秋山好古、子供時代のエピソード

『坂の上の雲』冒頭の「春や昔」の章で作者は、秋山好古の子供時代に次のようなエピソードがあったと記している。

すでに四人の子がある。この養育だけでも大変であるのに、この「土州進駐」の明治元年(慶応四年)三月にまた男児(注-秋山真之)がうまれた。
「いっそ、おろしてしまうか」
と、その懐妊中、当主の平五郎が妻お貞にいった。町家や百姓家では、間引という習慣がある。産婆にさえたのんでおけば、産湯をつかわせているときに溺死させてしまうのである。が、武士の家庭ではそういう習慣がなく、さすがに実行しかねた。結局はうまれたが、その始末として、
「いっそ寺へやってしまおう」
ということになった。
それを、十歳になる信さん(注-秋山好古)がきいていて、「あのな、そら、いけんぞな」と、両親の前にやってきた。由来、伊予ことばというのは日本でもっとも悠長なことばであるとされている。
「あのな、お父さん。赤ン坊をお寺へやってはいやぞな。おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどお金をこしらえてあげるぞな」
ウチというのは上方(かみがた)では女児が自分をいうときに使うのだが、松山へいくと武家の子でもウチであるらしい。
「お豆腐ほどのお金」
というたとえも、いかにも悠長な松山らしい。藩札を積みかさねて豆腐ほどのあつさにしたいと、松山のおとなどもはいう。それを信さんは耳にいれていたらしい。


この話は秋山好古伝記刊行会(代表者桜井真清)発行の『秋山好古』に依拠して書かれたものである。司馬遼太郎はこの話を事実あったこととして書いているが、もとの『秋山好古』では「真偽は判らぬが」の但し書き付きで、この話を記している(下記)。

淳五郎の誕生に就ては真偽は判らぬが、次のやうな話が伝へられてゐる。
淳五郎の生れる前、久敬夫妻の間には既に長男鹿太郎以下四人の男子を儲けて最早や子供には飽満したのと、一には家政の事情もあったものか、夫人が次に妊娠した時には夫婦の間に戯談半分に「もう子供は要らん、一そ堕して了ふか」などの話もあった。併しいかに堕胎、間引の公認された時代とは云へ、武士の家庭として、まさかそれを実行することも出来ず、せめては「女の子であれば」と思ふ中、生れたのが夫婦の希望を裏切って玉のやうな男の子であった。
そこで久敬氏夫婦の間には、淳五郎を何処かの寺へでも遣るといふやうな話が交はされた。当時十歳あまりであった三男の信三郎が之を聞いて、
「お父さん、赤ん坊をお寺へやっちゃ厭ぞな。追っ付けうちが勉強してな、お豆腐ほどお金を拵へてあげるがな」
と言って、両親をしんみりさせたといふことである。お豆腐ほどと言ったのは、松山地方の豆腐が、恰も紙幣を積み重ねたやうな形をしてゐるので土地の人達が、「豆腐角ほど札を積んで見たい」などゝ言ったのを、子供心に聞き覚えてゐたのであらう。信三郎は此の頃から既に兄弟に対する愛情が深かったものと思はれる。


『秋山好古』の原本は昭和11年(1936)11月、「秋山好古大将伝記刊行会 代表者桜井真清」の名で発行されたが、実際に執筆したのは水野広徳(三津出身)とその友人の松下芳男であったという。『坂の上の雲』の秋山好古に関するエピソードは大部分が同書にもとづくものであるらしい。

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【典拠文献・参考文献】
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文春文庫(新装版) 1999年1月
川原崎剛雄『司馬遼太郎と網野善彦 「この国のかたち」を求めて』明石書店 2008年1月
秋山好古大将伝記刊行会『秋山好古』(復刻版)マツノ書店 2009年4月

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夏目漱石、道後温泉に通う

夏目漱石が中学の教師として松山に在住していたとき、愉しみとしていたのは道後温泉に行くこと。教え子の真鍋嘉一郎は漱石が「毎日半里の温泉まで通った」と述べている(漱石全集別巻所収「夏目先生の追憶」)。時には玉川町(現在の一番町1丁目)に自宅のあった高浜虚子を誘って一緒に道後に行くようなこともあった。虚子は当時のことを回想して次のように述べている(「漱石氏と私」)。

ある日、漱石氏は一人で私の家の前まで来て、私の机を置いている二階の下に立って、「高浜君。」と呼んだ。その頃私の家は玉川町の東端にあったので、小さい二階は表ての青田も東の山も見えるように往来に面して建っていた。私は障子をあげて下をのぞくとそこに西洋手拭をさげている漱石氏が立っていて、また道後の温泉に行かんかと言った。そこで一緒に出かけてゆっくり温泉にひたって二人は手拭を提げて野道を松山に帰ったのであったが、その帰り道に二人は神仙体の俳句を作ろうなどと言って彼れ一句、これ一句、春風駘蕩たる野道をとぼとぼと歩きながら句を拾うのであった。


虚子はまた次のような思い出も披露している。

その頃道後の鮒屋で初めて西洋料理を食わすようになったというので、漱石氏はその頃学校の同僚で漱石氏の下にあって英語を教えている何とかという一人の人と私とを伴って鮒屋へ行った。白い皿の上に載せられて出て来た西洋料理は黒い堅い肉であった。私はまずいと思って漸く一きれか二きれかを食ったが、漱石氏は忠実にそれを噛みこなして大概嚥下してしまった。今一人の英語の先生は関羽のような長い髯を蓄えていたが、それもその髯を動かしながら大方食ってしまった。(中略)この鮒屋の西洋料理を食った時に、三人はやはり道後の温泉にも這入った。着物を脱ぐ時に「赤シャツ」という言葉が漱石氏の口から漏れて両君は笑った。それはこの先生が赤いシャツを着て居ったからであったかどうであったか、はっきり記憶に残って居らん。ただ私が裸になった時に私の猿股にも赤い筋が這入っていたので漱石氏は驚いたような興味のあるような眼をして、
「君のも赤いのか。」と言ったことだけは、はっきりと覚えている。


当時、赤い下着を着用するのは健康によいといわれ、「赤シャツ」が一種の流行となっていた。のちに漱石が書く『坊つちやん』では、「赤シャツ」が登場人物の教頭のあだ名として使われる。

【典拠文献・参考文献】
『漱石全集』別巻 岩波書店 1996年2月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月
秦郁彦『漱石文学のモデルたち』講談社 2004年12月

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「三津十勝」

「三津十勝」-明治41年(1908)、森田雷死久選

①小富士の夕焼、②洲崎の魚市、③川口の建網、④佐島の漁舟、⑤御台場の網曳、⑥厳島社頭の月、⑦畷の青嵐、⑧善宗寺の臥竜松、⑨定秀寺の銀杏、⑩埠頭の朝霧


①の小富士は興居島(三津浜沖の島)南部の山(標高282m)。「海晴れて小富士に秋の日くれたり」子規、明治28年の句。④の佐島は大可賀3丁目、海岸のすぐ前の浅瀬のように見える島。⑤の御台場は三津浜小学校の西の海岸。幕末に松山藩の砲台(台場)が築かれた。⑦の畷(なわて)は松縄手(厳島神社前から三本柳までの名称)。道の両側に松並木があった。「のどかさや少しくねりし松縄手」子規、明治28年の句。⑧の臥竜松は藩政時代よりの名木であったが、近年枯れ死した。⑨の銀杏は沖合を行く船からもよく見え、三津の目印とされていた。「銀杏寺をたよるやお船納涼の日」河東碧梧桐、明治43年の句。「三津十勝」の選者森田雷死久(1872-1914)は本名愛五郎、法諱貫久。常福寺(松山市潮見)住職。雷死久は俳号(自作の句「雷公の死して久しき旱かな」によるもの)。

【参考文献】
『愛媛県百科大事典』下巻(神田泰雄執筆「名勝名所選」の項) 愛媛新聞社 1985年6月
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 人物』 1889年2月
森元四郎『椿守り』 2003年12月

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名前の付け方

伊勢貞丈(1717-1784)の『貞丈雑記』「人名の部」に、名前を付けるときの法則のようなものが記載されている。

太郎は惣領の子なり。次郎は二男なり。三郎は三男なり。今の世には惣領の子を何次郎・何三郎と名付け、二男・三男に何太郎と名付くるもあり、あやまりなり。又平氏の人は平太郎・平次郎などと名付くべき事なるに、平氏の子に源太郎・藤次郎などと名付くるもあやまりなり。各家々の氏を名乗るべき事なり。

父の名「太郎」なればその子は「小太郎」と云い、その小太郎に子あれば「又太郎」なり。二郎・三郎以下同断なり。「二郎太郎」と云うは二男家の太郎なり。「又二郎」とも云うべし。三男家の太郎は「三郎太郎」又「三太郎」なり。「四郎太郎」以下押して知るべし。

今の世、何兵衛・何右衛門・何左衛門などを百官名にてなしと心得たる人有り、あやまりなり。兵衛・右衛門・左衛門は皆官の名なり。源氏の人兵衛の官になりたるを「源兵衛」と云い、平氏は「平兵衛」、藤氏は「藤兵衛」、橘氏は「吉兵衛」なり〈「橘」と「吉」同音なり〉。右衛門・左衛門もこれに準じて知るべし。又、太郎の人は「太郎兵衛」、二男は「次郎兵衛」、この外もおして知るべし〈清原氏は「清兵衛」、三善氏は「善兵衛」、文屋氏は「文兵衛」などと云うなり〉。


貞丈もいくぶん認めているように、実際には上記の法則通りに名前が付けられていたわけではない。何兵衛・何右衛門・何左衛門の「兵衛」「右衛門」「左衛門」等は、貞丈のいうように官職名(注-古代には左衛門府・右衛門府・左兵衛府・右兵衛府などの軍事組織があった)に由来するものであるが、これについては歴史学者が次のようなことを述べている。

鎌倉時代の有力武士は、相当な金額を朝廷に支払って、官職を買得した。たとえば警察の高級幹部職、左衛門少尉(さえもんのじょう)が一〇〇貫文などの実例が残る。(中略)官職を入手した者は「二階堂左衛門少尉どの」などと、通称ではなくて、官職で呼ばれる。さらにこれが子息にまで影響する。左衛門少尉の三男であれば、左衛門三郎と名乗る。父が肥後守で自身が二男であれば肥後次郎である。(中略)このように、武士の通称には官職が用いられた。それで時が経つうちに、朝廷とは無関係ながら、権兵衛や新左衛門など、官職を含み込んだ通称が多く用いられるようになる。また農民が太郎・次郎より複雑な名を欲するようになると、武士の名乗りが手本となる。官職に由来する名は、村落にも広まっていく。(本郷和人)


どうして百姓が仮名(けみょう)に官職名をつけ始めたかは、まだよくわかっていないんです。律令国家の官職組織が崩れて、官職名が社会のステイタスを示すシンボルになってきたものだと思います。実際に官職の売買や偽の官位も現れてきますから。しかしこういう律令国家の残影が、ついこのあいだまで生きていたということは重要な問題です。私の父は善右衛門ですから、右衛門府の衛門を名前につけていた。久兵衛は兵衛府です。要するに、百姓、平民の仮名にまで、律令国家の影響が全国的に及んでいたことになります。(網野善彦)


官職名が人の名として用いられるというのは、世界的に見るとどうであろうか。日本に特異な現象であるのかもしれない。

【典拠文献・参考文献】
伊勢貞丈 島田勇雄校注『貞丈雑記1』平凡社東洋文庫 1985年4月
網野善彦・森浩一『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』河合出版 1992年5月
本郷和人『天皇はなぜ生き残ったか』新潮新書 2009年4月

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温泉のカロリー消費効果

5分間のウォーキングで消費されるカロリーは6.6キロカロリー。5分間の縄跳びでは16.6キロカロリー。温泉の場合は、5分間ただじっと浸かっているだけで、縄跳びに匹敵する15.2キロカロリーが消費されるのだそうである。温泉に入るのが、最も楽なカロリー消費法ということになるのかもしれない(ただし長湯は禁物)。

十年の汗を道後の温泉(ゆ)に洗へ 子規


【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年6月
松田忠徳『江戸の温泉学』新潮選書 2007年5月

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