子規「菎蒻(こんにゃく)に~」の句

菎蒻につゝじの名あれ太山寺


子規、明治25年(1882)春の句。太山寺の参道にその句碑があるが、句の意味するところはいささかわかりにくい。和田茂樹の「子規俳句選評」には「太山寺は菎蒻とつつじが有名であった」とあり、高浜虚子の『子規句解』には「其の三津の近傍に太山寺といふ山があって、そこには太山寺といふ寺がある。菎蒻が其処の名物であってそれを太山寺菎蒻といって、松山あたりの人々は特に賞玩して居た。そのまた太山寺には躑躅の花が見事であった。そこで菎蒻には太山寺菎蒻といふ名前があるが、又つゝじ菎蒻といふ名前があってもいゝではないか、と戯れて言ったものであらう。私の子供の時分には太山寺菎蒻といふのは名物であったが、今は果してどうであらうか」とある。句意は虚子のいうようなものなのであろう。

いささかわかりにくい子規の「菎蒻」の句。話は飛躍するが、こんにゃく(菎蒻・蒟蒻)という加工食品がいつどこでつくりだされたのかということもよくわかっていないらしい。司馬遼太郎は妙な人で、このこんにゃくの起源というものにこだわった。『街道をゆく 中国・蜀と雲南のみち』の中で司馬は次のように言っている。

コンニャクというのは、日本の奇妙な食品のひとつである。
成分のほとんどが水で、禅問答のような食品である。何の栄養もなく、それ自体がもつ味もない。だからこそ日本人の食の感覚に適しているのかどうかとなるとむずかしいが、ともかくみそ田楽にせよ煮込みおでんにせよ、また正月の煮しめでも、駅弁の幕の内でも、さらにはすき焼きにおいても、コンニャクはつねに脇役ながら、味覚の諧調をつくるのに役立っている。
またこれを紙のように薄切りにする。ふぐの刺身に似せ、桜の花びらのように大皿に貼りつけて出されると、半透明の色合いもよく、味もなまなかなふぐの刺身よりうまいような気がしてくる。ただしいくら食っても身の養いにはならず、栄養学的には咀嚼・嚥下のむだというものだが、そのむだに味をつけてよろこぶあたりに、日本人の暮らしの底のなにごとかと結びつくものがあるかと思える。(中略)
こんどの中国ゆきでは、江南地方でしきりに、コンニャクを食べますか、ときいて「蒟蒻」という字を書いて示したが、たれもかぶりをふり、こういう字も知らない、ということだった。


かくして司馬はこんにゃくについて探査する。司馬のたどりついた結論は以下のようなものだった。

コンニャク芋は主として山地の少数民族の居住区に自生し、古来、少数民族はそれを食べてきたのではないかという推測も、ほぼ大きなあやまりではないというところまでわかった。
ところが、雲南省が自生および栽培の本場だった。(中略)
要するに食物としてのコンニャクは雲南省が原生地らしく、それを食べることも栽培することもここのひとびとがはじめ、それが四川省や日本にさまざまのかたちで伝播したもののようにおもわれる。


この結論の当否についてはそれを判断する材料を持ち合わせていない。

【典拠文献・参考文献】
高浜虚子『子規句解』(市民双書21)松山市教育委員会文化教育課 1979年3月
和田茂樹『人間正岡子規』関奉仕財団 1998年6月
『司馬遼太郎全集』第58巻 文藝春秋 1999年5月
司馬遼太郎『ワイド版 街道をゆく20 中国・蜀と雲南のみち』朝日新聞社 2005年8月

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お好み焼き

小泉武夫著『食と日本人の知恵』に、お好み焼きについての記述があった(下記)。

お好み焼きはいつ、どこで、だれが始めたのかは明らかではないが、一種の遊戯料理の草分け的存在で面白い。一説によると、江戸後期の雑菓子「麩の焼」(春秋の彼岸に仏事用に焼いたもの)に源を持つという。これは、今のお好み焼きのようにさまざまな具を入れて焼くというものではなく、小麦粉を水に溶いて焼き鍋の上に薄く流し、焼けたら片面に味噌を塗ってから巻いた素朴な焼き菓子であった。これが明治に入って、鉄板と小麦粉を備えて思いのまま焼かせたのが「文字焼」となり、大正時代にはいって、魚、肉、野菜を具とする今の型が定着したようである。


上引に言及されている明治時代の「文字焼」については、モース(明治10年代に滞日)の『日本その日その日』に次のような言及がある。

帰途、お寺へ通じる町の一つに、子供の市(注-何かの縁日であろう)が立っていた。(中略)子供達はこの上もなく幸福そうに、仮小屋(注-屋台を指すもの)から仮小屋へ飛び廻り、美しい品々を見ては、彼等の持つ僅かなお小遣を何に使おうかと、決めていた。一人の老人が箱に似たストーブを持っていたが、その上の表面は石で、その下には炭火がある。横手には米の粉、鶏卵、砂糖-つまりバタア[麺粉、鶏卵、食塩等に牛乳を加えてかきまわしたもの]-の混合物を入れた大きな壺が置いてあった。老人はこれをコップに入れて子供達に売り、小さなブリキの匙を貸す。子供達はそれを少しずつストーブの上にひろげて料理し、出来上ると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたりする。(注-モースが米の粉、鶏卵、牛乳を使っていると書いているのは誤認であろう。鶏卵などは当時かなり高価だったはずである。)


小泉武夫の前記書に「遊戯料理」とあるのは、モースの記述にあるような営業形態(客が自分で料理する)を指すものであろう。三津浜や広島のお好み焼きは、この文字焼系統のお好み焼きとは発祥を異にするものであるのかもしれない。

年をとるとソース味というのはどうも苦手になり、三津浜名物のお好み焼きもあまり食べることがなくなった。子供時分、家から数メートル先にお好み焼き屋があったが、夏場にはかき氷屋、冬場になるとお好み焼き屋にもどるという営業形態であったように思う。

【典拠文献・参考文献】
E・S・モース 石川欣一訳『日本その日その日2』平凡社東洋文庫 1970年10月
小泉武夫『食と日本人の知恵』岩波現代文庫 2002年1月
柴田宵曲『明治の話題』ちくま学芸文庫 2006年12月

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伊予すだれ

伊予すだれは久万高原町露峰に産する伊予竹を編んで作ったすだれ。伊予竹は袴をとると白い竹肌が現れるので、これを使った伊予すだれは見た目が美しく、平安の昔より珍重されてきた。『源氏物語』にも調度の一つとして伊予すだれが登場する(下記)。

伊予簾かけわたして、鈍色(にびいろ)の几帳(きちゃう)の衣がへしたる透影(すきかげ)、涼しげに見えて、……(「柏木」巻)

やをら上りて、格子(かうし)の隙(ひま)あるを見つけて寄りたまふに、伊予簾はさらさらと鳴るもつつまし。(「浮舟」巻)


『源氏物語』では風趣のあるすだれとして伊予すだれが登場しているようである。

夏になると道後温泉本館の2、3階軒先には一面にすだれが掛けられる。このすだれは伊予すだれであるらしいが(白方勝「平安朝文学と伊予」『源氏物語の人と心』所収)、現在のものは竹の袴をとっていないので、昔の伊予すだれのように白いものではないようである。

【典拠文献・参考文献】
石田穣二 清水好子校注『源氏物語 五』新潮日本古典集成 1980年9月
石田穣二 清水好子校注『源氏物語 八』新潮日本古典集成 1985年4月
白方勝『源氏物語の人と心』風間書房 2005年5月

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『坂の上の雲』「子規庵」の章-冒頭の一節

下記は『坂の上の雲』「子規庵」の章の冒頭の一節。

子規は相変らず、根岸の里で病いを養っている。
「世間には古来、大望をいだいたまま死んだ者は多いが、あしほどの大望を抱いて地下に逝く者はあるまい」
と、虚子にこぼしたが、病勢はそのわりには進まず、ただ腰痛がときにはなはだしい。


この一節の鍵括弧内の子規の言葉は、明治29年(1896)3月17日付の高浜虚子宛子規書簡にもとづいて書かれている。同書簡には次のようにある。

世間野心多き者多し 然れども余(わ)レ程野心[注]多きはあらじ 世間大望を抱きたるまゝにて地下に葬らるゝ者多し されども余レ程の大望を抱きて地下に逝く者ハあらじ 余は俳句の上に於てのみ多少野心を漏らしたり されどそれさへも未だ十分ならず 縦(も)し俳句に於て思ふまゝに望を遂げたりともそは余の大望の殆ど無限大なるに比して僅かに零を値するのみ


同年の年頭には「今年はと思ふことなきにしもあらず」という抱負の句を詠んだ子規であったが、その年の3月17日、医師より結核性の脊髄炎との診断をうけ、一驚。同日、虚子に宛てた手紙の中にしたためられていたのが上引の文章であった。

[注]-中村草田男は子規のいう「野心」について次のように解説している。「犀利な頭脳と旺盛な生活力とを併せ恵まれていた子規が、又当然「野心の人」であったことは何の不思議でもない。自由競争期であった当時にあっては「野心」とは、正当な社会態度であり、誇らしき男子の面目であったのだ。(中略)「野心」とは自己実現慾事業達成慾の同義語に過ぎない。(中略)しかるに一朝不幸にも喀血を見るに至って、目的を文学の小世界にのみ限定せざるを得なくなったのである」(「〈子規の俳句観〉印象記」)。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第19巻(書簡2)講談社 1978年1月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月
司馬遼太郎『坂の上の雲(二)』文春文庫(新装版) 1999年1月
中村草田男『子規、虚子、松山』みすず書房 2002年9月

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商号

仮名で拗音を表記する場合、「しゃ」「しゅ」「しょ」というように、小字の「ゃ」「ゅ」「ょ」を添えるのが通則であるが、企業の正式名称(商号)の拗音の表記では、なぜだかこれを小字としないものがある。「キヤノン株式会社」「三和シヤッター工業株式会社」「シヤチハタ株式会社」「東洋シヤッター株式会社」「文化シヤッター株式会社」……これらはいずれもその商号では「キヤ」「シヤ」の表記で、「キャ」「シャ」ではない(シャッターの3社は促音の表記では小字の「ッ」を用いている)。他にも企業の商号では、「味の素ゼネラルフー株式会社」「いす自動車株式会社」「ニッカウスキー株式会社」など、昔の表記(下線部)を固守しているものがあり、各社それぞれに独自のこだわりがあることを示している。

【参考文献】
『記者ハンドブック』共同通信社 2008年3月

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