六月の句

「六月」が季語の句。

六月を奇麗な風の吹くことよ 正岡子規
六月の氷菓一盞の別れかな 中村草田男
六月の女すわれる荒莚 石田波郷
六月の風にのりくる瀬音あり 久保田万太郎
六月の花のさざめく水の上 飯田龍太


子規、草田男、波郷の三人は松山の出身。波郷の句は戦後の焼跡風景であるという。

【典拠文献・参考文献】
山本健吉『鑑賞俳句歳時記 夏』文藝春秋 1997年2月
大岡信『百人百句』講談社 2001年1月
角川学芸出版編『俳句歳時記 第四版 夏』角川文庫 2007年9月

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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術

明治10年代の日本-モースの記述

明治10年代に来日したアメリカの動物学者E・S・モース(1838-1925)は、邦訳で『日本その日その日』と題する極めて詳細な日本滞在記録を著している。以下、同書の記述の中からいくつかの部分を抜き出してみることにしよう。まず相撲見物に行ったときの印象。モースは観客のマナーのよさに感心している。

昼過ぎにはウィルソン教授が私を相撲見物に連れて行ってくれた。(中略)巡査がいないにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出て来たのを見ると、押し合いへし合いするものもなければ、高声で喋舌(しゃべ)る者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。第一章「一八七七年の日本-横浜と東京」


次は人力車の車夫たちについての記述。客を得そこなってもいやな感情を示さず、人力車どうしがぶつかっても罵り合うようなことをしないと述べている。

大学を出て来た時、私は人力車が四人いる所に歩みよった。私は、米国の辻馬車屋がするように、彼等もまた揃って私の方に駆けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異なった麦藁を四本ひろい、そして籤(くじ)を抽(ひ)くのであった。運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、他の三人は何等いやな感情を示さなかった。汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の轂(こしき)にぶつかった。車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合った丈(だけ)で走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る罵詈雑言とを比較した。何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。また今迄の所、動物に対して癇癪を起したり、虐待したりするのは見たことが無い。口小言をいう大人もいない。これは私一人の非常に限られた経験を-もっとも私は常に注意深く観察していたが、-基礎として記すのではなく、この国に数年住んでいる人々の証言に拠っているのである。第一章「一八七七年の日本-横浜と東京」


モースは日本人にかなりの好印象を持っている。人々が正直で盗みが稀、日本人が稀に盗みを犯すことがあるのは、西洋人と接触したがためであると思っているふしもある。

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入しても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また、今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚もって来た。この国の人々も所謂文明人としばらく交っていると盗みをすることがあるそうであるが、内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、条約港に於ても稀なことである。日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も閂(かんぬき)も戸鈕も-いや、錠をかける可(べ)き戸すらも無いことである。昼間は辷(すべ)る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、而もその構造たるや十歳の子供もこれを引き下し、あるいはそれに穴を開け得る程弱いのである。第一章「一八七七年の日本-横浜と東京」


モースの以下のような筆致はほとんど日本賛美の域に達している。

外国人は日本に数ケ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善悪や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。第一章「一八七七年の日本-横浜と東京」


モースが両国の川開きに行ったときの記述。大混雑の中で交わされる「アリガトウ」と「ゴメンナサイ」にモースは感嘆の声を惜しまない。

私は「河を開く」というお祭に行った。この正確な意味は聞かなかった。このお祝は隅田川で行われるので、東京中の人が何千人となく川の上や河岸の茶店に集って来る。(中略)丁度その時一艘の舟が、お客を求めながら、河岸に沿って静かに近よった。我々が乗ると、間もなく舟は群衆の真中まで漕ぎ出た。この時我々の眼前に展開された光景以上に不思議なものは、容易に想像できまい。ありとあらゆる大きさの舟、大きな、底の四角い舟、日除や天蓋を持ったのが多い立派な伝馬船……それ等はいずれも、色鮮かな提灯の光で照らされている。(中略)ある舟では河の向う岸では橋に近く光輝燦爛たる花火が発射されつつあり、我々はこの船の迷路の中で、衝突したり、後退したり、時に反対の方向に転じたりしながら、一時間ばかりかかってやっとおそへ行くことが出来た。舟の多くが只水に浮んでいるのに、岸に着こうとしたり、又は他の場所へ行こうとして、我々と同じような難境にあった舟もあったが、それにも拘らず、荒々しい言葉や叱責は一向聞えなかった。(中略)乗船した河岸に帰ろうとして、我々は反対の方向に進む多くの舟とすれちがった。船頭達は長い竿で、舟を避け合ったり、助け合ったりしたが、この大混雑の中でさえ、不機嫌な言葉を発する者は一人もなく只「アリガトウ」「アリガトウ」「アリガトウ」或は「ゴメンナサイ」だけであった。かくの如き優雅と温厚の教訓! 而も船頭達から! 何故日本人が我々を、南蛮夷狄と呼び来たったかが、段々に判って来る。第四章「再び東京へ」


以下、日本には盗みがないという記述。上引の部分でも以下の部分でも、しばしば自国と日本の違いが指摘されている。

今日の午後、私はまた博覧会へ行き、そこに充ち群衆の中を、歩きながら、財布を押え続けたりしないで歩き得ることと、洋傘をベンチの横に置いておいて、一時間たって帰って来てもまだ洋傘がそこにあるに違いないと思うことが、如何にいい気持であるかを体験した。「草を踏むべからず」とか「掏摸(すり)御用心」とかいうような立札は、どこにも見られぬ。第八章「東京に於る生活」

また路の所々に、瓜を売る小舎が建ててあった。(中略)これ等の小舎に関する面白い点は、その殆ど全部に人がいないで、値段を瓜に書きつけ、小銭を入れた箱が横に置かれ、人々は勝手に瓜を買い、そして釣銭を持って行くことが出来る!私は見知らぬ土地を、付き添う人なしで歩く自由と愉快とを味わいつつ、仲間から遥か前方を進んでいた。非常に渇きを覚えたので、これ等の小舎の一つで立止り、瓜を一つ買い求めようと思ったが、店番をする者もいないし、また近所に人も見えぬので、矢田部(注-矢田部良吉。東京大学植物学教授)が来る迄待っていなくてはならなかった。やがてやって来た彼は、店番は朝、瓜とお釣を入れた箱とをそこに置いた儘(まま)、田へ仕事に行って了(しま)ったのだと説明した。私はこれが我国だったら、瓜や釣銭のことはいう迄もなく、このこわれそうな小舎が、どれ程の間こわされずに立っているだろうかと、疑わざるを得なかった。第十四章「函館及び東京への帰還」

八月十五日、ドクタア・ビゲロウと私とは、清潔な新造日本船にのって、瀬戸内海の旅に出た。旅館を退去する前に、ふと私は日本の戎克(ジャンク)なるものが、およそ世界中の船舶の中で、最も不安定なものであり、若し我々が海へ落ちるとしたら、私の懐中時計は駄目になって了(しま)うということを考えた。それに、岩国では日本人達のお客様になることになっているのだから、そう沢山金を持って行く必要も無い。そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、浅い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向って差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘(まま)で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質(たず)ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂(かんぬき)も見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。
我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。米国や英国の旅館の戸口にはってある、印刷した警告や訓警の注意書を思い出し、それをこの経験と比較する人は、いやでも日本人が生得正直であることを認めざるを得ない。而も私はこのような実例を、沢山挙げることが出来る。日本人が我国へ来て、柄杓が泉水飲場に鎖で取りつけられ、寒暖計が壁にねじでとめられ、靴拭いが階段に固着してあり、あらゆる旅館の内部では石鹸やタオルを盗むことを阻止する方法が講じられてあるのを見たら、定めし面白がることであろう。第二十一章「瀬戸内海」


自国と日本との違いをしばしば指摘したモースは、『日本その日その日』の最終章で、「終に臨んで一言する」といい、次のように述べている。

読者は日本人の行為が、しかも屡々(しばしば)我々自身のそれと、対照されたのを読んで、一体私は米国人に対して、どんな態度を取っているのかと不思議に思うかも知れぬ。私は我々が日本の生活から学ぶ可(べ)きところの多いことと、我々が我々の弱点のあるものを、正直にいった方が、我々のためになることを信じている。第二十六章「鷹狩その他」


モースはアメリカ人が日本人から学ぶべきことは多いと述べた。現代の日本人はモース来日時の日本人とはまるで違うといってもいいほど、生活様式もものの考え方も変わってしまっている。現代の日本人は過去の日本人から学ぶべきことが多いのではなかろうか。

【典拠文献・参考文献】
E・S・モース 石川欣一訳『日本その日その日1』平凡社東洋文庫 1970年9月
E・S・モース 石川欣一訳『日本その日その日2』平凡社東洋文庫 1970年10月
E・S・モース 石川欣一訳『日本その日その日3』平凡社東洋文庫 1971年1月

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昭和後期、松山の映画館

昭和後期、松山にあった映画館。

「松山オリオン劇場」(花園町1丁目) 昭和25年(1950)10月、OS系封切館(ロードショー館)としてオープン(4階建)。同48年(1973)5月閉館。現在、日本生命松山市駅前ビル。

「松山スバル座」(大街道2丁目) 昭和35年(1960)8月、「オリオン劇場」2階にオープン。「オリオン劇場」とともにOSの冠がつく。同48年6月に大街道2丁目(現在、無印良品がある建物か)に移転。平成2年(1990)1月閉館。

「大劇」(柳井町2丁目) 昭和32年(1957)4月、洋画三番館としてオープン。のちOS系の封切館(松山スバル座の姉妹館)となる。新装オープン時、Daigekiと改称。昭和53年(1978)11月閉館。

「松山グランド劇場」(千舟町2丁目) 昭和24年(1949)12月開館。「東映グランド」「松山東映」などと改称。同61年(1986)末閉館。現在、ベスト電器松山本店。

「タイガー劇場」(大街道1丁目) 前身は「白鳥館」。昭和27年(1952)5月、「タイガー劇場」となる。「東宝タイガー」「洋画のタイガー」「松竹タイガー」などと劇場名がたびたび変更。同61年(1986)末閉館。現在、シネマサンシャイン大街道。

「国際劇場」(三番町3丁目) もとは芝居小屋(「白川座」→「寿座」→「国伎座」と名称変遷)。昭和22年(1947)9月、洋画封切館となる。翌年5月、「東宝国際」と改称。同53年(1978)12月、四つのホールをもつシネマコンプレックスとなる。同60年(1985)12月、「松山シネマサンシャイン」と改称。平成15年(2003)年5月閉館。跡地は現在、駐車場。

「銀映」(三番町2丁目) 松山で最初の洋画二番館として、昭和25年(1950)12月にオープン。同44年(1969)11月、佰味ビルの1階に移転。経営者は「佰味」(釜飯・瀬戸内料理)の経営者と同じ。同55年(1980)年末、封切館として再出発するが、同58年(1983)1月閉館。「松山で最も愛された映画館」(おかひろし「映画館は滅びず」『松山百点』vol.254)との評。現在、チェックイン松山。

松山の映画館は上記以外にもあった(昭和30年代のはじめ、松山には30を超える映画館があり、人口比では全国1、2位の乱立状態であったという)。三津にも「永楽座」「電気館」「柳勢座」などの映画館があったが、これについては他日記すことにしよう。

【参考文献】
池田洋三『新版 わすれかけの街 松山戦前・戦後』愛媛新聞社 2002年6月
おかひろし「映画館は滅びず」『松山百点』vol.246(2006年新春号)~257(2007年霜月号)

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三津の商家(江戸時代)

商業都市としての長い歴史をもつ町-三津浜。その三津浜にはどのような商家があったか。江戸時代、三津浜に所在した商家の具体名を「三津町役人名録」(『松山市史料集』第7巻に翻刻)によってみることにしよう。この史料には、享保2年(1717)から天保元年(1830)に至るまでの間の「三津町大年寄」「町年寄」およびそれに準ずる役職の者の名称が記されており、江戸時代の三津の最上層に位置した商家の名称を百有余年にわたって知ることができる。以下に同史料の一部を掲載しよう。まずは享保7年(1722)の欄。

享保七年壬寅正月
大年寄 村山四郎左衛門 天野屋伝兵衛 利屋九郎三郎
町年寄 唐津屋次郎右衛門 成尾屋丈左衛門 米屋半左衛門 下松屋安左衛門 利屋茂兵衛 唐松屋六郎兵衛 神島屋久左衛門 唐松屋六郎右衛門 木地屋庄兵衛 利屋与惣右衛門 米屋市郎右衛門 唐松屋善兵衛 米屋利右衛門


「大年寄」筆頭の「村山四郎左衛門」が屋号ではなく、苗字で記されているのは、苗字の公称を許されていたためであろう。「天野屋伝兵衛」以下は屋号で記されている。天野屋は天野姓。「利屋」(とぎや)は向井姓。「町年寄」筆頭の「唐津屋次郎右衛門」は同家6代目の松田次郎右衛門宗房(1693-1732)であろう。「利屋」「唐津屋」「木地屋」「米屋」はその屋号からすると、創業時はそれぞれ刃物商(利屋)、陶器商(唐津屋)、漆器商(木地屋)、米穀商(米屋)であったと思われるが、「利屋」や「唐津屋」は三津の生魚問屋株を世襲していたりする。「唐津屋」の家業は海産物卸、清酒醸造業であったらしいが、それぞれの商家の家業を特定するのはかなり困難である。
次に享保15年(1730)の欄。

享保十五庚戌年正月
大年寄 村山四郎左衛門 天野助左衛門 利屋九郎三郎 天野喜兵衛
町年寄 利屋伝三郎 唐津屋次郎右衛門 大坂屋平次兵衛 下松屋与左衛門 米屋半左衛門 神島屋久左衛門 唐松屋六郎衛門 片屋忠次郎 茶屋甚助 米屋市郎左衛門 唐松屋善兵衛 米屋利右衛門


「天野屋」は前年までは屋号で記されていたが、この年から「天野助左衛門」「天野喜兵衛」というように苗字で記されている。苗字の公称を許されたのであろう。「唐津屋」の松田家はこの天野家の親族であったという。「大坂屋」は廻船業者兼待宿であったのだろうか。山家清兵衛がこの「大坂屋」に宿泊中、殺害されたという三津の口碑がある。
次に文化7年(1810)の欄。

文化七庚午年正月
大年寄 天野伝次兵衛 利屋団蔵 唐津屋次郎右衛門 門田屋市五郎
町年寄 油屋市左衛門 油屋兵作 浜賀屋庄九郎 成尾屋勘左衛門 利屋佐兵衛 下松屋与左衛門 大坂屋平次兵衛 唐松屋作右衛門 利屋新左衛門 三津屋五兵衛 米屋七右衛門 利屋喜兵衛 
舟年寄 松屋勘左衛門
御礼受与頭 油屋久左衛門 油屋半右衛門 泉屋喜七


この年に「大年寄」として名の出る「唐津屋次郎右衛門」は同家10代目の松田次郎右衛門信順(のぶまさ 1785-1842)。渙卿(渙郷)・浩斎・寒桃・三千雄などとも号した松田信順は『九霞楼詩文集』を編纂した風雅の人である。
次に文政8年(1825)の欄。

文政八乙酉年正月
大年寄 天野伝次兵衛 向井団蔵 唐津屋次郎右衛門
同格 門田市五郎 天野七郎 向井喜八郎
町年寄 門田屋又左衛門 利屋佐兵衛 成尾屋勘左衛門 苫屋庄八 大坂屋平次兵衛 利屋新左衛門 唐松屋十蔵 米屋七右衛門 三津屋五兵衛 利屋喜兵衛 油屋兵作 油屋市九郎 川崎屋儀平
同格 土佐屋太左衛門 利屋久兵衛 苫屋利兵衛
舟年寄 上野屋八左衛門


「向井団蔵」「門田市五郎」は前年まで「利屋団蔵」「門田屋市五郎」。この年より苗字の公称が許されたようである。なお、この向井家からは三津浜築港事業の先駆的功労者向井団四郎(1819-1885)が出る。
以上、「三津町役人名録」の一部を示した。西園寺源透(伊予史談会創立者の一人 1864-1947)によると、天野(天野屋)・松田(唐津屋)・向井(利屋)の三家が三津を代表する大家であったという。

【典拠文献・参考文献】
『九霞楼寄題人名録』(識語・西園寺源透)
松本常太郎『伊予三津浜郷土史年表』三津浜郷土史研究会事務所 1935年9月
松山市史料集編集委員会編『松山市史料集』第7巻(近世編6) 1986年4月
高市俊次「伊予俳人拾遺~九霞楼主人松田渙郷とその周辺について~」(「教育研究集録」第22集 1990年3月)

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三津の商家(幕末)

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三津厳島神社(神田町)の石造玉垣には、幕末、万延元年(1860)の造立部分がある(正面の過半。玉垣横の石柱碑に「玉垣 世話人 乗松勘蔵 岩城金蔵 岡田甚蔵 松本伴次 岡田徳助 田中伊太郎 石工吉村右太郎 万延元申九月吉日」とあることによって、万延元年(同年の干支=庚申)の造立であることがわかる。玉垣の銘に「三津浜国防婦人会」等とある部分(正面東側)は昭和前期の造立であろう)。この万延元年の部分は、造立年代が明確であること、刻まれている銘(寄進者の名)によって、当時の三津の状況が窺い知られることなどから、文化財(市指定クラスの~)としての価値も十分あるように思われる。以下、この部分に刻まれている寄進者名の中から、商家の名称と思われるものを抜き出し、列示してみることにしよう。当時の三津町内にあった大店(おおだな)・問屋のほとんどをこれによって知ることができるのではないかと思う。なお、この玉垣の万延元年造立部分は自身の重みで下部が地中に沈下している。以下に示す名称の多くが「高田屋庄」「大林屋徳」といったように、途中で切れているのはそれ以下の文字を刻んだ部分が地中に埋没していて判読のしようがないためである。この点、あらかじめご了解いただきたい。

高田屋庄 萬問屋 生魚 高田屋庄 大林屋徳 加賀屋庄兵 油屋保次 三好屋利右衛 当町向井氏 松本屋吉次 利屋平九 大坂屋平次兵 吉田屋嘉兵衛 こめや 堀江屋萬助 後藤屋貞助 名田屋惣三郎 白石屋次兵衛 怒和屋孫市 松屋作左衛門 苫屋乙七 苫屋三郎右衛 冨士屋久之 当町門田屋酒店 海老屋七郎右衛 古屋梅太郎 辻屋次右衛 古泉屋銀 立石弥十 木原屋兵 〓屋常次郎 門田屋治左衛門 加賀屋藤五郎 天野屋政 三津屋利兵 梅野屋喜 宇和屋千代蔵 夷子屋金 若林屋久兵衛 同 向井氏 黒星 米屋多十 三津屋七兵 加賀屋荘兵 和気屋久左衛 魚屋八郎兵衛 中屋源助 丸屋新右衛門 利屋捨八 同 向井氏 嶋屋喜左衛 小松屋甚六 三文字屋新七 三津屋清七 永木屋松蔵 米屋元八郎 米屋冨三郎 中嶋屋治兵衛 久田松屋梅次 木地屋荘兵衛 岡田屋多十郎 苫屋喜吉 今田屋佐兵次 天野屋半兵衛 久米屋多四郎 戎屋元兵衛 嶋屋治兵衛 和気屋弥太郎 米屋貞次 油屋〓助 山津屋安次郎 茶屋市太郎 川崎屋儀右衛門 和泉屋市右衛門 天野屋儀兵 中屋與五右衛門 山西屋利左衛門 冨久屋嘉蔵 三津屋次兵衛 三津屋又次兵衛 武蔵屋常次 門屋亀次郎 紙屋嘉助 湊屋安蔵 上野屋安左衛門 江戸屋甚九郎 山崎屋 児嶋屋卓次 宇和屋六兵衛 和泉屋音蔵 久田松屋助七 紙屋文次 三津屋庄五郎 久田松屋安左衛門 松前屋佐市 (〓は磨滅等のため判読不能の文字)


これらの中には、「三津町役人名録」(ブログ6月5日記事)に名の出る商家の名称を多数認めることができる。玉垣の万延元年造立部分にはほかにも「御船手中」の文字や古三津村の豪農の名を刻んだものがある。船手は藩の水軍で、その基地が三津の北端(御船場)にあった。江戸時代の三津浜は大店・問屋が櫛比する商業の町であると同時に、この船手が住まう基地の町でもあったのである。

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