伊予源之丞

「伊予源之丞(いよげんのじょう)」は古三津地区に伝わる人形浄瑠璃(人形芝居)。明治初年以来の百数十年におよぶ歴史があり、地域の貴重な芸能遺産となっている。その「伊予源之丞」の歴史の大要を下に記しておくことにしよう。

明治初年、三津浜(新町)で荒物商を営んでいた宝来屋(烏谷)新造が淡路から人形道具、衣装一式を購入、「宝来座」を組織して、三穂神社(現在の恵美須神社)で人形芝居を始める(伊予源之丞の起源)。
大正年間、近在の「吉村座」「泉座」「上村六之丞」を合併、60人を超える一座となり、県内各地の他、九州、朝鮮半島、上海にまで巡業の足を伸ばす。
大正12年(1923)、朝鮮半島での興行に失敗し、一時解散状態に追い込まれるが、有志らの尽力で再建。
昭和10年(1935)、「上村治太夫」を吸収、一座の名称を「伊予源之丞」と改める。
戦時下、一時中断状況となる。
昭和34年(1959)、久松鶴一の尽力で「伊予源之丞保存会」結成。
昭和35年(1960)、宮前公民館に「文楽保存研究会」を設置。
昭和39年(1964)、愛媛県の無形文化財に指定。
昭和49年(1974)、芸能使節団として淡路人形一座に加わり、アメリカ公演に参加。
昭和52年(1977)、愛媛県の無形民俗文化財に指定(指定替え)。

「伊予源之丞保存会」所有の人形頭、衣装道具一式は県指定有形民俗文化財。人形頭は明治末期の逸品ぞろいで、天狗久(天狗屋久吉)の銘が入ったものが42点、天狗屋弁吉の作が5点、松山の名工面光の作が5点など、60点あまりがあるという。

【参考文献】
『愛媛県百科大事典』上巻(「伊予源之丞」の項) 愛媛新聞社 1985年6月
「松山百点」vol,170 1993年新緑号
松山市史編集委員会編『松山市史』第5巻 1995年5月
松山市教育委員会編『松山の民俗』 2000年3月

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人形浄瑠璃の興行

昨日のブログ記事で述べたように、三津の地には「伊予源之丞」という人形浄瑠璃(人形芝居)があって、人びとに親しまれていた。映画もテレビもない時代、人形浄瑠璃は人びとの娯楽として深く浸透した庶民芸能であった。昭和33年(1958)、当時の三津浜中学校社会科クラブが三津在住の古老たちにおこなった聞き取り調査(『古老にきく』)によると、「昔の娯楽機関」として「浄瑠璃」「人形芝居」と回答している例が多くあり、その浸透のほどが窺われる。参考までにその三津の古老たちの回答例をいくつか抜き出してみることにしよう(括弧内に調査対象者の生年、性別を示した。原本の漢字・仮名の表記は改めた箇所がある)。

「今の永楽座は芝居小屋で、柳勢座は小早川といって、寄席、浄瑠璃、万歳などをやっていた」(不明)
「浪花節、浄瑠璃、サーカス、相撲、見せ物小屋位のものです」(明治11年〈1878〉年生まれ・男性)
「浪曲や人形芝居等がありました」(明治7年〈1874〉生まれ・男性)
「芝居、浄瑠璃、人形芝居等が巡業してきて、永楽座、柳勢座などで興行をおこなった」(明治10年〈1877〉生まれ・男性)
「お台場に掛け小屋があり、そこで芝居や浄瑠璃などが大変はやっていた」(明治10年〈1877〉生まれ・男性)
「昔の娯楽機関は、浄瑠璃があり、中でも熊谷陣屋の段のようなものがはやった」(明治12年〈1879〉生まれ・女性)
「一月に一回位、人形芝居、伊予万歳など素人がしていた。一年に一回素人相撲があった」(明治23年〈1890〉生まれ・女性)
「淡路というところから、芝居が来る。デコ芝居とあやつりというもので踊らす。三味線弾き、浄瑠璃を語っていた。海水浴場に大きな小屋をたて、幟をたてていた。芝居がある日は、太鼓をたたく。太鼓をたたく音が〈人来い、人来い、人来い〉というように聞こえていた」(明治10年〈1877〉生まれ・女性)


三津の古老たちの証言によると、人形浄瑠璃は永楽座、小早川定席(柳勢座の前身)といった芝居小屋(ともに三津柳町)だけでなく、三津浜海水浴場でも小屋を建てておこなっていたようである。

【典拠文献・参考文献】
松山市立三津浜中学校社会科クラブ編『古老にきく-三津浜思い出話』1958年3月
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
佐々木忍『松山有情』愛媛県教科図書株式会社 1978年5月

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子規、三津浜の句

正岡子規、三津浜の句。以下、括弧内〇巻〇〇〇頁の表示は、講談社版『子規全集』の巻数と頁数。

「あゝ三つのいけすに魚の躍りけり」-明治23年(1890)7月某日、第6回紅葉会(常盤会寄宿舎時代の文学同好会)を「三津のいけす(溌々園)」で開いた時の句。子規の『つゞれの錦』(紅葉会の記録)に次のようにある。「籞(イケス) 紅葉会を三津のいけすに開くにあつまるもの六人いづれもうでぞろひも正札つき、歌をつくるもあれバ碁を戦ハすもあり。そのけしきもいはんかたなく山もまどゐの中にはいりて笑顔をつくり潮高く上りてハ足もとの波音に驚く、おまけに御馳走ハ山の如く海の如し。実に衆と楽むこそこよなく面白けれ。 あゝ三つのいけすに魚の躍りけり」(9巻778頁)。

「温泉上(ゆあが)りに三津の肴のなます哉」-明治23年8月3日付、大谷藤治郎(子規の親友。俳号是空。大阪市在住)宛葉書に記された句。「此度愈鉄窓の方角士を辞し大阪の大川町の大谷といふ身故まづ大三字といふ役に栄転せられたる処欣抃々々 然るに又もや病魔に襲はれ給ふよし不欣抃々々々(差引零となる之を是空といふ) 早く来給へ御馳走して待てゐるよ」という文面の後にこの句が記されている(18巻165頁)。

「此波は須磨へつづくか三津の月」-明治23年8月16日付、大谷藤治郎宛葉書に記された句。「御手紙拝見 伯母様御病気兎角すぐれ不給由(たまわざるよし)御心配之事と奉存(ぞんじたてまつり)候 小生出京は今月末にても来月はじめにてもよろしく候間御来松被下(くだされ)候はゞそれ迄は当地に御待申候」という文面の後、「朝顔やあてありさうにのびる蔓」「友をまつ蟲たゞ日ぐらしの蝉のこゑ」の句とともに「此波は~」の句が記されている(18巻172頁~)。

「夕ばえや檣(ほばしら)見えて渡り鳥」-明治24年8月23日、三津「溌々園」での句。当日、子規がこの句を画仙紙に書いて河東静渓(碧梧桐の父。子規に詩作を指導)に示すと、静渓は「発句というものはそんなにいうのかな。おもしろいものじゃな」といったという(柳原極堂『友人子規』162頁)。

「初汐や帆柱ならぶ垣の外」-明治24年秋の句(『寒山落木』巻1所収)。句の前書きには「三津いけすにて」とある(1巻32頁)。

「鱗ちる雑魚場のあとや夏の月」-明治25年夏の句(『寒山落木』巻1所収)。「雑魚場(ざこば)」は魚市場。和田茂樹編『松山の文学散歩』では、当句および次句を三津浜の句としている。(1巻75頁)

「荷を揚る拍子ふけたり夏の月」-明治25年夏の句(『寒山落木』巻1所収)。三津浜港での荷揚げ風景。(1巻75頁)

「堀川の満干のあとや蓼の花」-明治25年秋の句(『寒山落木』巻1所収)。句の前書きには「三津」とある(1巻146頁)。『三津浜誌稿』にはこの句について次のようにある。「堀川は汐入川で満潮時には汐水が浸入してくる。蓼は七月に芽を出し、八、九月が花盛りで十月には枯れる。元来湿地にはえるが、塩水には育たない。然るに汐の満ちて来た跡を残しているのは旧暦の朔日十五日の大潮時で、すべて満干潮共に其の極点に達した時に潮流が僅かの間停止する。これを方言で〈たたえ〉と云う。満潮のたたえの時、上流から流されて来た木とか藁などが、平日潮水の来なかった所、即ち蓼の花の咲いている辺りまで流されて来てそのあとが明瞭に残されている事を句にしたのであろう。私はその感の鋭さに敬服すると共に、この潮は旧暦八朔即ち〈たのも汐〉だと思う」。

「のどかさや少しくねりし松縄手」-明治28年春の句(『寒山落木』巻4所収)。句の前書きには「三津街道」とある(2巻169頁)。「松縄手とは三津厳島神社前から三本柳までの名称」(『三津浜誌稿』)。「三津街道」(明治以降の呼称)は三津から松山城下に至る道。江戸時代には「三津道」「松山往還」などと呼ばれた。松山藩主が参勤交代をする際にはこの道を利用した。

「海晴れて小富士に秋の日くれたり」-明治28年秋の句(『寒山落木』巻4所収)。前書きには「三津浜」とある(2巻272頁)。「小富士」は興居島(三津浜沖の島)南部の山。その優美な山容から伊予の小富士と呼ばれる(標高282m)。

「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」-明治28年秋の句(『寒山落木』巻4所収)。前書きには「故郷の蒪鱸(せんろ)くひたしといひし人もありとか」とある(2巻304頁)。「ていれぎ」は刺身のつまになる水草。松山市高井町の「ていれぎ」は市指定の天然記念物。「蒪鱸」は「蒪菜(水草)と鱸魚(すずき)に代表する肴の意」(和田茂樹)。

「酒あり飯あり十有一人秋の暮」-明治28年秋の句(『寒山落木』巻4所収)。前書きには「諸友に三津迄送られて」とある(2巻274頁)。

「十一人一人になりて秋の暮」-明治28年秋の句(『寒山落木』巻4所収)。前書きには「留別」とある(2巻274頁)。「酒あり~」「十一人~」の2句は同年10月18日、東京へ発つ子規を柳原極堂ら10名が三津浜で見送ったときのもの。当日は出航が遅れ、見送人は午後10時頃、最終列車で松山に帰った。子規にとってはこの日が郷里の見おさめとなった。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第1巻(俳句1)講談社 1975年12月
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年6月
『子規全集』第9巻(初期文集)講談社 1977年9月
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
和田茂樹編『松山の文学散歩 子規とふるさと人の詩歌』松山市文化財協会 1976年3月
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
和田茂樹『人間 正岡子規』関奉仕財団 1998年6月
清水正史『伊予の道』愛媛文化双書刊行会 2004年11月

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港山の石造ドック

「三津の渡し」に乗って対岸の港山に渡り、東に折れる細い道を行くと、いくつかの造船所がつづくなかに、角田造船所の第二工場がある。工場内には石造のドライドック(乾船渠)が二基、大正年間の竣工といわれるものがあり、道沿いの一画からそれを見ることができる。石造のドックが残っているのは珍しく、産業遺産としても貴重であるが、このドックは二つとも過去の遺物どころか、今も現役で中規模船の修理用に使われている。東側の第一ドックは長さ65m、幅11m、深さ5.7m、西側の第二ドックは長さ47m、幅9.5m、深さ5m。県内には石造のドックがもうひとつ、波止浜にあるらしいが、この港山のものの方が工法から見て古いという。

港山のこのドックはもと石崎船渠造船所の施設として建設された。同造船所の創業者石崎金久(1888-1982)は石崎汽船の経営者の親戚筋。大正10年(1921)、金久が経営の拠点を波止浜に移したのにともない、ドックは矢野造船に引き渡された。その後、所有者は転々としたが、昭和55年(1980)に角田造船所の所有に帰し、現在に至っている。

【参考文献】
財団法人えひめ地域政策研究センター編『愛媛温故紀行 明治・大正・昭和の建造物』アトラス出版 2003年3月

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『おあむ物語』

『おあむ物語』は戦国時代の籠城戦を体験した「おあむ」と呼ばれる女性の回顧談を筆録したもの。籠城戦のなかでの女性たちの模様を知ることができる貴重な史料といわれている。その内容の一部を記しておこう(以下取意)。「石火矢(大砲)をうつと、櫓もゆれ動き、地面も裂けるようで、気の弱い女性などは即座に目をまわした。はじめは生きた心地もしなかったが、そのうち慣れて恐ろしくなくなった。私も母も、そのほか家中の者たちの妻や娘たちも、みな天守に集って鉄砲玉を鋳造した。味方が取ってきた首は天守に集められたが、それぞれに札をつけ、しばしばお歯黒をつけてやった。身分のある者はお歯黒をつけていたので、白歯の首があるとお歯黒をつけてくれと頼まれていたからである。首も格別恐ろしいものではない。首が並んでいる血なまぐさい中で寝たものだった」云々。おあむが語る籠城の模様はなんともすさまじい。この部分の原文も掲録しておこう。「石火矢をうてば、櫓もゆるゆる動き、地もさけるやうに、すさまじいさかいに、気のよわき婦人なぞは、即時に目をまはして、難義した。それゆゑに、まへかたふれておいた。其ふれが有ば、ひかりものがして、かみなりの鳴をまつやうな心しておじやつた。はじめのほどは、いきたこゝちもなく、たゞものおそろしや、こはやと斗、われも人おもふたが、後には、なんともおじやる物じやない。我々母人も、その他、家中の内儀、むすめたちも、みなみな、天守に居て、鉄砲玉を鋳ました。また味かたへ、とった首を、天守へあつめられて、それぞれに、札をつけて、覚えおき、さいさい、くびにおはぐろを付て、おじやる。それはなぜなりや。むかしは、おはぐろ者は、よき人とて賞翫した。それ故、しら歯の首は、おはぐろ付て給はれと、たのまれて、おじやつたが、くびもこはい物では、あらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじやつた」云々。おあむは石田三成に仕えていた山田去暦という武士の娘。『おあむ物語』は「御庵物語」、老尼の物語の意であるという。おあむが体験した籠城戦は関ヶ原の合戦直後の美濃大垣城でのものであった。

【典拠文献・参考文献】
中村通夫・湯沢幸吉校訂『雑兵物語・おあむ物語』岩波文庫 1943年5月
山田邦明『日本の歴史8 戦国の活力』小学館 2008年7月

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