどまる汝(なれ)に秋二つ」の句も作っている。

この送別会が開かれた「花廼舎」は、子規の「東京松山比較表」では東京の「八百膳」と対比された料亭で、二番町の「梅の家」(現在明治安田生命二番町ビル)の東隣にあったらしい。「大きな黒門のある家であった」と極堂の『友人子規』には書かれている。同書出版当時(昭和18年)にはまだあったということであるが、昭和20年の戦災で焼失したのであろう。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第21巻(草稿 ノート)講談社 1976年11月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

子規「沙魚釣り」の句

気候がよくなって来たせいか、三津浜港の岸壁には釣をたのしむ大勢の人。三津に住んでいながら釣の経験は皆無なので、この時期、この場所でなにが釣れるのか知らない。

沙魚(はぜ)釣りの大加賀帰る月夜哉


子規、明治25年(1892)の句。「大加賀」(通常は「大可賀」と書く)は、三津の南に隣接する地。「沙魚釣り」は秋の季語である。

【典拠文献】
高浜虚子選『子規句集』岩波文庫 1993年4月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村





テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

烏帽子(えぼし)

烏帽子は成人の男性が日常に着用したかぶりもの。布帛もしくは紙製で、黒色の烏塗りであったことからその名がある。古くは身分の上下にかかわりなく用いられ、これをかぶらないままの露頂を人に見せるのは恥辱とされた。民俗学者の宮本常一はこの烏帽子について絵巻史料にもとづいた次のような指摘をしている。

「源氏物語絵巻」柏木の巻でふれておきたいことがある。それは柏木の臥している姿である。枕をたてにして、それに顔をあてて横になっている。しかも烏帽子をかぶったままである。この時代には烏帽子をかぶったまま寝たもののようである。人の寝ている姿は絵巻物にはあまり多く出てこない。それの比較的多く描かれているのは「春日権現験記絵」で、これは延慶二年(一三〇九)に描かれたものであるが、その時期には烏帽子はもうぬいで寝ている。この絵巻より少し早く、十三世紀の中ごろに描かれたのではないかと見られている「小柴垣草紙」とよばれる秘戯の絵巻には、烏帽子をかぶったまま行為しているから、この絵巻の描かれた少しまえのころまでこのような習俗が見られたのではなかろうか。


古代から中世前期頃にかけて烏帽子は常時着用すべきものであったようである。古代・中世=烏帽子、近世=月代(さかやき)、近現代=ネクタイ、どの時代においてもわずらわしい習俗が何かしらのかたちであるようである。

【典拠文献・参考文献】
『国史大辞典』第2巻(鈴木敬三執筆「烏帽子」の項)吉川弘文館 1980年7月
宮本常一『絵巻物に見る日本庶民生活誌』中公新書 1981年3月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード